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第三章
3-11.成就
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世界を包み込んでいた光が消えた。颯は幾分か青みを増した紫の空の下、ゆっくりと歩を進める。颯の視線の先に、黄泉津大神、否、伊邪那美命が横たわっている。国を生み、そして黄泉国を統べた大神の体は、今にも消えてしまいそうな半透明になっていた。
命が消えかけている。颯はそう直感し、歩み寄って伊邪那美命の上半身を抱き起した。
「今のは……夫の魂が……」
囁くような声に、もはや憎悪の色は見られなかった。伊邪那美命が颯を見上げる。
「記憶、が……?」
颯が頷くと、消えゆく女神の両の瞳に涙が浮かんだ。実のところ、白い世界から帰ってきてから颯の中のもう一人は眠りについてしまったのか、思い出したはずの記憶は記録として残ってはいるものの、それに伴う感情は薄れているように感じていた。しかし、それを今このときに伝える必要はないと、颯は思った。
「兄さん……」
懐かしい声に、颯は勢いよく振り返る。ずっと再び聞けるときが来るのを夢見ていた声だった。
「真菜……!」
五十鈴媛に支えられながらも二本の足で地に立つ真菜。その疲労困憊の顔には隠しきれない喜びと安堵が浮かんでいた。颯はすぐにでも駆け寄りたい衝動に駆られるが、伊邪那美命を抱き抱えていることを思い出し、思い止まる。しかし。
「行って御上げなさい」
か細い声で背中を押され、颯は暫しの逡巡の後に伊邪那美命を地面にそっと横たえる。半透明の女神は穏やかな表情をしていた。
「真菜……!」
「兄さん……!」
颯は真菜を抱きしめ、真菜も颯の背中に腕を回す。気恥ずかしさはない。とても自然な行為だった。そんな二人を、沙々羅と五十鈴媛が温かな眼差しで見つめている。
そうして、しばらくの間、誰も声を発することなく、兄妹は久しぶりの再会を噛みしめた。
颯は沙々羅と五十鈴媛と共に、伊邪那美命とそれに寄り添う真菜を少しだけ離れたところで見守っている。真菜と二人だけで話がしたいというのが、消え行く女神の最後の願いだった。
「もうどうにもならないのかな……」
「残念だけど、無理ね」
「今のあのお方は、言わば魂の残滓のようなもの。こうして話をできるのが不思議なくらいなのです」
「そっか……」
黄泉津大神だった伊邪那美命は真菜を攫ったが、薙によって手の施しようのないほどの傷を負った真菜の命を救ったのもまた、かの女神だと、他ならぬ真菜から聞いた颯は何もできないことをもどかしく思う。
「いや……」
実際には何もできなかったわけではない。あの白い世界で、颯は自身と前世の自分とも言うべきもう一人の自分にできるだけのことは既にしたのだ。
かつて最愛の妻を裏切ってしまった伊邪那岐命は夫婦で生んだ国を後継の神々に任せた後、けじめをつけるべく再び黄泉国へ赴き、そこで黄泉津大神と戦い、敗れた。
そのとき、自ら死を望む妻の想いに気付きながらもその願いを叶えることのできなかった彼は、死の間際に送魂の秘術を用いて自身の魂を未来に送り、来世の自分に託した。
しかし、それは送り先を指定できる類のものではなく、また、記憶まで引き継がれるかどうかは神の力をもってしても不確かなものだった。
その結果、世界の滅びを良しとしなかった黄泉津大神は自らを殺し得る伊邪那岐命の魂を持つ者、即ち颯をこの時代に呼び寄せる必要があったのだ。
そして黄泉津大神は倒れ、颯の中の伊邪那岐命は再び送魂の秘術を試みた。今度は、愛する妻が幸せに暮らせるよう願って。
「兄さん」
