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馴れ初め編/第四章 その想い、湯けむりに紛れて
62.熱き頬に伝う雫
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(國枝さん……何か、変?)
千優の目に止まったのは、唖然とした様子で入り口にたたずむ國枝の姿だった。
いくら時間が経とうと、彼が手足を一ミリも動かす様子は無い。加えて、声を発すること、その場から離れる気配までもが皆無に思えた。
まるで、意思を無くした人形のごとき彼の姿に、千優の胸が嫌にざわつく。
ある一点を見つめる彼の瞳がわずかに震えている気がして、ズキリと胸の奥が痛みを伴い疼きだす。
國枝のものがうつったのか、それとも胸の痛みに連動してか、こちらの瞼まで震えているような気がした。
すると、数秒と間を置かず、これまで何度か経験した記憶のある警鐘が、大音量で脳内に響き渡った。
「……っ」
咄嗟に息を吸った千優は、震える瞳を見開きながら、ある事を悟る。
――何か、自分にとって悪いことが起きている。
それは、ここ数か月の間に、似た感覚を経験している千優ならではの直感だ。
そして彼女は、続けざまにあることを思い出した。
國枝の登場に動揺し、すっかり忘れていた、己の上にある何かの重み、そしていまだ身体中に残る痛みを。
今、この部屋で何が起こっている?
一体彼は、その瞳に何を映している?
そして自分自身に、何が起きている?
混乱しかない脳を必死に働かせ、千優は國枝の視線を追いかける。
都合よく彼は、自分の方を向いていた。これなら、周囲の確認も同時に出来るはず。
数回瞬きをくり返しながら、点と点だったものを己の瞳で繋ぎ合わせる。
その途中、不意に目尻から耳元へ雫が流れ落ちたが、彼女がそれに気づくことはなかった。
「……え?」
千優を待ち受けていたのは、もう何度目かわからぬ驚きだった。
見開いた瞳が、先程よりもずっと近く、大きくなった篠原の顔を映す。
彼の頬はほんのりと赤く、やけに瞬きの多い瞳は、忙しなく左右へ揺れていた。
どうやら、全身に感じていた重みの正体は彼らしい。
先程耳にした焦りを含んだ声から察するに、自分と一緒になって転んだのかもと、予測をたてた。
「あ、え……やな、ぎっ」
驚きの片隅で、やけに冷静な状況分析を始める自分がいる。それが少しばかり可笑しくて、許されるなら声を発し、笑いたいと思ってしまった。
しかし、彼女の思考とは裏腹に、その口元はピクリとも動かない。
篠原の口から漏れる声はやけにたどたどしい。それらはすべて、気を抜けば聞き逃しそうで、千優の困惑をより色濃いものへ変えていく。
いまだ解決されていないいくつもの疑問符が、脳内でひしめき合う。
その動きにつられ、千優の視線はやけにゆっくりと動いていく。
國枝を見つめ、篠原を見つめ、そしてそのまま目を伏せる。
三つの点を辿った後、その視界に映り込むのは、色鮮やかな浴衣と、角ばった指、そしてわずかに姿を覗かせる二つの膨らみだった。
國枝、篠原、そして己の胸元。それら三点を何度もくり返し見続ければ、脳が今自分が置かれている状況を少しずつ把握していく。
しかしそれと引き換えに、全身を巡る血が瞬く間に熱を持ち始めた。
どうしてと、小さな分身が忙しなく叫び出す。また、別の分身は、嫌だ嫌だと叫び右往左往するばかり。
ドクドクと心臓はやけに激しく動き、全身へ勢いよく血液を送り出す。
「……っ!」
「うわっ」
気づいた時には、己の上に圧し掛かっていた篠原を精一杯の力で突き飛ばしていた。
そのまま上半身を起こした千優は、急いでその場に立ち上がり、もつれる足を懸命に動かし一目散に出口を目指す。
そして、いまだ固まったままの國枝と壁の間に出来た隙間を抜け、逃げるようにその場を立ち去った。
このままプツリと意識が途切れ、気を失えたらどんなにいいか。
そんな想いを胸に、彼女は自分と友人に割り当てられた部屋を目指す。
それはすぐ隣だと言うのに、瞳と脳が、それらを上手く認識していない気さえしてくる。
自分の周囲に流れる時間がやけに遅くなり、周りの空間を歪めている。そんな摩訶不思議な感覚を、彼女は味わっているのだ。
鳴り止まぬ警鐘と、おさまることのない鼓動。息が乱れる原因は、走っているせいか、それとも違うものなのか。
頭の中も、心の中も、様々な想いが入り混じり、グチャグチャにかき回されていく。
「……っ」
転倒の衝撃と、篠原が咄嗟に生地を掴んだせいで、しっかり着付けをした浴衣は乱れていた。
そして、露わになった胸元に注がれる二人分の視線を脳が認識した時、頭の中で小さな爆発が起こった。
混乱が治まらないまま、自分が置かれている状況を客観的な視点で想像したことがいけなかったのかもしれない。
まるで、自分が篠原に押し倒されている。そんな誤解をしかねない状況を目撃されてしまった。
二人を見つめ、唖然とする國枝の姿を改めて目撃した瞬間、千優の脳と心のリミッターが音を立て壊れていく。
両手で掻き抱くように握りしめるのは浴衣の胸元。つい先程までそこに触れていたのは、己とは違う指だった。
消したくてもしっかり脳裏に焼きついた光景が、何度も目の前をチラつく。
そのたびに、布地を擦る指先を止めることが出来ず、指先がチリチリと熱を持つ。
そこへ幾度となく落ちる雫の存在に、彼女はいまだ気づいていなかった。
千優の目に止まったのは、唖然とした様子で入り口にたたずむ國枝の姿だった。
いくら時間が経とうと、彼が手足を一ミリも動かす様子は無い。加えて、声を発すること、その場から離れる気配までもが皆無に思えた。
まるで、意思を無くした人形のごとき彼の姿に、千優の胸が嫌にざわつく。
ある一点を見つめる彼の瞳がわずかに震えている気がして、ズキリと胸の奥が痛みを伴い疼きだす。
國枝のものがうつったのか、それとも胸の痛みに連動してか、こちらの瞼まで震えているような気がした。
すると、数秒と間を置かず、これまで何度か経験した記憶のある警鐘が、大音量で脳内に響き渡った。
「……っ」
咄嗟に息を吸った千優は、震える瞳を見開きながら、ある事を悟る。
――何か、自分にとって悪いことが起きている。
それは、ここ数か月の間に、似た感覚を経験している千優ならではの直感だ。
そして彼女は、続けざまにあることを思い出した。
國枝の登場に動揺し、すっかり忘れていた、己の上にある何かの重み、そしていまだ身体中に残る痛みを。
今、この部屋で何が起こっている?
