振り向けば

糸坂 有

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十三

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 その日、望は妙にテンションが高かった。
 いつもはただビルが立ち並ぶそこは、今日と明日に限って露店が立ち並ぶ。フランクフルト、綿あめ、トウモロコシ、リンゴ飴。様々なにおいが入り混じるそこを、浴衣を着て下駄を鳴らす人々に揉まれながら歩く。
「ポテト食いたい。あ、わたあめ買う?」
「何でもいいよ。付いていくから」
「そう? 射的もしたいな。あ、射的あった」
 望はすいません、と店の主人に声をかけに行く。普段にはない積極性である。しかし、それはやりたいことがないからであって、やりたいことがあれば率先して行くのが、望という人間だった。
 受け取った空気銃を顔に近づけ、狙いを定める望は、真剣そのものである。しかし、望と銃の組み合わせは、とても奇妙なものに見えた。少なくとも外見は、蝶よ花よと育てられてきた高級感漂う望と、野生感あふれる銃。その絵面は、水と油ほどに混じり合っていなかった。きっと、野生児とはほど遠いけれど、それでも学が持った方が似合うだろうと確信できるほどだ。
 適当に、「あれにしよう」と選んだお菓子の箱に焦点を当て、ぽんと空気の音と共にコルクを発射させる。コルクは一直線に飛んでいき、箱の右横をかすめた。
 それを数回繰り返したが、結局箱は下へ落ちることなく、学は手ぶらで口を尖らせた。
「せっかく学にあげようと思ったのに」
「でも惜しかったな」
 こつんと箱に当たっても、落ちなければ商品はもらえないのである。自分にくれようとしていた事実を知り、学は無意識に顔が綻んだ。
「学もやればよかったのに」
「いや、俺がやっても無理だったと思うし」
「そうかな。学、器用じゃん」
 望は、きょろきょろと辺りを見回した。ずらっと続く店や、人々の活気に目移りしているようだ。子供のような無邪気さで、次はあれを食べたいと指差した。リンゴ飴である。
 望は、祭りに来れば必ずといって良いほどリンゴ飴を食べる。しかし、学はいつも横でそれを見ているだけで、自ら買うことはなかった。
最初の理由はただ、食べにくそうだったから。
 隣で売っていたわたあめを買うと、恒例のように、望へと差し出す。望は、早速手でちぎると、雲のようなわたをもしゃもしゃと頬張った。学もそれにならい口に入れると、あっという間にそれは溶けてなくなった。途端に甘みが広がって、まるでそれが嘘であるかのように口には何も残らない。この感覚は、好きだった。
 隣では、赤い舌でちろちろと望がリンゴ飴を舐め始めた。
 いつだったか、望が買ったリンゴ飴を一口もらったことがある。背徳感に苛まれながらもどきどきしたことは、今でも鮮明に覚えていた。しかしその後、学が食べた箇所に、平然と口をつける望を見て、口の中の甘みが消えて行ったことも、同時に記憶に刻みつけられていた。
 皮膚の下、血管にじわじわと流れる血を感じて、顔が火照った。自分が舐めたところを、望が舐めている。想像するだけで、身体が疼いた。
 なんて馬鹿な奴。心の中で自分を叱咤する。
 今では、「食べる?」と言われても断るのを恒例としている。果てしない後悔に襲われるからだ。身体が疼いて、どうにもなくなって。思いが、あふれそうになる。
 もともと、潔癖症の気があることを知られているため、望は特に気を悪くすることなくもくもくとリンゴ飴を食べ進めるのである。
 あの時以来、リンゴ飴を見れば望の真っ赤な舌を思い出す。官能的で、欲望をそそられるようで、どうしたって、食べたいという気は起らなかった。
 ひとつ深呼吸をすると、目に着くのは浴衣姿の人々だった。
 望は、浴衣を持っていない。だから、一度も浴衣姿を見たことがない。もし、望が浴衣を着たら。考えるだけでどうにかなりそうだった。薄い色でも、黒のようなはっきりした色でも、望ならきっと何だって似合うだろう。
 考えて、学は喉の奥から湧き出そうな欲望を必死に押しとどめた。普段なら考えないことをつい考えてしまって、頭がぐらぐらする。
 そんな時、服の裾を引っ張られて、学は唾を飲み込んだ。
「人少ないところ行こう。疲れた」
「すぐ疲れるよな」
 学は笑って誤魔化すと、望を連れて人混みを離れた。
 道を逸れると、あっという間に人は減る。無意識に息苦しさを感じていたようで、学の体は空気を求めるように大きく息を吸った。
 祭りの空気は、人を惑わせる。
 頭を振って、学は心を落ち着けた。
「だって人が多すぎるだろ。何であんなに集まってるんだろう」
「望が言うなよ」
「もっと人のいない祭りに行きたい」
「もっと明るい時間なら人いないよ」
 望は、でも、と納得していない顔で、ぱたぱたとうちわを仰ぐ。さっきもらったのである。
 その時、浴衣姿の三人組とすれ違った。牡丹が散らばる紺色の浴衣を着た少女と、胸元赤い蝶がひときわ目立つ白い浴衣を着た少女。どちらも可愛らしい少女ではあったが、学が目を奪われたのは真ん中である。灰色の浴衣に、白い帯を締めた、やたらと様になって女性の注目を集める少年は、他の誰でもない陸だった。
「――」
 目が合ったが、学は会釈だけして通り過ぎる。陸からは何の応答もなかったが、特に気にせず笑顔を保つ。
「知り合い?」
 察知した望は、振り返って言う。
「ああ。学校の人。望もすれ違ったことくらいあるんじゃないか?」
「そうかな」
 あまり他人に興味のない望は、もう一度その後姿を振り返って記憶を探っているようだった。しかしぴんとこなかったようで、ふうむと唸った。その横顔は小動物のようだった。
「このあとどうする?」
 提案すると、望はぱっと表情を変えた。
「満足したし、リンゴ飴も食べたし、後は学に任せる」
「分かった」
 学も、今からあの人混みに突撃する気力はなく、二人は祭りの中心からしだいに遠ざかっていった。夜が更けると、さらに人は増えていくだろう。陸の武運を祈りながら、彼とは逆方向へ、ゆったりと歩を進めた。
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