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第十章

10-5.予期

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「リリーお姉ちゃん。ジンお兄ちゃんと赤ちゃん作るの?」

 仁が固まっていると、ミルがイムをギュッと抱きしめながらリリーを見上げた。

「そうだよっ!」

 リリーがにこやかに答えると、ミルの赤紫の瞳が輝きを増す。フリーズから回復した仁が否定する前に、ミルがイムを抱いたまま立ち上がった。馬車の揺れが、いつの間にか止まっていた。

「ミル、お姉ちゃんになれる?」
「うん、そうだねっ。ジンさんはミルちゃんのお兄ちゃんだから、赤ちゃんはミルちゃんの姪っ子か甥っ子だけど、きっとミルお姉ちゃんって呼んでくれるよっ!」
「やったの! ミル、お姉ちゃんになりたかったの!」

 ワイワイと盛り上がる二人を前に、仁は口を挟む機会を失い、どうやって収拾をつければいいのか目を泳がせる。仁の彷徨さまよう視線がアシュレイを捉えるが、アシュレイはさも自分は関係ないとでも言いたげに明後日の方向を向いていた。

 仁はアシュレイに恨めし気な視線を送るが、何の解決にもならず、頭を抱える他なかった。

「仁くん? これはどういうことかな?」

 仁の首が油の切れた歯車のように、ギギギと何段階かに分かれて少しずつ声のした方に向いた。その視線の先、馬車の入口に玲奈の姿を認め、仁の全身の毛穴から冷たい汗が噴き出す。仁は玲奈の見惚れてしまうような可愛い笑顔の裏に、黒い影を幻視した。

「あ、レナお姉ちゃん! あのね、ミルもお姉ちゃんになるの!」
「ミ、ミル!」

 仁は慌てて後ろからミルの口を塞ぐが、一度出た言葉はなかったことにはならなかった。仁が引きつった顔を玲奈に向けていると、リリーが火に油を注ぐ。

「レナさんっ。護衛ありがとうございました。それで、お願いがあるんですけど、子作りするので、後でジンさんを貸してくださいっ!」
「ちょ、リリー、何言ってんの!?」

 仁は絶望の表情でリリーを見上げる。仁の手の下でミルがもごもごと口を動かしていたが、仁はそれどころではなかった。

「仁くん、正座」
「え?」
「仁くん。正座」
「は、はいっ!」

 平坦な声音で淡々と指示する玲奈の背後に阿修羅を幻視した仁は、既視感を覚えながら素早くミルの口から手を離し、板張りの馬車の床に正座した。ミルがプハッと息を吐き出す。

「仁くんの、仁くんの……。仁くんのえっち!」

 頬を紅潮させた玲奈の心の叫びが馬車内に木霊すると共に、仁の赤い首輪から電撃が放たれる。仁は体中でビリビリとした痛みを感じながら、久々の感覚に懐かしさを覚えたのだった。



 その後、アシュレイのとりなしもあって何とか玲奈に事情を説明し、仁は事なきを得た。当然のことながら仁の貸し出しの件は玲奈の主人権限で拒否され、リリーがむくれていたが、仁のできる範囲で1つだけ優先的にリリーの望みを叶えるということで話がついた。もちろん、子作りはできる範囲には入っていない。

 野営の準備と夕食を終え、仁はキャンプ地から少しだけ外れたところで一人夜風に当たっていた。ドッと精神的な疲労が押し寄せ、仁はぐったりした様子で月を見上げる。元の世界ではあまり月を眺めることはなかったが、空気の澄んだこの世界の月は元の世界のものよりも綺麗に見えるような気がした。

 仁がぼんやりと月を眺めていると、月の表面にふとセシルやコーデリアとの訓練の様子が浮かんで見え、ぶんぶんと首を振った。セシルの潤いと張りのある肌やコーデリアの肌理きめ細やかな肌触りが手のひらに蘇ってきて、仁の頬が僅かに熱を持った。仁が「下心はなかった。下心はなかった」とお経のように小声で繰り返していると、すぐ後ろからパキッと小枝を踏みしめる音が聞こえた。

