18 / 73
馴れ初め編/第二章 お酒と油断はデンジャラス
18.二度目のお誘い
しおりを挟む
その日千優は、仕事を終えいつもと変わらぬ夜を過ごしていた。
しかし、あとは寝るだけと思っていた彼女のもとに届いた一通のメッセージが、状況を一変させる。
寝室のベッド傍で床に座り寛いでいた時、そばに置いていたスマートフォンから、メッセージ着信を通知する音が鳴る。
壁掛け時計を確認すれば、時間は九時過ぎ。
平日の夜にメッセージを送ってくる間柄の人物など、両手で足りる程しかいない。友好関係は狭く深く、なんて言えば聞こえは良いが、ただ単に積極的な交流を持たなかったからだ。
まず最初に、家族という選択肢は消えた。実家にはまだ小さい子供が多く、今は寝かしつけたり宿題をしたりと、皆騒がしくしている頃だろう。
そうなると候補はおのずと絞られてくる。
可能性の高さを考えパッと頭を過ったのは、数日に一度は連絡を寄越す友人の顔。
(どうせ、また茅乃だろうな)
用事があろうが無かろうが、彼女から一方的にメッセージが届くなどしょっちゅうだ。
直前に見たアニメの感想を長文で書き記したものがほとんどで、千優は毎回スタンプ一つで返事を済ませている。
元々アニメを見る機会にほとんど恵まれず興味が無いのもあるが、少しでも興味を示した瞬間、執拗な布教活動が始まることを理解しているからだ。
「は……?」
今度は一体どんなアニメにハマっているのだろう。
そんな疑問を抱きながら、千優は手に取ったスマートフォンへ視線を落とす。
すると、流し読みをしようと半分閉じかけていた瞳が、画面に表示された名前を見た瞬間、大きく見開かれる。
(え……? な、んで?)
予想もしなかった困惑に陥りながらも、千優は画面に綴られた文字から目を離すことが出来ない。
『この前約束したアタシおすすめの店、いつなら行けそう?』
メッセージの送り主の名前は國枝螢。
身に覚えのない約束を問う文面に、ただでさえ混乱しかけた思考が更に散らかっていく気がした。
何度見返した所で、メッセージの内容が変わるわけでも、消えるわけでもなかった。
唯一違う点と言えば、メッセージのそばに既読の文字が表示されたことくらい。
それは、こちらがアプリを開き文面を確認したことを、國枝へ伝えるもの。
つまり、見ていなかったという言い訳は通用しない。
このまま相手の話に合わせ空いている日時を伝えても、詳細が謎のままでは当日まで不安が残る。
身に覚えのない約束だと正直に話すべきかと頭を悩ませ、千優はそのままベッドに背中を添わせ、横に倒れ込んだ。
「あーもう、めんどくさ」
頭がコツンと床につくと同時に、つい口から無意識な言葉が零れる。
異常な懐かれ具合といい、ショッピングモールの件といい、最近何かと國枝に関する悩みが増えた気がする。
正直に言えば、自ら関わるなどもっての外だ。出来る限り避けていきたい。
だからと言って、返事をしないわけにはいかない。ウダウダ考え続けても、きっと答えは出ないだろう。
(仕方ない)
千優は片手を床について体を起こし、最終手段を実行するため画面を軽くタップした。
「もしもし?」
数回のコール音に続き聞こえたのは、最近やたらと聞く機会が多い声だ。
「もしもし……あの、柳です、けど」
慌てて名乗った声色はいつもより固く、緊張を知らせる。電話での受け答えなど、仕事でいつもしているのに、何故か今日は心臓が煩い。
「えっと……急に電話かけちゃってすみません。今少しだけ、大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫よ。どうしたの電話なんて、珍しいわね」
耳をくすぐる小さな笑い声に、視線が無意識に泳ぐ。
千優からの電話が珍しいと彼は言ったが、二人が電話越しに話すのはこれで二回目だ。
一度目は、先日お礼の品を渡した時に國枝からかかってきたもの。そして二度目の今回、千優からは初めて電話をかけた。
「さっき送ってもらったメッセージについて、少し確認したいことがあって……」
脱線しかけた意識を戻すため、小さく咳払いをし、今回の目的について急ぎ話を切り出した。
「あの、ですね……覚えてないんです。國枝さんと約束したことについて」
変に取り繕って恥をかくより、ここは直球勝負だと、正直に現状を打ち明ける。しかし体験してみれば、これはこれででかなり恥ずかしいものだ。
今目の前に國枝の姿が無いことが、千優にとって唯一の救いと言える。
申し訳なさや恥ずかしさ、そして今すぐ電話を切り逃げ出したくなる程の情けなさを感じ、顔から耳、首筋までが一気に火照りだす。
「……あー、そっか。んー……確かに、あの状況だと、覚えてなくても仕方ないわねぇ」
言ってからには後戻り出来ないと、千優は一人怒りや呆れが飛んでくるものと覚悟する。
