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馴れ初め編/第二章 お酒と油断はデンジャラス

10.二次元を愛する友

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 週末明け、千優はノロノロと重い足取りで出社し、総務部フロアの片隅にあるタイムカードを押した。
 そのまま与えられたデスクに着きフロア内を見回せば、始業前のわずかな時間を使い、皆それぞれ話に花を咲かせる姿が目につく。

(あまり、眠れなかった……)

 鞄から取り出したコンパクトを開き覗き込むと、そこにあるのは拙いメイクでは隠しきれない疲労が残る顔。
 口からは無意識のため息を零しながらコンパクトを仕舞い、今日までの二日間、ずっと悩み続けた疑問について考えてしまう。

 一晩世話になった國枝のマンションを出た後、千優は無事帰宅した。
 お茶を飲んで一息つき、部屋着へ着替えながらスマートフォンを確認してみると、驚くことにたくさんのメッセージが届いていた。
 そのほとんどは、懇親会の場で一緒だった同僚達からのもの。内容はどれも千優の体調を心配する内容だった。
 着替えとメッセージの確認を終えれば、中身が残るグラス片手に一度リビングへ向かい腰を下ろす。
 その後、皆からの言葉一つ一つに、謝罪と感謝の伝えるための文面作成を始めた。

(ひとまずこれで……あぁでも、やっぱり月曜日には直接お礼を言わなきゃなー)

 しばらくして、そんな思いを抱きつつ一度返信の手を止め、千優はグラスを手に取り喉を潤す。
 粗方返信を終えたと思えば、今度は謝罪文を目にした同僚達からの電話やメッセージなど、新たな反応が絶えずスマートフォンへ届く。
 思ってもいなかった展開に驚きつつ、千優はその後も律儀に対応を続け、気づいた時には、窓から見える空がすっかりオレンジ色に染まっていた。

『後藤さん……本当に迷惑かけちゃってすみません』

『気にしなくていいって。元々の原因は篠原なんだし』

 迷惑をかけてしまった後藤には、こちらから電話し、誠心誠意謝罪の気持ちを伝えた。しかし、返ってくるのは國枝が口にした内容とあまり変わらない。
 お前は何も悪くはない。そう何度言われても、素直に受け入れられるわけもなく、心の中にもどかしさが残る。
 しかし、脳内の『謝罪する人リスト』に連なる名前へ次々と横線が書き込まれていくことに、安堵する自分がいる。

 未だ連絡を取り謝罪していないのは、篠原とあの場にいた男達のみ。
 電話をかける勇気が持てず、気づけば月曜日の朝をむかえていた。
 篠原と連絡を取らない限り、男達の情報を聞き出すことも出来ない。気まずさ故に、あと一歩が踏み出せないでいる。

「…………」

 いつもなら、嫌なことはさっさと終わらせろと自分に喝を入れる所だが、未だそれが出来ていない。
 その原因は、千優の心に巣くうもう一つの悩みのせい。

『……昨日の柳、すっごくセクシーだった。ドキドキして……俺、どうにかなりだったんだぞ』

 脳裏に響く國枝の声に、頭を抱え息を吐く。

(國枝さんと、エッチしちゃったってこと? でも初めての時って、血が出るって聞いたような……いや、全員がそうじゃないとも聞いた)

 あの日、帰る直前に聞いた衝撃的な言葉は、今日までずっと千優を悩ませ続けている。
 最優先事項を理解しながら、気を抜くとすぐに耳の奥で蘇る色気満載な低音に、憎らしささえ覚えそうだ。
 酔いつぶれた挙句、恋人でも無い男に純潔を捧げる。そんな笑い話にすらならない出来事が、本当に起こるなんて思ってもいなかった。

