上 下
49 / 71

チャプター【49】

しおりを挟む
 夕刻――
 靖国通りを挟む街並みは、沈みかけた陽の光に茜色に染められている。
 東の空には、わずかに欠けた月がすでに昇り、それとは逆の西の空に眼をやれば、やはり茜色に染められた雲が浮いている。
 墨を混ぜたようなその色は、茜色と言うよりも血の色に近い。
 充分に吸った血が、いまにも滴り落ちてくるのではないかとさえ思わせる。
 車が行き交うスクランブル交叉点。
 信号が変わるとともに、対峙していた歩行者が一斉に歩き出す。
 人と人がすれ違っていく。
 その交叉点の中間付近で、新宿駅方面からふらふらと歩いてきたひとりの男が立ち止まった。
 薄汚れた紺地のコートはを着たその男は、立ち止まったままうつむいている。
 コートの内側に着ている服は垢にまみれ、チノパンらしきズボンの両膝は破けて、そこから地肌が覗いていた。
 一目で、ホームレスであることがわかった。
 もう、どれほど風呂に入っていないのか。
 男の衣服、そして身体から汗や尿の入り混じった異臭が放っている。
 その異臭が鼻を衝く。
 すれ違う歩行者は、露骨に顔をしかめていった。

「臭ッせーんだよ、ジジィ!」
「ホームレスは公園で寝てろよ!」

 若者たちにそんな罵声を浴びせられても、男には気に留める様子はなかった。
 と、ふいに、

  ぐ、ひゅぅ……。

 そんな、風とも声ともつかない音が聴こえた。

  ごご、ひひゅる……

 それは、獣が喉を鳴らす音に似ていた。
 と、そのとき、歩行者用の信号が点滅しはじめた。
 歩行者は、足早に交叉点を渡っていく。
 信号が変わり、車が動き出しても、うつむいたままの男はまったく動く気配を見せない。
 クラクションが鳴る。
 それでも男は動かない。

「おいッ! 邪魔だ、どけッ!」

 クラクションを鳴らした運転手がウインドウを開け、男を怒鳴りつけた。
 それでもまだ、男は動かない。

  ぐご……。
  ひしゅるぅ……。

 また、音が聴こえた。
 それは、男の鼻と喉が鳴っている音だった。

「オイ! 聴こえねえのかよ!」

 業を煮やした運転手は、車を降りて男のもとへ向かった。

「シカトしてんじゃねえよ!」

 運転手が男のコートの肩口を掴むと、

「うッ、なんだ、この臭い! 臭せえな」

 思わずもう片方の手の甲で、鼻を押さえた。
 すると、男が、コートの肩口を掴んでいる運転手の腕を鷲づかみにした。

「なにすんだ、このやろうッ! は、離せ、てめえ!」

 運転手が、男の手をふり払おうとする。
 だが、男の力が強く、ふり払うことができない。
 それどころか、力がさらにこめられてきて、運転手の腕がみりみりと軋んでいく。

「痛えじゃねえかよ、てめえッ! 離せって言ってるだろうがよ!」

 運転手がそう言ったそのとき、べきり、と鈍い音がした。

「ぐあッ!」

 運転手の腕の骨が砕けたのだ。

「ちくしょう……。俺の腕を、折りやがった……」

 運転手の顔が苦痛にゆがんだ。
 男が、ゆっくりと顔を上げた。
 前髪がべったりと額に貼りついている。
 眼が見開かれ、真っ赤に充血し、唇の両端が異様につり上がっていた。
しおりを挟む

処理中です...