蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の二 大食い

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「正直、ちょっと怖かってん。ちょっとだけな」
 有村は、人差し指と親指の間を、一ミリほど開けた。
「普段大人しい子って、一回キレるとやばかったりするやん? 曽根さんって、そういうタイプの人かなって、ちょっと思った」
 蒼井は他人事の顔をしてメロンソーダを飲んでいる。よくも涼しい顔をして、毎日のように緑色の液体を飲めるものである。炭酸の苦手な有村には無理だ。
 今日も今日とて、当然のように有村家でくつろぐ蒼井は、ちびちびと何事も言わずメロンソーダを飲み続ける。
 恐怖体験を伝えたところで、蒼井にめぼしい反応はない。不満が募り、有村の口調は強くなった。
「大人しくて可愛いけど、痴漢にめっちゃ遭いそうなタイプっていうか。それを誰にも言えずに心の中に溜めてるっていうか! ストレスかな? とんでもない事件起こしそうっていうか!」
 蒼井を食べたいと言う曽根は、冗談を言っている顔ではなかった。本心から、蒼井をばりばりと頭から食いたいという顔をしていた。
「ほんまなんやって!」
 曽根が蒼井を食べたいと言っていたなんて話など、聞いたところでピンと来るわけがない。有村だったら「何おかしなこと言っとんねん」で終わりである。
 話を聞く蒼井は大人しかった。学校でのお人形のような蒼井である。不気味だ。
「僕一応関西人やけど冗談なんて人生で一回も言ったことないし、ボケへんしツッコミもせんお上品なタイプやろ? ほんまやねん。ほんまやねん!」
 蒼井は腹が立つほどに澄ました顔である。
 前のめりになったところで、やっとにやりと微笑んだ。
「ホンマヤネン、ね。有村君はしょうもない嘘は平気で吐くよな」
「お上品なタイプって言ったことか?」
「自覚はあるらしい」
 蒼井はけらけらと笑った。どこぞの闇の組織の末端のような笑みである。
「有村君は、とんでもない事件を起こす前に、一回彼女をキレさせろって言いたいのか?」
「そうは言ってへん。その時は蒼井君が喰われる時かもしれん」
 曽根が蒼井をどういう方法で食べるかは分からないが、お上品にテーブルでナイフとフォークを使って、とは思えなくなっていた。その気になれば野獣にでも豹変するかもしれない。華奢で可愛い女の子のイメージは崩れてしまった。
「僕が大人しく喰われるとでも思ってるのか有村君は? 僕だって喰われながら死ぬのは避けたいさ、さすがにそれは漫画の読みすぎだよ、わざわざ食べて良いか、有村君の了承を得ようとするくらいなんだから、嫌だと言えばいいだけだろう、そんな言い方は曽根さんに対しても失礼だ、どうして有村君の了承が必要だと思うのかは謎だけど」
 つんとした物言いは、有村をからかう素振りを見せている。「んなわけあるかい」と突っぱねられないことに安堵しつつ、とはいえ有村の言葉を信用しているわけではない態度に頭を垂れる。
「ぐうう。正論なのが腹立つな」
「今日の有村君は激しいな、珍しいものを見たぜ。動画に取っておけば良かった」
「やめて」
 蒼井がスマートフォンを取り出すので、有村は手で制した。
「確かに蒼井君の言う通り、決めつけとかは良くないけどさあ。雰囲気がめっちゃ怖かってん。尋常じゃないって感じで」
「へえ」
 蒼井は他人事だ。曽根どうこうよりも、必死な有村を面白がっている。スマートフォンを操作しながら、肘を付いた。
「カニバリズムだな、スペイン語のCanibalに由来している、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣をいうわけだ、曽根あずきの場合を考えると、僕のことをそれなりに好意的に見ているようだからこれだろうか。仲間を食べる場合には、死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いがある、親族や知人たちが死者を食べることにより、魂や肉体を分割して受け継ぐことができるという考えである、すべての肉体を土葬、火葬にしてしまうと、現世に何も残らなくなるため、これを惜しんでの行いと見ることができる。日本に残る骨噛みは、このような意味合いを含む風習と考えられる、ああこれはウィキペディア抜粋だよ」
「死者って、蒼井君まだ死んでへんやん」
 蒼井が読み上げたことと合致しない気がして、有村は声を上げる。曽根は、受け継ぐのではなくその人そのものになりたいと考えているのだ。
「全てが当てはまるとは言っていないぜ、ここに書いてあるうちの中では一番近いかと思っただけだ、僕はカニバリズムについて知識がないからな、調べれば多少は曽根あずきの心理について迫ることも可能かもしれない、でも彼女の場合は人を食いたいというより、別の何者かになりたいが先みたいだ」
 有村は腕を組む。
 蒼井の言う通りだ。曽根は、なりたいから食べたいのだ。食べたいが先ではない。なる方法として、食べることを選ぼうとしているのである。
「目的を達成するための方法がおかしいって話やな」
「食べればなれる、なんて馬鹿な考えを止めさせれば良いんだよ、食べたって主体は自分なんだから、なりたくても茄子になんかなれるもんか、僕は真っ平御免だね、あんな野暮ったいギザギザ帽子なんて」
「茄子を愚弄する気か? 怒られんで、各方面から」
「事実なんだからしょうがない」
 蒼井はふんと鼻で笑う。時代が時代なら、ギザギザ帽子なんてむしろ最先端ではないか? 脳内で野暮ったいギザギザ帽子を被らせて笑ってやろうかと思ったけれど、想像するのは案外難しかった。思いのほか格好良くなったら腹立たしいので、有村は考えることを止めた。
「有村君は僕のことが心配でたまらないんだろうけど、杞憂ってものだよ、曽根あずきの考えが変わらなかったとしても、僕が食べられるなんてことは絶対にない」
「言ったな」
「ああ、ない」
 有村は不服であった。
 蒼井は、あの時の曽根を見ていないからこんなことが言えるのだ。仕方がないことであるが、甚だ不服だった。蒼井のことが心配でたまらないなんてことは一切ないし、まあ好きにすれば良いことである。
 蒼井はいつも通りくつろいで帰った。曽根のことなんか忘れた顔で、べらべらと何事かを思い存分話していた。蒼井にとって、緊急性など皆無なのだから仕方がない。でも有村はやはり不服で、いつもよりもそっけない返答をしてばかりだった。蒼井は怒るどころか、有村の反応を楽しんでいた。それがよけいに癪に障った。
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