紀ノ川さんの弟が何を考えているのか分からない

糸坂 有

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二十三

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「弟」
「っ」
 顔を上げた弟は、驚きという文字を顔に張り付けていた。慌てたように百面相を始める。
「い、ずみい、さん。こんにちは。こんなところで会うなんて思わなかったので、驚きました」
 ははは、と取ってつけたような、見慣れない笑顔である。こんな顔、中学生の時には見たこともない。これが、弟が大人になるということなのであれば、俺はちょっと嫌だった。
 真っ直ぐに弟の目を見る。弟の背は、気付けば俺と同じくらいになっていた。ずいぶん伸びたものである。体格も、以前よりずっとがっしりとしている。子犬的な可愛さを持っていた中学生時からうって変わり、番犬のような凛々しさが垣間見える。万が一殴り合いになった場合、俺は負けてしまうかもしれないな、なんてことを頭の隅で考えた。
「好きな人って、誰?」
 よけいなことは考えず、真っ直ぐ言葉を飛ばした。
「中二の時も言ってたよな、好きな人がいるって。あの時と同じ人? 違う人?」
「……聞いてたんですね」
「最近俺、弟をストーカーしてたんだ」
「はい?」
「告白されるなら、言っておいてくれないと。いつも通り後を付けてたら、こんな現場に遭遇してさ。俺だって、そこはちゃんと弁えてるつもりだから」
 弟は、目を瞬かせていた。理解が追いつかないという顔だ。弟が理解しようがしまいが、俺の訊くことは同じである。お構いなしで、続けた。
「あと、俺、やっぱり何かしたんだよな? あまりにも態度が違うから、どうしたのかなってずっと思ってて。ちゃんと、話してくれないか」
 一歩詰め寄ると、一歩後ずさる。以前とは立場が逆転していた。弟は視線を下げるばかりだ。目が合ったのは、最初の瞬間だけである。
「悪いのは僕なんです」
「そういうことを聞きたいんじゃない」
「泉井さんは、何も悪くないんです。不快な思いをさせている自覚はありますが、どうしようもないんです」
 弟は、じりじりと距離を取っていく。今にも逃げ出しそうな様子に、奴の右手を掴んだ。せっかく二人になれたチャンスを、棒に振るつもりはない。
「すいません、離してもらえませんか」
「嫌だ」
「お、お願いですから!」
「じゃあ、自分で振り払えよ」
 本気で嫌なら、そうやって逃げることくらい簡単なはずだ。弟は、困惑した顔でぎゅうと唇を噛み締めた。困らせているのは明らかだ。それでも、俺は引かなかった。今までさんざん俺を困らせて来たのはそっちの方だ。いっそう、手に力を込めた。
「あまりにも一方的過ぎだろ。ちゃんと話してくれないと、どうしたら良いか分からない。謝ってほしいわけじゃないんだ」
「泉井さんは、何もする必要はないんです。普通に、幸せに暮らしていれば良いんです」
「だから、そうじゃなくて」
 埒が明かない。弟は、俺との会話を拒否していた。目も合わない。いったい何が弟をそうさせるのか、俺には分からない。
「頼むよ。俺、ずっと弟のことばっかり考えてんだぞ」
 同情でも何でも良い。とにかく、俺は弟の気を引こうと言葉を紡ぐ。
「気になって気になって、夜は寝るけどさ、学校に来ると、弟がいるだろ。嫌でも考えるんだよ。俺の成績が下がったらどうしてくれる? 俺、高三なのに」
「え。え、え、と」
 弟の様子が変わった。被っていた仮面にひびが入ったような顔をしている。
「中学生の時はあんなに可愛かったのに、何だよ今は。ろくに話すら出来ないの、おかしくない? なあ、弟は――」
「僕、可愛かったですか?」
「え?」
 気付けば、懐かしさを覚えるような笑みを浮かべ、弟は立っていた。
「中学生の時の僕、可愛かったんですか?」
「ま、まあ、そう、かな? ほら、今より背も低かったし、可愛げはあったんじゃないかと」
「泉井さんは、僕のことばかり考えてるんですか?」
「そ、そりゃあ、こんなに避けられたら普通に考えるだろ」
 かつてのやり取りを思い出す。確か、俺が高一の時は、こんな感じで弟と頻繁に会話をしていた。至近距離で視線が合ったと思うと、弟は両手を顔の前に出して自分の頬をべちんと叩いた。けっこうな音量である。
