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チャプター【37】

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「くッ!」

 蘭は拳を引き抜こうとするが、がっちりと咥えこまれていて抜くことができない。

「それなら、こうするまでだ!」

 言うと蘭は、咥えこまれた拳を握りしめると右肩に力をこめ、足を前へと踏み出した。

「うらああああッ!」

  ドゴォンッ!

 凄まじい音が響いた。
 感染者の後頭部が、壁に叩きつけられていた。
 叩きつけられた衝撃で、感染者の後頭部が砕け、白い壁に鮮血が飛び散った。
 感染者は、両腕をだらりと下げたまま動かなかった。
 蘭は、拳を引き抜いた。
 とたんに、感染者は、ずるずると崩れ落ちた。
 蘭は、大きく肩で息を吐いた。
 と、そのとき、

「あーあ、壊しちゃった」

 背後で声がした。

「なに!――」

 蘭は、すぐさまふり返る。
 そこには、感染者が立っていた。

「ばかな……どういうことだ!」

 眉根をよせて、蘭は言った。

「どうもこうもないよ。君はさっきから、その操り人形と闘っていたのさ」

 感染者は答えた。

「――――」

 蘭は、ちらりと後方へ眼をやった。
 そこに斃(たお)れていたのは、首をへし折られて斃れていたS・M・Tの隊員のひとりだった。
 感染者はいつ、その隊員とすり替わったのか。
 蘭と闘っていたのも、壁に後頭部を叩きつけられたのも、それは確かに感染者だった。
 なのにいま、壁の前に斃(たお)れているのは隊員なのであった。
 いったい、どういうことなのか。

「おまえ、なにをした! 答えろ!」

 蘭が言った。

「あのさァ。ふつう、そういうこと訊かないよね。だいたいさ、『はい、そうですか』って、答えたりしないでしょ。でも、いいよ。僕って素直だから、答えてあげる。僕が触れたものはね、なんにでも変えることができるんだ。だから、君のことも、パッと違う生き物に変えられるんだよ。それに、僕の意識を入れることもできるんだ。凄いと思わない? たださ、この能力を使ってまだ間がないから、変えられるのは3分程度なんだよね」

 感染者は、自分の能力をぺらぺらと喋った。

「それが、おまえの特異能力というわけか」
「特異能力? へー、それって、自分だけの能力って感じで、いいね。そっか、この能力って特異能力って言うんだ。フーン」

 感染者は関心したように言うと、

「ねえ。君には、どんな特異能力があるの?」

 訊いた。

「ふつうは、そういうことを訊かないんじゃなかったのか。私はおまえと違って、自分の能力をぺらぺらと喋ったりしない」

 蘭はそう返した。

「なんだ、つまらない。君は秘密主義者なんだね。だけど、僕はうれしいよ。こんなに早く、仲間に出会うことができてさ」
「おまえと一緒にするなと、さっきも言ったはずだ」

 感染者を、蘭は睨みつけた。

「うわ! 恐いよ、その顔。それに君って、男みたいな話しかたをするんだね。以前もそんな話しかたをしてたわけ?」
「――――」
 蘭は、虚を突かれたように、言葉を返せなかった。
 感染者に言われて、そこで初めて気づいたのだ。
 以前、そう感染前は、こんな話しかたをしていなかった。
 それを、いまのいままで気づきもしなかったのだ。

「あれ? まさか、自分が変わったこと、気づいてなかったんだ。僕はすぐに気づいたけどな。自分の潜在にある本質があらわになって、欲求や欲望が溢れ出してきたって感じでさ、とても素晴らしい感覚だったよ。それまでの僕は、内向的で臆病な人間だったから、生まれ変わった気がした。いや、実際に僕は、生まれ変わったんだ。君も、そんな感覚を味わっただろう?」

 感染者は、へらへらと嗤(わら)っている。

「だから、なんども同じことを言わせるな。おまえは、ただのバケモノだ! そんなやつと同類に思われるだけで、虫唾が走る」

 蘭は、唇の両端をつり上げるように開いた。
 牙のように長く伸びた犬歯が覗く。

  ぐる……

 喉が鳴った。

「そう言う君だって、バケモノじゃないか。いまのその自分の顔、見たことがあるのかい? まるで獣のようだよ」
「黙れッ!」

 蘭の右手に蒼い光が帯びた。
 その右手がぴくりと動いた。
 しかし、動いたのはそれだけだった。

「わお。それが、君の特異能力なんだ。あまりに疾すぎて、躱(かわ)すこともできなかったよ」

 そう言うと、感染者は両腕を上げた。
 その両腕から、手首が消失していた。
 切断されていたのである。
 手首は、感染者の足許に転がっていた。
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