 恋愛事に奥手なまま二十七年の人生を過ごしてきた。それはきっと、これからも変わらない気がする。
 千優とて女だ。ちっぽけながら恋というものに憧れを抱かないわけではない。しかし、己の性格を熟知している故に、九割近く諦めている。
 恋などしなくてもいいかと考える一方で、純潔を捧げるなら愛する人がいい。
 そんな、忘れかけていた欲が、今となって肥大しているのは、気のせいだろうか。

 正反対の思考を更にかき乱すのは、あの日見た國枝の微笑み。

『え、あの……嘘、です……よね?』

『……ふふっ』

 一夜の過ちと称される行為の有無を確認しようと必死になる千優に返ってくるのは、女子社員達がキャーキャー騒ぎそうな笑みだけ。
 あれからすでに二日。今更、「私は貴方と本当にセックスをしたんですか?」なんて、話を蒸し返す気力など残っていない。

「あぁ、もう最悪……」

 無意識に口から出たため息は、始業の音楽に紛れ、あっという間にかき消されていった。





 一瞬でも気を緩めれば、またあの負のスパイラルが待ち構えている。
 ピンと張った糸のように終始緊張感を持ち続け、千優は午前中の仕事を無心でこなしていく。
 目の前にあるパソコン画面に集中していれば、余計なことを考えなくて済む。それはとても有難く、普段以上に仕事が捗ったのは言うまでもない。

「千優、いつまでパソコン睨みつけてるの? もうお昼よ」

 ポンポンと肩を叩かれ、すぐそばで聞こえた声が、パソコンと一緒に水底へ沈んでいた意識を引き上げてくれる。

「……茅乃かやの

 現実と同調した意識と共にふり返ると、千優の背後には一人の女性社員がたたずんでいた。
 彼女の名前は水谷茅乃みずたにかやの。営業部で働く二つ年上の先輩だ。
 長い黒髪を一つにまとめ、眼鏡をかけたその姿は、まさしくキャリアウーマンという言葉がぴったりの出で立ちだ。

「ほら、社食行くよ。そ、れ、で……懇親会で起きた一部始終を話しなさい」

「…………」

 茅乃の言葉と共にキランと眼鏡が光る幻を目の当たりにし、返す言葉が見つからない。
 あの日、自分の近くにこそ居なかったものの、イベント自体には参加すると彼女は言っていた。
 どうやら、既にあの一件について知っているらしい。
 レンズの奥で、興味津々と輝く瞳を目にすれば、これまでとは別の意味で頭を抱えたくなる。

「話すも何も……そんな事してたら、漫画が読めないんじゃないの?」

「大丈夫。この週末で積んであった分は全部読破したわ。新刊の発売日はまだ先だし……今日の活力補給は千優でするから、心配しないで」

 日々、午後の業務に対する活力補給と言い、茅乃は昼の休憩時間に漫画や小説を読むことがある。
 それを知る千優は首を傾げてみたものの、見事なまでに逃げ道は閉ざされていた。

「腐女子が何リア充ぶってんの? 大人しく萌え補給して仕事してればいいじゃん」

「私にそんな口きいちゃうの? 別にいいのよ、千優が話したくないって言うんなら、他の子達に聞くから。尾ひれがつきまくった噂を私が信じ込んで、それをネタに同人誌描いて売るから」

「い、今すぐに財布を取って来ます」

 逃げ場を失い、尚且つ火花散る導火線付きの爆弾を投下されそうになった千優は、大人しく白旗を上げるしかない。
 あの一件について詳細を話すなど心底嫌なのだが、嘘に塗れた噂を彼女が信じ込む方が危険だと、脳内にいる分身が赤旗を振っている。

(喋りで茅乃に勝とうと思う方が無理だわ……はぁ)

 スッとその場に立ち上がり、重い足取りで千優が向かうのは、財布が保管されているロッカーのある更衣室。
 その後ろに続くのは、満面の笑みを浮かべる友人茅乃。


 男性社員にも引けを取らない営業力を発揮する女、水谷茅乃。その正体は、二次元をこよなく愛する腐女子である。
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