振り向けば

糸坂 有

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二十五

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 コートやマフラーが手放せない時期になって、陸は寒そうにポケットの手を突っ込んだ。
「手袋したらどうですか。それ、こけた時危ないですよ」
「そんなへまはしねえ。てかお前もしてないじゃん」
「俺は寒くないですから。どうなっても知りませんよ」
 陸はすねたように口を尖らせると、小さな声で呟いた。
「今度から持ってくる」
「それがいいです」
 陸はポケットから両手を出し、「さみー」と言いながら手を擦り合わせた。ところで、と続けると、顔を少しだけ学の方に寄せた。
「先輩、毎日毎日大変ですね」
 話をすりかえてみれば、陸は顔を顰めて赤い手形がくっきりと残る頬をさすった。
 かなりの数の女性と遊んできた陸は、最近やっと整理をつける気になったらしい。これは、今までの報いだった。
「まじで女ってこええよ。鬼の形相で引っ叩いてくんだ」
「だから言い方が悪いんですって。俺、言ったじゃないですか」
 陸が頬を腫らしてきた回数を数えると、片手では収まりきらなかった。経緯を訊けば、だいたいがこんな感じ。
 お前のことは好きでも何でもなかった。もう会わない。
 最初から遊びだったから。
 面倒になったんだよ。
 うっとうしい。
 そんな風に言われて怒らない人はいないだろう。女性たちの気持ちを思うと、南無阿弥陀仏と唱えたくなる。
「もっと優しく言ってあげたらどうですか。無駄な怪我もしなくてすみます」
「好きでもねえ奴に優しくすんのはもう疲れたんだよ。変に優しくして引きずるのも嫌だ。」
 陸の言葉には、疲労感が窺える。この年にしていったいいくつ修羅場を越えてきたかを想像するが、学には想像の範囲をオーバーしている。
「でも、何で急にこんなことを?」
「別に。ちゃんとしようと思っただけ」
 ふいと歩調を早める陸に、学は話を合せることにした。
「ああ、受験もありますしね」
「それだけじゃねえけど」
 ぎくっとした。それで終わって、次の会話へ移行するはずが、足止めを食らう。
「お前、前に言ったろ? 俺に好きな人がいるとか何とかって」
「そうでしたっけ」
「言った。だからつまり、そんな感じ」
 心臓が早く脈打ち始めた。実際、学はお化け屋敷に入って驚くことはないが、例えるならお化け屋敷に入って、何が出てくるか分からない不安に駆られている時と同じような動きをしていた。
 陸は学の手を取ると、赤くなっている頬に当てた。肌が触れ合って、思わず声が出そうになる。
「お前の手、冷たいな。氷代わりになっていいわ」
「それなら保健室でもらってきた方がよかったんじゃないですか」
 声が上ずったが、陸は手を離さない。
「や、これでいい」
 人通りがないから良いものの、この態勢はさすがにおかしい。手を離してほしかったが、陸はまだ頬に手を当てたままだ。
「先輩の手は、暖かいですね。寒いって言ってる割に」
「そうか?」
「手が温かい人は心が冷たい、なんて言いますけど、あれ嘘だと思うんです。だって先輩は、とても優しいですから」
「……つか、手の温かさと心の温かさなんて、絶対関係ないだろ」
「そうですね」
 会話の間に、さりげなく手を離す。陸は名残惜しそうだったが、学は気付かない振りをして前を向いた。
「つれねえな。もうちょっと冷やしてくれてもいいじゃん」
「男子高校生同士でそんな事してたら変ですよ」
「そうか?」
「そうです」
 納得していないようだったが、その主張を翻されることはなかった。
 しばらく歩いていると、ひゅうと冷たい風が通り抜けて行った。
「お前、さ。どう? あれから」
「何の話ですか」
「あー、やっぱ何でもね」
 陸の鼻は赤かった。やはり寒いのだろう。ここのところ、急に寒くなった印象がある。風が冷たいというより痛みを伴って感じる。
「そうだ。先輩」
 学はふと思い出して、鞄を探った。
「寒かったら、これ使って下さい。家にいっぱいあるんで」
 鞄から取り出したのは、カイロだ。寒いからと、今朝三つほど鞄に詰め込まれたことを思い出した。
 陸はきょとんとした。
「知らないんですか? カイロ」
 初めて見た顔をするので言うと、陸は、そんなわけがないと真っ向から否定した。
「知ってるっつの。もらう」
 右手を差し出してきたので、学は苦笑してその手の上に置いた。ほんの少し肌と肌がふれ合い、すぐに手を引っ込める。はずだった。
 カイロを置いた瞬間手を引かれ、陸は少しかがんだ。
 顔と顔が近づいて、あと一センチのところで止まる。
 甘い吐息がかかって、綺麗な瞳がすぐそこにあった。
 良い匂いがして、学は金縛りに合ったように動けなくなった。
 陸は驚いたように目を見開くと、乱暴に学の腕を解放した。
「悪い」
 陸はそれから何も言わなかった。
 息をするのが苦しくて、間近に感じた肌の余韻が残っていて、学は血が出そうなほど唇を噛みしめた。
 それから、糸電話の糸が切れるように、ぷつりと連絡は途絶えた。
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