真菜が伊邪那美命の元を離れて颯に歩み寄ってくる。
「あっ」
その途中、よろめいた真菜を颯が慌てて抱き留める。
「ありがとう」
真菜は照れ笑いを浮かべながら颯の腕の中を脱すると、その横に並んだ。真菜が半透明の伊邪那美命を真っ直ぐに見つめ、颯もそれに倣う。今にも消えてしまいそうなほど薄くなっていく女神が最後の力を振り絞るかのように首を回し、二人に穏やかな目を向けた。その瞳は颯を映し、真菜へと移る。
「兄と共にあり、そなたは幸せか」
か細い声だったが、やけにはっきりと聞こえた。
「はい」
颯の隣で真菜が力強く頷くと、伊邪那美命は安らかに微笑み、そして消えた。笑顔が、ではない。半透明だった体が完全に消えていた。
颯は何となく黄泉国の閉じた空を見上げた。青みがかった紫の天井を微かな光の粒子が通り越し、天へ昇っていくような気がした。
真菜も、沙々羅も五十鈴媛も、颯と同じように見えない空を見上げていた。死者の国にいるにもかかわらず、四人は切なさの中に清々しさを感じた。
「ああっ!」
突如、颯の叫びが静寂を切り裂いた。三人がビクッと肩を揺らして颯を見遣る。
「ど、どうしよう!?」
「颯様?」
「あ、あのさ。僕たちをこの時代に呼び寄せた黄泉津大神がいなくなっちゃったわけだけど、どうやって元の時代に帰ればいいの?」
沙々羅と五十鈴媛が目を見開く。黄泉津大神は元の時代に帰してほしければ自らを倒してみせろと言っていたが、倒した今もその気配はない。颯の中で眠りかけているもう一人の自分も、何も教えてはくれなかった。
颯は焦るが、どれだけ問いかけても沙々羅と五十鈴媛が答えを持っているはずがない。
もしかすると二度と元の時代には帰れないのかもしれない。そんな考えが颯の脳裏に過った。しかし。
「兄さん。それなら大丈夫だよ」
「真菜?」
やっとの思いで再会を果たしたばかりの妹が、なぜか自信ありげに微笑んでいる。
「大丈夫って……?」
「心配いらないよ。私が黄泉津大神、ううん、伊邪那美命から、帰る方法を教えてもらったから」
胸を張る真菜に、颯は目を丸くした。
命が消えかけている。颯はそう直感し、歩み寄って伊邪那美命の上半身を抱き起した。
「今のは……夫の魂が……」
囁くような声に、もはや憎悪の色は見られなかった。伊邪那美命が颯を見上げる。
「記憶、が……?」
颯が頷くと、消えゆく女神の両の瞳に涙が浮かんだ。実のところ、白い世界から帰ってきてから颯の中のもう一人は眠りについてしまったのか、思い出したはずの記憶は記録として残ってはいるものの、それに伴う感情は薄れているように感じていた。しかし、それを今このときに伝える必要はないと、颯は思った。
「兄さん……」
懐かしい声に、颯は勢いよく振り返る。ずっと再び聞けるときが来るのを夢見ていた声だった。
「真菜……!」
五十鈴媛に支えられながらも二本の足で地に立つ真菜。その疲労困憊の顔には隠しきれない喜びと安堵が浮かんでいた。颯はすぐにでも駆け寄りたい衝動に駆られるが、伊邪那美命を抱き抱えていることを思い出し、思い止まる。しかし。
「行って御上げなさい」
か細い声で背中を押され、颯は暫しの逡巡の後に伊邪那美命を地面にそっと横たえる。半透明の女神は穏やかな表情をしていた。
「真菜……!」
「兄さん……!」
颯は真菜を抱きしめ、真菜も颯の背中に腕を回す。気恥ずかしさはない。とても自然な行為だった。そんな二人を、沙々羅と五十鈴媛が温かな眼差しで見つめている。
そうして、しばらくの間、誰も声を発することなく、兄妹は久しぶりの再会を噛みしめた。
颯は沙々羅と五十鈴媛と共に、伊邪那美命とそれに寄り添う真菜を少しだけ離れたところで見守っている。真菜と二人だけで話がしたいというのが、消え行く女神の最後の願いだった。
