上 下
36 / 71

チャプター【36】

しおりを挟む
 隔離室の前には、5名の隊員がいた。
 その5名は、蘭が来ると隔離室のドアから離れた。
 すでに、蘭を先導した隊員が、肩の無線で連絡を入れておいたのだった。
 蘭は、ドアの前に立った。

「中には、私ひとりで入る」

 その言葉に、隊員のひとりがうなずき、ドアを開けた。
 蘭が隔離室へと入り、ドアはすぐに閉められた。
 ベッドの横に、感染者がうなだれて立っていた。
 長い髪が垂れて、その顔は見えない。
 床には、男の研究員スタッフひとりと、S・M・Tの隊員ふたりが倒れている。
 スタッフのほうは、首のつけ根を咬まれてぐったりしているが、隊員のふたりは、首が真後ろにねじ曲がっていた。
 すでに絶命しているのがわかった。
 感染者が、ゆっくりと顔を上げて蘭を見た。

「なんだ、今度は女じゃないか。君は、僕への貢物?」

 顔を上げても、前髪が感染者の顔を隠している。
 それでも、垂れた髪の隙間から、鈍く光る眼と唇が覗いていた。
 唇の端がつり上がっているのが見える。
 感染者は、にたりと嗤っていた。

「貢物は、おまえのほうさ。私がここから出るためのね」

 蘭が動いた。
 と思うと、感染者が後方へと吹き飛んでいた。
 いったい何をしたのか。
 それは、肉眼では追えないほどの疾(はや)さだった。
 壁に叩きつけられた感染者は、倒れることなく、ゆらりと立っていた。

「へへへ。これは驚いたな。君は、何者だい?」

 髪の隙間から覗く眼が、鈍い光を放った。

「おまえを、排除する者さ」

 蘭がそう口にしたとたん、感染者の姿が眼前にあった。

「うぐッ……」

 蘭は、首を感染者に鷲づかみされていた。

「いまのって、ジョーク? とっても笑える。けど、もう死んでいいよ」

 上目使いの眼が、ぎろりと蘭を睨んだ。首を摑む右手に、力がこめられる。

「ぐくッ……」

 蘭は、感染者の手首を摑んだ。

「!――」

 感染者が、不思議そうに小首を傾げた。
 その感染者の右手が、蘭の首から徐々に離れていく。

「へえ。凄いんだね、君。ここに倒れているふたりの首は、小枝ようにぽきりと折れたのに……あ、そうか、わかった。君は、僕の仲間なんだ」
「ふざけるな。私を、おまえと一緒にするんじゃない」

 首から右手が離れても、蘭は感染者の手首を離さなかった。

  ぼきッ!

 鈍い、嫌な音がした。
 そこで蘭は、感染者の手首を離した。
 感染者は、自由になった右腕を上げて見つめた。
 手首から先が、異様な角度でだらりと垂れ下がっている。

「おまえの手首も、小枝のようだな」

 蘭は、唇の端に笑みを浮かべた。

「ほんとだ。ハハ、折れちゃった」

 感染者は、けらけらと嗤った。

「君って、ほんとに凄いよ。僕、興奮してきちゃった。君となら、存分に遊べそうだね」

 折れた手首を庇おうともしない。
 それどころか、面白そうにぶらぶらと動かしている。
 痛みを、感じていないようだった。

「おまえと遊んでいる暇などないんだよ」

 瞳が金碧色の光が帯びた。

「うわ。いいな、その眼。その眼球、欲しいな。僕にくれない?」

 そう言うとともに、感染者が動いた。
折れたほうの腕で、蘭に殴りかかっていった。
 その腕を、蘭は左手の甲で弾き、感染者の顔面に右拳を叩きこんだ。

  へぎッ!

 またも、鈍い音がした。
 感染者の鼻が陥没していた。
 鼻血が溢れ出す。

「べひひぃ!」

 それに構わず、感染者は蘭に向かっていく。
 その感染者の左頬に、蘭の右のカウンターが入る。
 そして、すかさず左拳を叩きこみ、さらにまた右拳を入れていく。
 拳の連打を受けながら、感染者はうしろへ下がっていく。
 しかし、垂れた髪の奥に覗く顔は嗤っている。
 数発目の拳を打ちこんだとき、その打ちこんだままの姿勢で蘭の動きが止まった。
 蘭の右拳が、感染者の口の中に、すっぽりと収まっていた。
 蘭の右拳が打ちこまれたとき、感染者は大きく口を開いて、その拳を咥えこんだのだった。
しおりを挟む

処理中です...