あのパンの香りが届かないように

八月森

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3話 怪我させて、ごめんね

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 少女に荷物を奪われた私は、一瞬逡巡した後になんとか声を絞り出した。

「……っ!? ま、待って!」

 頭の冷静な部分は、見知らぬ土地で下手に動くことの危険を訴えていた。奪われた荷物も登下校に必要な物しか入れておらず、現状で役立ちそうな物や価値のある物などない。無理に追いかけないほうがいいかもしれない。

 それでも私は弾かれたように駆け出した。手鏡で顔を確認したかったのもあるが、あのリュックは現状唯一の日常との繋がりだ。それにすがる気持ちが私の背を後押しした。

「はっ……! はっ……! はっ……!」

 少女の足は速い。荷物を抱えているのに、手ぶらの私とそう変わらない速度で走り続ける。振り切られないように必死で足を動かし続けていくと、段々と視界に入る景色が寂れていき、人の通りも少なくなって……やがて、荒廃したスラムのような場所に辿り着く。
 振り切れないことに業を煮やしたのか、少女は足を止めこちらを振り向き、腰から、鈍く光る短剣を抜いた。

「!」

 自身に向けられる抜き身の刃。経験のない事態に息を呑む。見える限り周囲に人はおらず、誰かに助けてもらうことも期待できない。一匹の猫だけが視界の端に映った。

「はぁ……はぁ……クソっ、来るな……!」

 少女の威嚇の台詞がハッキリと聞き取れる。街の喧騒を聞いた時から気にはなっていたが、私の耳は彼女たちの言葉を問題なく理解できていた。どういう理屈だろう。

「その見慣れない格好、あんた、外からの旅行者だろ……! 『戦場』に近いこの街にわざわざ足を運ぶ酔狂な輩だ、さぞ裕福な暮らしをしてんだろうな……! 荷物の一つくらい恵んでくれよ……!」

 色々言いたいことはあるけれど、それよりも聞き捨てならない単語が聞こえた。

「せ、戦場……? この街の近くで、戦争してるん、ですか……!?」

「あ? ここまで来といて何言ってんだよ。魔物との戦争はずっと続いてる。ここは『終わらない戦場』に最も近い街、アライアンスだ。知っててこんな場所に来たんだろうが」

「……」

 絶句する。と同時に、目の前でちらつかせられる刃と同じか、それ以上に、言い知れぬ恐怖が全身を襲う。

 魔物がいる世界。戦争。戦場に最も近い街。
 先刻の通りにいた人々からは、それらに対する陰惨さは感じられなかったけど……

(でも、そっか……彼女からしてみれば、私は自分から危険な土地を見物しに来た、悪趣味な旅行者ってことに……)

 けれど、私はそんなこと知る由もなかったし、気づけばその危険な土地に連れてこられていただけだ。これからどうしたらいいのかも分からない。が、どうするにしろ、できれば荷物は取り返しておきたい。今は他に縋るものがない。

「さあ、とにかくここは引き返せよ姉ちゃん。こんなところで傷物になりたくねぇだろ」

「……そ、そういう訳には、いきません。その荷物は、大事な物なんです。だから……返して、ください……!」

 恐怖を振り払うように声を張り上げる。しかし慣れていないため、あまり大きな声にはならなかった。それでも……

「フシャァァア!」

 私のなけなしの勇気に応えてくれたのか、はたまた単に声に驚いただけか、視界の隅にいたはずの一匹の猫が、盗人の少女に飛び掛かっていた。

「うわ!? なんだ!?」

「――!」

 猫は少女の顔に飛びついていた。彼女は塞がれた視界を開こうとして闇雲に腕を振り回す。――取り返すなら、今しかない。少なくともこの時の私には、それはチャンスに思えたのだ。咄嗟に駆け出す。

「クソ、この、離れろ!?」

 少女がリュックから手を放し、空いた左手で顔に張り付いていた猫を引き剥がす。が、その際、彼女が右手に握っていた短剣の刃が、誤って猫の足を斬りつけてしまう。

「フギャ!?」

 悲鳴を上げた猫が地面に落下するのと、私が荷物に手を伸ばすのとは、ほとんど同時だった。

(ごめん、猫さん……!)

 怪我を負った彼(彼女?)に心中で謝罪しつつ、リュックの肩紐を掴んだ瞬間――

 ズブ――

 ――脇腹に、灼熱感が走った。

「あ!?」

 その声は私ではなく、盗人の少女のものだった。

「バ、バカ……! あたしは、ほんとに刺すつもりなんて……!」

 刺す……? 何が……? 何を、どこに……?

 働かない思考にやきもきしながら、妙な熱さを感じる脇腹に目を向ける。そこには、さっきまで少女が握っていた短剣が……
 視界を塞がれ混乱した少女が振り回した刃が、飛び出した私に勢いよく突き刺さって……

「あ……」

 認識した途端、顔から血の気が引く。少しして、喉奥からドロリとした液体がこみ上げてくる。

「ごぷ……」

 口から吐き出した血の塊が地面を赤黒く濡らす。立ち込める鉄錆の匂い。身体から力が抜け、その場で膝をついた私は、ほどなくして地面に横たわる。

「おい、あんた! しっかりしろ! おい――」

 少女が恐る恐る私の身体に手を添え、必死に呼びかけてくる。だけどそれだけで傷が塞がるはずもなく、流れる血の赤がパーカーの白を染め上げていく。その光景が徐々に闇に覆われていって……

(……このパーカー、お気に入りだったんだけどなぁ……。……って……あ、れ……?)

 その場違いな感想に、既視感を抱く。つい最近にも、同じことを思ったような……? ……あ……

(そうだ、私……学校の帰りに、車に、撥ねられて……)

 ようやく、思い出した。私の身に何が起こったのか。確かにあの時、私の身体からは命が失われる気配を感じて……同時に、強い死への恐怖を抱いていた。――今と、同じように。

(私、、死ぬの……?)

 何が起こっているのかはまるで分からないし、恐ろしさばかりが胸を埋め尽くしている。一方で、本来一度きりであるはずの死に対して〝また〟と表現することを、ほんの少しおかしくも感じてしまう。
 そんな笑えない言葉遊びを思い浮かべながら、薄らいでいく視界の端には、怪我をして歩きづらそうなあの猫の姿。

(猫さん……怪我させて、ごめんね……)

 それを最期に、私の意識は闇の底へ沈んでいった。

  ▼▼▼▼▼ 
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