「急にどうした」
「僕だって、ずっと泉井さんのことばかり考えてます。だから、駄目なんです」
「え。いや、え?」
 弟の左手が、俺の手首を掴んだ。
「この手、離してもらえませんか」
「嫌だって言ったら、どうするんだよ。このまま無理やり引き剥がすか?」
「今の僕は、冷静です」
「は?」
「お願いします」
 あまりにも悲痛な声だった。離してやった方が良いのでは、とどこかで声がする。今までさんざんしてきたのはこいつだろ、とどこかで声がする。
「……弟、でかくなったな。手の大きさも、俺とあんまり変わらないんじゃないか」
「泉井さん」
「分かったよ。俺、年上だしな」
 手を離すと、弟は俺が握っていた箇所をぎゅうと握り、後ずさりするようにしてから駆け出した。走りで奴に敵わないことを、俺は身をもって知っている。元より、追いかける気はない。陸上部の奴とは違って、俺なんてただのクッキングボーイだ。
 結局、チャンスを棒に振った。一瞬でも懐かしいやり取りが出来たことが、せめてもの慰めだろうか。やっぱり、振り回されているのはいつだってこっちなのだ。
「ごめん、聞こえた」
 顔を上げる。そこには、佐野が立っていた。
「佐野」
 全く気配に気づかなかった。言いようのない気まずさを感じていると、佐野はいつものへらへらした笑顔を消して近付いてくる。
「泉井のこと追いかけて来たんだ。聞くつもりじゃなかったけど」
「あー、そうか」
 迷いながら返答すると、佐野は手前でぴたりと止まった。男子高校生が体育館裏で二人きりなんて、あまり楽しい図ではない。いつになく動揺していると、佐野は突然笑顔になった。
「俺で良ければ、話聞くけど?」
 鬱陶しいところの多い佐野ではあるが、俺の小学生時代からの友達である。いつだって味方でいてくれて、心強いわけではないが、心の友だなんて冗談半分に言ってくれる友達だ。するりと、心の奥まで手が伸びて来る感覚だった。俺は自然と、その手を掴んだ。
「――あのさ」
 それからというもの、俺は感情のまま怒涛の如く話し出した。今まで誰にも話したことのなかった弟との出来事を、主観的に息継ぎもせずに吐き散らす。佐野は、定期的に相槌を打ちながら、話を聞いてくれた。出会いから最近の弟の様子まで、一切合切話してしまうと、腹の奥底に溜まっていた感情が噴き出て来る。それは怒りだった。
「おかしくね? 俺がいったい何をした!」
「落ち着け泉井」
「話してたら腹立ってきた! まじであいつ何考えてんのか全然分かんねえ! 最初はあっちから近付いてきて、めちゃくちゃ勘違いするようなことばっかり言ってくるからさ、勘違いしそうになるだろ? で、今はこんな感じだよ。いったいどれだけ人を振り回すんだっつー話! で、悪いのは僕なんですって、意味分かんねえ。俺か? 俺が悪いのか?」
「こんな泉井、珍しいよな」
「は?」
「感情的っていうか。まさか、紀ノ川さんの弟とそういう関係だったとはな。だからあんな反応だったのか」
 佐野は頬杖を付き、納得したように頷いている。
「紀ノ川樹か。ますます観察のしがいがあるな。泉井をこんな風にさせられるって、なかなかなくね?」
「だから、あの弟は人を振り回すのが上手いんだよ」
「俺が見る限り、全然そんなタイプじゃないけどな」
「確かに、学校ではそうかもしれない。でも本当は違うんだよ」
「泉井は、どうしたいんだ?」
 目が覚めるような言葉に、俺ははっとした。
「避けられてるなら、わざわざ突っかかっていく必要ないだろ。仲良くしたいわけでもないなら、そんな奴、忘れたら良いんだよ。どうせ、高校卒業したら、顔合わせなくなるんだから」
「……まあな」
 佐野の言うことは最もだった。あんな失礼な奴なんて、忘れるのが一番だ。ストーカー行為なんてもってのほかで、嫌がられているのなら放っておけばいい。それが一番平和的だ。
 理解しながら、俺はどうしても佐野の言葉を素直に聞けなかった。自分でも、自分の感情が分からない。
 思い出されるのは、俺が高校一年生、奴が中学二年生だったあの年のことだ。戸惑いながらも、結局は楽しかった。
 俺は、またあんな風に弟と一緒にいたいのだろうか。もやもやと晴れない心が、ずっと俺を覆っていた。佐野は、そんな俺を窺うようにしていた。
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