一体彼は、その瞳に何を映している?
そして自分自身に、何が起きている?
混乱しかない脳を必死に働かせ、千優は國枝の視線を追いかける。
都合よく彼は、自分の方を向いていた。これなら、周囲の確認も同時に出来るはず。
数回瞬きをくり返しながら、点と点だったものを己の瞳で繋ぎ合わせる。
その途中、不意に目尻から耳元へ雫が流れ落ちたが、彼女がそれに気づくことはなかった。
「……え?」
千優を待ち受けていたのは、もう何度目かわからぬ驚きだった。
見開いた瞳が、先程よりもずっと近く、大きくなった篠原の顔を映す。
彼の頬はほんのりと赤く、やけに瞬きの多い瞳は、忙しなく左右へ揺れていた。
どうやら、全身に感じていた重みの正体は彼らしい。
先程耳にした焦りを含んだ声から察するに、自分と一緒になって転んだのかもと、予測をたてた。
「あ、え……やな、ぎっ」
驚きの片隅で、やけに冷静な状況分析を始める自分がいる。それが少しばかり可笑しくて、許されるなら声を発し、笑いたいと思ってしまった。
しかし、彼女の思考とは裏腹に、その口元はピクリとも動かない。
篠原の口から漏れる声はやけにたどたどしい。それらはすべて、気を抜けば聞き逃しそうで、千優の困惑をより色濃いものへ変えていく。
いまだ解決されていないいくつもの疑問符が、脳内でひしめき合う。
その動きにつられ、千優の視線はやけにゆっくりと動いていく。
國枝を見つめ、篠原を見つめ、そしてそのまま目を伏せる。
三つの点を辿った後、その視界に映り込むのは、色鮮やかな浴衣と、角ばった指、そしてわずかに姿を覗かせる二つの膨らみだった。
國枝、篠原、そして己の胸元。それら三点を何度もくり返し見続ければ、脳が今自分が置かれている状況を少しずつ把握していく。
しかしそれと引き換えに、全身を巡る血が瞬く間に熱を持ち始めた。
どうしてと、小さな分身が忙しなく叫び出す。また、別の分身は、嫌だ嫌だと叫び右往左往するばかり。
ドクドクと心臓はやけに激しく動き、全身へ勢いよく血液を送り出す。
「……っ!」
「うわっ」
気づいた時には、己の上に圧し掛かっていた篠原を精一杯の力で突き飛ばしていた。
そのまま上半身を起こした千優は、急いでその場に立ち上がり、もつれる足を懸命に動かし一目散に出口を目指す。
そして、いまだ固まったままの國枝と壁の間に出来た隙間を抜け、逃げるようにその場を立ち去った。
このままプツリと意識が途切れ、気を失えたらどんなにいいか。
そんな想いを胸に、彼女は自分と友人に割り当てられた部屋を目指す。
それはすぐ隣だと言うのに、瞳と脳が、それらを上手く認識していない気さえしてくる。
自分の周囲に流れる時間がやけに遅くなり、周りの空間を歪めている。そんな摩訶不思議な感覚を、彼女は味わっているのだ。
鳴り止まぬ警鐘と、おさまることのない鼓動。息が乱れる原因は、走っているせいか、それとも違うものなのか。
頭の中も、心の中も、様々な想いが入り混じり、グチャグチャにかき回されていく。
「……っ」
転倒の衝撃と、篠原が咄嗟に生地を掴んだせいで、しっかり着付けをした浴衣は乱れていた。
そして、露わになった胸元に注がれる二人分の視線を脳が認識した時、頭の中で小さな爆発が起こった。
混乱が治まらないまま、自分が置かれている状況を客観的な視点で想像したことがいけなかったのかもしれない。
まるで、自分が篠原に押し倒されている。そんな誤解をしかねない状況を目撃されてしまった。
二人を見つめ、唖然とする國枝の姿を改めて目撃した瞬間、千優の脳と心のリミッターが音を立て壊れていく。
両手で掻き抱くように握りしめるのは浴衣の胸元。つい先程までそこに触れていたのは、己とは違う指だった。
消したくてもしっかり脳裏に焼きついた光景が、何度も目の前をチラつく。
そのたびに、布地を擦る指先を止めることが出来ず、指先がチリチリと熱を持つ。
そこへ幾度となく落ちる雫の存在に、彼女はいまだ気づいていなかった。
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