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チャプター【33】

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「思い出したって? それは、記憶が甦ったということかな」

 久坂が訊いた。

「そうだ。残酷なまでの、現実を……」

 いま目覚める前に見た夢が現実の出来事だということを、蘭は思い出したのだ。

「私を呼び止めたということは、それを話すつもりでいるということなんだね」
「ああ」

 蘭はうなずいた。
 そして、夫の無残は死と、自分に起きたことを久坂に話した。

「そうだったのか……。ご主人のこと、さぞや辛いだろうね」

 話を聞き終えて、久坂は、うなだれる蘭の肩にそっと手を置いた。
 わずかな沈黙を置いて、

「いまの話によれば、やつらは君を探したということになるな。それにしても、1000年前というのは、いったいどういうことなんだ」

 久坂が言った。

「九鬼は、俺の遺伝子を共有すれば、すべてを思い出すと言った。だが、いま語ったこと以外は、なにも思い出せない」
「そうか。だが、これでわかった。感染者は襲わないはずのセリアンが、なぜ君を襲ったのか。その理由がね。やつらにすれば、君は特別な存在だ。だから、自分たちのところに置いておこうとした。しかし、君はやつらのもとから逃げ出してしまった。そこで、セリアンと化したふたりに君を追わせたんだ。君に傷を負わせてでも、連れ帰るつもりでね。それと、もうひとつわかったことがある。月よりの感染者、最初の5人(アルファ)が、行動をともにしているということがね」
「――――」

 蘭はうなだれたまま、黙していた。

「蘭。君にはまだ、話していなかったことがある。君を感染させた、九鬼兼次のことだ」

 久坂の言葉に、蘭は顔を上げた。

「彼は、半年前に月へと探索に向かったシャトル、つきかげ号の船長(コマンダー)だった――。つきかげ号のクルーたちは、月でのミッション中に、地球外生命体に遭遇したんだ。船長を初め、クルーたちはその生命体に、口や鼻、または耳などから体内へと侵入されたと思われる。なぜなら、感染した者には咬まれた痕があるが、彼らの身体には外傷が見られなかったからだ」
「地球外生命体? 未知なる細胞体ではなかったのか」
「そうだ。その未知なる細胞体こそが、地球外生命体なんだよ」
「――――」

 蘭はそこで、九鬼兼次という男が、自分の名を「この肉体の名だ」と言っていたその理由がよくわかった。

「だが、どういうことだ。つきかげ号が月へ行き、無事に帰還したことは知っている。だが、クルーの身体に地球外生命体が侵入したなどと、そんな報道は一切なかったはずだ」
「当然の処置だよ。ましてや、九鬼をふくむクルーたち5人は、JAXA(ジャクサ)から逃走して行方がわからなくなってしまっている。もしそんなことを表沙汰にすれば、どうなると思う。日本はおろか、世界中がパニックに陥る」
「しかし、だからと言って……」

 蘭は斜めに顔を伏せて、唇を噛んだ。

「君からすれば、納得のいかないことだろう。そう思うのは自然な反応だよ。君の上に起こったことは、耐えがたき不幸だ。それによって、心に負った傷の深さは、わたしなどには計り知れるものではない。だが、蘭。真実を明かさぬことで、成り立つ安定というものがあるんだ」
「――――」

 蘭は顔を伏せたまま、押し黙った。

 久坂が言ったことは正論だった。
 地球外生命体に襲われた人間が逃走し、行方がわからなくなっているなどと報道すれば、人々がパニックに陥るの は火を見るよりも明らかなことだった。
 人間が平常心を失う要素は多々あるが、その中でもパニックにまで陥らせるのは恐怖であると言っても過言ではない。
 それが地球外生命体ともなれば、なおさらのことだ。一度パニックに陥れば、恐怖は脳内で増大する。
 見るもの聞くものすべてが冷静に受け止められず、恐怖の連鎖は広がっていく。
 思考回路は麻痺し、理性やモラルなど瞬く間に吹き飛んでしまう。
 そうなってしまえば、人間は何をするかわからない。
 狂気にも似た人間の行動は暴挙となり、収拾がつかなくなってしまうであろう。
 それを考えれば、ただ無闇に真実を明かせばいいというものではない。
 まさに、真実を明かさぬことで成り立つ安定があるのだ。
 蘭はそれを理解していた。
 だが、理解していながら、身体の奥底からこみ上げてくる怒りと憎悪を、どうしても打ち消すことができなかった。
 そして、その次にこみ上げてきたのは、底知れぬ恐怖だった。
 地球外生命体という得体の知れぬものが、感染という形で自分の身体に入りこんでいるのだ。
 たとえ、臍帯血から作った抗血清の効力によって、感染の進行が停止しているとはいえ、やはり恐怖を感じぬわけがなかった。
 その恐怖に耐えるように、蘭は拳を握りしめ、歯を食いしばり、白い床を睨みつけていた。
 それでも、蘭の身体は小刻みに震えていた。

「蘭。大丈夫か」

 蘭の様子を見て、久坂は訊いた。

「ああ。大丈夫だ。大丈夫だから、独りにしてくれないか」

 そう言う蘭に、久坂はまた何か言おうとし、だが、開きかけた口を閉じて、そのまま部屋を出ていった。
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