「もうどうにもならないのかな……」
「残念だけど、無理ね」
「今のあのお方は、言わば魂の残滓のようなもの。こうして話をできるのが不思議なくらいなのです」
「そっか……」
黄泉津大神だった伊邪那美命は真菜を攫ったが、薙によって手の施しようのないほどの傷を負った真菜の命を救ったのもまた、かの女神だと、他ならぬ真菜から聞いた颯は何もできないことをもどかしく思う。
「いや……」
実際には何もできなかったわけではない。あの白い世界で、颯は自身と前世の自分とも言うべきもう一人の自分にできるだけのことは既にしたのだ。
かつて最愛の妻を裏切ってしまった伊邪那岐命は夫婦で生んだ国を後継の神々に任せた後、けじめをつけるべく再び黄泉国へ赴き、そこで黄泉津大神と戦い、敗れた。
そのとき、自ら死を望む妻の想いに気付きながらもその願いを叶えることのできなかった彼は、死の間際に送魂の秘術を用いて自身の魂を未来に送り、来世の自分に託した。
しかし、それは送り先を指定できる類のものではなく、また、記憶まで引き継がれるかどうかは神の力をもってしても不確かなものだった。
その結果、世界の滅びを良しとしなかった黄泉津大神は自らを殺し得る伊邪那岐命の魂を持つ者、即ち颯をこの時代に呼び寄せる必要があったのだ。
そして黄泉津大神は倒れ、颯の中の伊邪那岐命は再び送魂の秘術を試みた。今度は、愛する妻が幸せに暮らせるよう願って。
「兄さん」
真菜が伊邪那美命の元を離れて颯に歩み寄ってくる。
「あっ」
その途中、よろめいた真菜を颯が慌てて抱き留める。
「ありがとう」
真菜は照れ笑いを浮かべながら颯の腕の中を脱すると、その横に並んだ。真菜が半透明の伊邪那美命を真っ直ぐに見つめ、颯もそれに倣う。今にも消えてしまいそうなほど薄くなっていく女神が最後の力を振り絞るかのように首を回し、二人に穏やかな目を向けた。その瞳は颯を映し、真菜へと移る。
「兄と共にあり、そなたは幸せか」
か細い声だったが、やけにはっきりと聞こえた。
「はい」
颯の隣で真菜が力強く頷くと、伊邪那美命は安らかに微笑み、そして消えた。笑顔が、ではない。半透明だった体が完全に消えていた。
颯は何となく黄泉国の閉じた空を見上げた。青みがかった紫の天井を微かな光の粒子が通り越し、天へ昇っていくような気がした。
真菜も、沙々羅も五十鈴媛も、颯と同じように見えない空を見上げていた。死者の国にいるにもかかわらず、四人は切なさの中に清々しさを感じた。
「ああっ!」
突如、颯の叫びが静寂を切り裂いた。三人がビクッと肩を揺らして颯を見遣る。
「ど、どうしよう!?」
「颯様?」
「あ、あのさ。僕たちをこの時代に呼び寄せた黄泉津大神がいなくなっちゃったわけだけど、どうやって元の時代に帰ればいいの?」
沙々羅と五十鈴媛が目を見開く。黄泉津大神は元の時代に帰してほしければ自らを倒してみせろと言っていたが、倒した今もその気配はない。颯の中で眠りかけているもう一人の自分も、何も教えてはくれなかった。
颯は焦るが、どれだけ問いかけても沙々羅と五十鈴媛が答えを持っているはずがない。
もしかすると二度と元の時代には帰れないのかもしれない。そんな考えが颯の脳裏に過った。しかし。
「兄さん。それなら大丈夫だよ」
「真菜?」
やっとの思いで再会を果たしたばかりの妹が、なぜか自信ありげに微笑んでいる。
「大丈夫って……?」
「心配いらないよ。私が黄泉津大神、ううん、伊邪那美命から、帰る方法を教えてもらったから」
胸を張る真菜に、颯は目を丸くした。
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