 仁はハッとし、勢いよく振り返る。また玲奈に不味いところを見られてしまったのではと、仁は気が気ではなかったが、そこにいたのは玲奈ではなく長身の美しいエルフだった。露骨に安堵の息を吐く仁に、アシュレイが苦笑いを浮かべる。

「ジン、お疲れ」

 雑に投げかけられた労いの言葉に、仁は肩をすくめる。

「もうちょっと助けてくれてもいいんじゃない?」
「すまん。私は新参なんでな。どこまでお前たちの間に割って入っていいものか、まだ距離感がな」
「そんな感じでもなかったけど」
「まぁレナにはとりなしてやったんだ。それで勘弁してくれ」

 アシュレイは仁の隣に並び、月を見上げる。仁は同じくらいの高さにあるアシュレイの横顔をしばらく眺めてから、再び顔を夜空に向けた。元の世界より明るい月の周りで星がまたたく。

「それで、何か話があるんじゃないの?」
「わかるか?」
「まぁ、ね。アシュレイにとっては100年ぶりの再会でも、俺にとってはたかだか数年会ってなかっただけだからね」
「そうか……。ジン」

 アシュレイは体ごと仁に向き直る。真摯な声音で呼ばれ、仁は正面からアシュレイに向き合った。

「ジン。お前と再会したとき、この世界にお前がいることをとがめたのを覚えているか?」
「……ああ」

 仁の頭の中に、『そもそも、お前はなんでここにいる! 姫や私たちの覚悟を、想いを、踏みにじるつもりか!』というアシュレイの言葉がリフレインする。

 仁が元の世界に戻ることを知りつつもクリスティーナの元へ向かわせようと敵軍に捨て身の特攻を敢行した騎士と兵士たちや、敵の魔の手が間近に迫りつつも仁を送還したクリスティーナの姿が思い起こされ、仁は瞼をきつく閉じた。

「ジン、すまない。自身の意思に関係なく召喚され、送還され、再び召喚されただけのお前に、お前を振り回しているこの世界の住人である私が口にしていい言葉ではなかった」

 アシュレイは後悔に顔を歪め、深く腰を折った。仁はアシュレイの肩を抱き起す。

「俺は気にしてないよ」

 仁がほんのりと笑みを浮かべるが、アシュレイは小さく首を横に振った。

「違うんだ、ジン。私は、いや、姫は、お前が再びこの世界に召喚されることを予期しておられた」
「――え?」

 仁は何度かまばたきを繰り返した後、目を丸くする。

「考えてもみろ。お前を送還したとき、すでに敗戦は免れない状況だった。国が亡びる状況で、なぜ姫はお前を送還した後、召喚魔法陣を処分しなかったんだ?」
「それは……」
「あの聡明な姫が、魔法陣をグレンシール王国――今の帝国に利用されることを想定しなかったと思うか?」

 仁は口をつぐむ。仁の身を案じて送還したのなら、魔法陣を壊してしまえばいい。仮に、もし帝国に奪われても自分以外には使用法がわからないとクリスティーナが高をくくっていた可能性もあるが、事前にダンジョン核をラストルに託して帝国から遠ざけたことからも、そんな不完全な対処をするとは考えにくかった。

「姫は私にも詳しいことを語ってはくださらなかった。しかし、姫は、最後まで姫と共にあろうとした私に、生きろと言ったんだ。拒む私に、苦しそうに顔を歪めて、生きろと命じたんだ。エルフは長命故に、いつかジンと再会することがあるかもしれない。そのときはジンの力になって欲しいと……」

 アシュレイは切れ長の瞳から涙を滲ませる。仁はその光景を脳裏に描き、涙が零れないように瞼をきつく閉じた。

「ジン。お前がこうして再びこの世界にやってきたのには、きっと何か意味がある。私にはそれが何かわからないし、お前にとっては迷惑な話かもしれない。だが、この世界にとって、お前という存在が必要だと姫が信じていたということを覚えていてほしい」

 仁の脳裏に、別れる直前のクリスティーナの頬を流れ落ちる涙が浮かんだ。あの涙にはどんな意味が込められていたのか。仁は再び顔を上げ、優しい明かりで夜を照らす満月に目を向けた。

「クリス……」

 仁の口から零れ落ちた声が、少しだけ肌寒さを感じさせる風に乗り、夜の世界に旅立った。
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