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第1章至る平安
救い
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香子は、父の任期満了を待たずに帰京した。
とある人物から求婚の誘いを受けていたためである。
物語への情熱が少しだけ減っていた彼女はこれを受けることにした。
女としての幸せを追ってみたいという気持ちがあった。
結婚相手の藤原宣孝は、身分は決して高いとは言えないが、優しく接してくれた。20歳年上で、すでに三人の妻がいるということを気にしなければの話である。香子としては、嫌だったが、貴族として仕方がないことであると、納得もしていた。
娘も生まれ、悪くない結婚生活だった。
夜が訪ねてくることもあったが、話も聞かずに追い返した。
彼女の胸は、夜に拒絶された越前に行く前の会話が、ずっと刺さっていて離れなかった。自分よりも、別のことを取った夜のことが許せなかった。
しかし、数年が過ぎたとき、彼女は宣孝に彼の家に入るように言われてしまう。
なんでも、これまで家の差配を取り仕切っていた妻が死んでしまったということだった。
父の屋敷に住み、宣孝の通ってくるのを待つ形の結婚生活は、こうして終わりを迎えた。
期待半分、不安半分で宣孝の屋敷についた彼女は、その不穏な様子に思わず顔をしかめた。
荒れ放題の庭。
なぜか血のようなものが見える屋敷内の柱。
抱きかかえた愛娘を、しっかりと持ち直す程度には不気味な屋敷だった。
「よくきた。今日から、ここがお前の家だ。」
宣孝が歓迎するように両手を広げる。
その目は、ゾッとするように冷たかった。
香子がついぞみたことのない酷薄な表情である。
思わず身震いをしてしまう。
「そんなに緊張することはない。本番は夜だ」
夫の言葉も、彼女の不安を和らげるには役に立たなかった。むしろ、不安を増強している。
どうにも怪しい。そう考えた彼女は、愛娘を最も信用できる使用人に預けて、元の屋敷に返させた。まだあちらにも残っているものはいる。
彼らが世話をすれば当分大丈夫だろう。
その夜。香子は地獄を見た。
この生者の世界に、こんなものが存在していいのか。自分が夫と呼び、愛情を持ち、娘までこさえた存在は一体なんだったのか。
麻鞭で背中を叩かれながら、彼女は思考を、とりとめもなく飛ばしていた。
朝になり、宣孝が出かけたとしても、香子の苦しみは終わらない。
縄を手錠のようにかけられて、地下の部屋に閉じ込められ何処にも逃げることは許されない。ただ、愛娘をこの地獄から逃すことができたことが救いだった。
どうしてこうなってしまったのか。
彼女にはわからない。
夕方帰ってきた宣孝は、これまでの好々爺じみた雰囲気が完全に抜けていた。
ただ、弱者をいたぶり嬲ることに快感を覚える精神異常者のままだった。
彼は、この屋敷においては豹変する。だが、それは、自分の所有する相手だけであり、使用人には手を出さない。使用人達も、彼の行為を絶対に秘匿する、口の固いもの達しかいない。宣孝の奇行が外に漏れることはなかった。
つまり、この家に来てしまったことだけが、香子の失敗だった。
いつも通り、宣孝を通わせていれば、こんなことにはならなかっただろう。
香子の目から光が失われるのはそう遅いことではなかった。
ただひたすら、拷問じみた虐待を受けさせられ、日中は放置される。飯だけは、たっぷり出てくるが、それもまた、拷問を長く楽しみたいがためである。
もう、彼女に頼れるものは何一つ残っていなかった。
いや、一つだけ残っていた。
夜が、越前に行く以前に香子に渡した式神。
夜に関わるものが煩わしくなって放り捨てたはずのそれが、フヨフヨと、誰も入ってこれないはずの地下の牢獄に漂っていた。
香子はそれを無感動に見つめる。
頭でそれがなんなのか考える余裕すら、今の彼女にはなかった。
だが、それが、書くことの可能な物体であるということだけは、理解できた。
小説家としての彼女の本能はこんな土壇場でも、力を発揮する。
血に濡れた小指を突き出した。
「たすけて」
それだけを書いて、彼女の指は力なく垂れ下がる。これが今の彼女の精一杯だった。式神は、そのままふわふわとその場を飛び去っていった。
その夜もまた、宣孝による拷問は続いた。
妻が壊れて死ぬまで、彼が拷問を続けるであろうことは、想像に難くない。
宣孝は、香子の顔を持ち上げて、にたりと笑った。
これは、平手打ちが飛んでくる合図だ。
後ろ手に縛られて避けることも、衝撃を逃すこともできない。
彼の手が大きく振り上げられる。
それをほっそりとしたしなやかな手が掴んだ。
「あ? なんだ、お前は?」
いきなりの邪魔に、宣孝は不満を隠さない。
「わしが楽しんでいるときは誰も入れるなと言っていただろう?」
振り返る宣孝の顔が、驚きで固まる。
「よお? お楽しみみたいだなあ?」
怜悧な顔をした黒髪の美人が、牙をむき出しにして笑っていた。
「随分と俺の最推しを傷つけてくれたな?生半可な苦しみで終われると思うなよ?」
取り繕うこともせずに、夜はその凶暴性を剥き出しにする。
「おい、誰か、こいつを抑えろ!」
「誰も残ってるわけないだろ?俺が全員倒した。」
「なんなんだよ、お前は!!!」
「俺は夜。不老不死の吸血姫だ。」
伸びた爪が、宣孝の脳髄を貫いて、後ろの壁に激突した。
急所をわざと外したからか、宣孝はうめき声をあげるが、手も足も動かず、苦しむことしかできない。
爪を放り捨てると、そこには、磔(はりつけ)になった宣孝が残されるのみだった。
宣孝を処理した夜は、大慌てで地面に倒れる香子を背負った。
早く治療のできる場所に運ばなくてはいけない。
「香子、絶対に死ぬな。」
夜が心の底から望でいることがよくわかる、とても真剣な声だった。
気が動転して、彼女は気づかなかった。
意識を失ったかに見えていた香子が、全てを聞いていたことを。
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