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チャプター【49】
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夕刻――
靖国通りを挟む街並みは、沈みかけた陽の光に茜色に染められている。
東の空には、わずかに欠けた月がすでに昇り、それとは逆の西の空に眼をやれば、やはり茜色に染められた雲が浮いている。
墨を混ぜたようなその色は、茜色と言うよりも血の色に近い。
充分に吸った血が、いまにも滴り落ちてくるのではないかとさえ思わせる。
車が行き交うスクランブル交叉点。
信号が変わるとともに、対峙していた歩行者が一斉に歩き出す。
人と人がすれ違っていく。
その交叉点の中間付近で、新宿駅方面からふらふらと歩いてきたひとりの男が立ち止まった。
薄汚れた紺地のコートはを着たその男は、立ち止まったままうつむいている。
コートの内側に着ている服は垢にまみれ、チノパンらしきズボンの両膝は破けて、そこから地肌が覗いていた。
一目で、ホームレスであることがわかった。
もう、どれほど風呂に入っていないのか。
男の衣服、そして身体から汗や尿の入り混じった異臭が放っている。
その異臭が鼻を衝く。
すれ違う歩行者は、露骨に顔をしかめていった。
「臭ッせーんだよ、ジジィ!」
「ホームレスは公園で寝てろよ!」
若者たちにそんな罵声を浴びせられても、男には気に留める様子はなかった。
と、ふいに、
ぐ、ひゅぅ……。
そんな、風とも声ともつかない音が聴こえた。
ごご、ひひゅる……
それは、獣が喉を鳴らす音に似ていた。
と、そのとき、歩行者用の信号が点滅しはじめた。
歩行者は、足早に交叉点を渡っていく。
信号が変わり、車が動き出しても、うつむいたままの男はまったく動く気配を見せない。
クラクションが鳴る。
それでも男は動かない。
「おいッ! 邪魔だ、どけッ!」
クラクションを鳴らした運転手がウインドウを開け、男を怒鳴りつけた。
それでもまだ、男は動かない。
ぐご……。
ひしゅるぅ……。
また、音が聴こえた。
それは、男の鼻と喉が鳴っている音だった。
「オイ! 聴こえねえのかよ!」
業を煮やした運転手は、車を降りて男のもとへ向かった。
「シカトしてんじゃねえよ!」
運転手が男のコートの肩口を掴むと、
「うッ、なんだ、この臭い! 臭せえな」
思わずもう片方の手の甲で、鼻を押さえた。
すると、男が、コートの肩口を掴んでいる運転手の腕を鷲づかみにした。
「なにすんだ、このやろうッ! は、離せ、てめえ!」
運転手が、男の手をふり払おうとする。
だが、男の力が強く、ふり払うことができない。
それどころか、力がさらにこめられてきて、運転手の腕がみりみりと軋んでいく。
「痛えじゃねえかよ、てめえッ! 離せって言ってるだろうがよ!」
運転手がそう言ったそのとき、べきり、と鈍い音がした。
「ぐあッ!」
運転手の腕の骨が砕けたのだ。
「ちくしょう……。俺の腕を、折りやがった……」
運転手の顔が苦痛にゆがんだ。
男が、ゆっくりと顔を上げた。
前髪がべったりと額に貼りついている。
眼が見開かれ、真っ赤に充血し、唇の両端が異様につり上がっていた。
靖国通りを挟む街並みは、沈みかけた陽の光に茜色に染められている。
東の空には、わずかに欠けた月がすでに昇り、それとは逆の西の空に眼をやれば、やはり茜色に染められた雲が浮いている。
墨を混ぜたようなその色は、茜色と言うよりも血の色に近い。
充分に吸った血が、いまにも滴り落ちてくるのではないかとさえ思わせる。
車が行き交うスクランブル交叉点。
信号が変わるとともに、対峙していた歩行者が一斉に歩き出す。
人と人がすれ違っていく。
その交叉点の中間付近で、新宿駅方面からふらふらと歩いてきたひとりの男が立ち止まった。
薄汚れた紺地のコートはを着たその男は、立ち止まったままうつむいている。
コートの内側に着ている服は垢にまみれ、チノパンらしきズボンの両膝は破けて、そこから地肌が覗いていた。
一目で、ホームレスであることがわかった。
もう、どれほど風呂に入っていないのか。
男の衣服、そして身体から汗や尿の入り混じった異臭が放っている。
その異臭が鼻を衝く。
すれ違う歩行者は、露骨に顔をしかめていった。
「臭ッせーんだよ、ジジィ!」
「ホームレスは公園で寝てろよ!」
若者たちにそんな罵声を浴びせられても、男には気に留める様子はなかった。
と、ふいに、
ぐ、ひゅぅ……。
そんな、風とも声ともつかない音が聴こえた。
ごご、ひひゅる……
それは、獣が喉を鳴らす音に似ていた。
と、そのとき、歩行者用の信号が点滅しはじめた。
歩行者は、足早に交叉点を渡っていく。
信号が変わり、車が動き出しても、うつむいたままの男はまったく動く気配を見せない。
クラクションが鳴る。
それでも男は動かない。
「おいッ! 邪魔だ、どけッ!」
クラクションを鳴らした運転手がウインドウを開け、男を怒鳴りつけた。
それでもまだ、男は動かない。
ぐご……。
ひしゅるぅ……。
また、音が聴こえた。
それは、男の鼻と喉が鳴っている音だった。
「オイ! 聴こえねえのかよ!」
業を煮やした運転手は、車を降りて男のもとへ向かった。
「シカトしてんじゃねえよ!」
運転手が男のコートの肩口を掴むと、
「うッ、なんだ、この臭い! 臭せえな」
思わずもう片方の手の甲で、鼻を押さえた。
すると、男が、コートの肩口を掴んでいる運転手の腕を鷲づかみにした。
「なにすんだ、このやろうッ! は、離せ、てめえ!」
運転手が、男の手をふり払おうとする。
だが、男の力が強く、ふり払うことができない。
それどころか、力がさらにこめられてきて、運転手の腕がみりみりと軋んでいく。
「痛えじゃねえかよ、てめえッ! 離せって言ってるだろうがよ!」
運転手がそう言ったそのとき、べきり、と鈍い音がした。
「ぐあッ!」
運転手の腕の骨が砕けたのだ。
「ちくしょう……。俺の腕を、折りやがった……」
運転手の顔が苦痛にゆがんだ。
男が、ゆっくりと顔を上げた。
前髪がべったりと額に貼りついている。
眼が見開かれ、真っ赤に充血し、唇の両端が異様につり上がっていた。
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