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チャプター【31】

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「いや、そうじゃない。それも症状なんだよ。君はもう、3日目に入っている。ステージ3ということだ。それを証拠に、君の身体の傷は完全に治癒してしまっている」

 久坂に言われて蘭は、着せられている検査衣の袖をめくった。
 久坂が言ったとおり、確かに腕にあった傷が跡形もなく消えている。
 並みの人間ならば、抉られたような深い傷を負いながら、それがわずか2日ほどで完治するはずがない。
 それも、傷痕さえ残っていないのだ。

「私は、丸1日も眠っていたのか……」

 蘭は独り言のように呟くと、久坂に顔を向けた。

「ならば私は、これからバケモノに変異するんじゃないのか。博士。いますぐ、この部屋から出ていったほうがいい」
「その必要はない。君の感染の進行は、そこで止まっている」
「止まっているって、どういうことだ!」

 詰め寄るように蘭が言った。

「君をただ眠らせていたわけじゃないんだ。君の体内からあるものを採取し、それから抗血清を作った」
「私の体内から? その、あるものっていうのはなんだ」
「臍帯血(さいたいけつ)だよ」
「臍帯血って、それは……」
「そうだ。君と赤ん坊をつなぐ、へその緒の中に流れるものだ」
「私の子は、どうした! 無事なのか!」

 怯えたような眼で、蘭は訊いた。

「心配しなくていい。君の赤ん坊は無事に育っている。臍帯血は、赤ん坊を包む羊膜を傷つけることなく採取したからね」
「そうか。よかった……」

 蘭は、ほっとして息をついた。

「これも、君の許可なくおこなったことだが、君の赤ん坊を護るためにも必要だったことなんだ。許してほしい」

 久坂がまた、頭を下げようとするのを、

「頭は下げなくていいよ、博士」

 蘭は止めた。

「そのお蔭で、私はバケモノに変異しないですむんだ。それに、私の子も無事に育っている。頭を下げるの私のほうだよ。だが、さすがは科学者だな。どうやって、臍帯血が感染の進行止めるとわかったんだ」
「正直に言えば、なにもわかっていなかったよ。ただ、自宅で君の傷の手当てをしているときに、君の腹部が少し膨らんでいることに気づいた。それで、君が妊娠をしていることがわかったんだ。そしてわたしは、賭けてみようと思ったんだよ。君と赤ん坊とをつなぐへその緒、臍帯にね」
「――――」
「本来、母親がウイルスに感染していたとしても、母体と胎児は血液の共有がないから血液での感染はないが、しかし、胎児は臍帯を介して栄養素や抗体、酸素を受け取っている。この臍帯にある臍帯血の中には、成人の末梢血では見られない造血幹細胞が存在している。それは、白血球が多く作られているということだ。白血球の5%を占めるマクロファージは、細菌やウイルスを取りこむ。それを食作用と言うんだが、要するに病原体を攻撃して撃退するのさ」
「だが、博士。白血球なら、だれにでもあるじゃないか。なのに、私は感染した」
「そうだ。君の言うとおりだよ。だからこそわたしは、これからこの世へ誕生してくる生命の神秘の力に賭けたんだ。君の赤ん坊が感染していなければ、臍帯血を使って特効薬を作ることができるんだからね。もう、藁にもすがる思いだったよ」
「なら、私の子は、感染していなかったんだな」

 蘭が訊いた。
 久坂はそこでわずかに間を空けると、

「いや……」

 顔をしかめた。

「いやってどういうことだ。感染していないから、臍帯血を使って抗血清を作ったんじゃないのか!」

 蘭が声を荒げた

「その逆なんだ。君の赤ん坊は、感染していたからこそ、抗血清を作ることができたんだよ」
「ふざけるな! 私の子は、無事に育っていると言っただろうがッ!」

 蘭は久坂を睨んだ。
 その眼が、金碧色に光を帯びた。
 そのときドアが開いて、外で待機していたさきほどの男ふたりが入ってきた。
 その男たちは、OMEGAのS・M・T(特殊機動部隊)の隊員だった。
 その隊員ふたりを、久坂は手で制し、

「蘭、落ち着け。いいか、落ち着いて聞くんだ。君の赤ん坊は確かに感染はしていたが、その感染の進行が、いまの君と同じように止まっていたんだ」

 そう説明した。
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