しかし、しばらく沈黙が続いた後、聞こえてきたのはどこか歯切れの悪い声だった。
この場にいないはずの國枝が、困惑している様子が易々と想像出来てしまい、心に焦りがうまれる。
「す、すみません! 大事な約束なのに覚えてないなんて!」
馬鹿だ阿保だと自分を罵倒したい気持ちを押し殺し、目に見えぬ相手へ思いっきり頭を下げながら声を張る。
部署こそ違うが、國枝は会社の先輩だ。仕事上の立場的にも、彼の方が明らかに上。普段の行いは別として、そんな人を相手に、約束を忘れるなどあってはならない。
「あはは、そんな大袈裟なものじゃないわ。ただ単に、今度二人で飲みに行こうかって話をしてたのよ」
「……? 二人で……飲みに?」
何か仕事に関わる重要な約束だろうか。それとも、何か手伝いを頼まれたのか。
混乱する中、脳が新たな言葉を拾い、思考に急ブレーキをかける。
あの一文の中から『約束』のワードだけに囚われ暴走寸前だった頭の中は、國枝から伝えられた真実により、最悪の事態を免れた。
その後、約束についての詳細を聞いた千優は、これまでとは違う意味で、心底土下座をしたいと思った。
「もう、本当……すみません。迷惑ばっかりかけて……」
「またそうやって謝る。これからは、アタシの前で謝るの禁止ね」
「えぇー」
「そんな声出してもダーメ!」
一方的な禁止令に、思わず不満が口から漏れる。電話越しの声を聞く限り、怒りや不快などと言ったものは感じられず、内心ホッとしたのは言うまでもない。
しかし、そう感じられるのは國枝のお陰であり、彼の細やかな気遣いの上に成り立っていることをすぐに理解する。
気を遣わせていることが申し訳なくなり、また謝罪の言葉が喉元からせりあがる。しかし、我に返った千優は、出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。
ここでまた、すみません、ごめんなさいと口にすれば、十中八九お叱りの言葉が飛んでくるのだから。
何度も言葉を交わしたおかげか、千優の緊張も大分和らいできた。
最初は強張っていた声も元に戻り、普段と変わりなく喋ることが出来る。
安堵する反面、たった今聞かされた己の醜態については、頭を抱えたくなるほど後悔した。
『カクテルなんて……あんなの、お酒飲んだ気になりましぇん』
『ぷっ! ふふ、そうね。今度、アタシがたまに行くおすすめのお店教えてあげるわ。日本酒とか焼酎とか、珍しいのも揃ってるの』
『絶対でしゅよ! やーくーそーくー! ふふっ』
(あれは、夢じゃなかったのか)
懇親会の日に見た、あたたかくてフワフワした不思議な夢は、ぼんやりと覚えている。
しかし、あれが現実で、酔っぱらって寝ぼけた自分が國枝と会話していたとは初耳だ。
一度はおさまった熱が、じわじわと全身を侵食していく。近頃不思議と多発するこの現象は、思考回路にまで影響を及ぼすやっかいなもの。
國枝と接する時によく発症するこれについて、根本的な原因を千優は未だ見つけられていない。
「柳ちゃん……悪いけど、約束の話、無しにしてくれない?」
「え?」
遠くへ行きかけた意識が、國枝の声により引き戻される。聞こえてきたのは、千優を驚かせるものだった。
「あの、えっと……どうして?」
予想もしなかった突然の申し出に、思わず首を傾げ、しどろもどろになりながら口を開く。
「どうしてって……ちゃん約束したわけでもないのに、アタシの我がままに付き合わせるのも悪いし」
すると電話越しに聞こえてきたのは、苦笑い混じりな國枝の声。
「付き合わせるって……元々は私が変なこと言ったせいじゃないですか。國枝さんが、謝ることじゃないです」
「ふふ、ありがとう」
謝罪禁止中のため、必死に考え抜いた言葉に返ってきたのは、小さな笑いと感謝の言葉だ。
「それじゃあ、改めてお誘いするわ。柳ちゃん、近々飲みに行かない? お酒の種類と料理の味は期待して大丈夫よ」
そのまま続く魅力的な誘い文句に、千優は困惑のあまり息を呑んだ。
まさか、改めて提案されるなど思ってもいなかった。
もしかして気を遣わせてしまっただろうかと、小さいながら確かに感じたあたたかさが消えていく。
こんな考えを最初に抱く自分が時々嫌になる。
モテる女性ならきっと、こういう時は素直に頷くのだろう。
一緒に酒を飲むことが嫌なわけではない。期待していいと言われ、正直興味が沸いている。
その気持ちを素直に言い出せればどんなにいいかと理解していながら、それを実行出来ない。
(あぁ、また……)
素敵な誘いにつられ、ふわふわと宙を漂っていた気持ちが、突然絡みついた黒い蔦によって瞬く間に引きずり降ろされる。
一度マイナス思考へ傾くと、とことん突き進んでしまう自分は、なんて愚かなのだろう。
それではいけないと思っているのに、直らないのは根っからの性格故なのかもしれない。
「やっぱり、アタシなんかと飲みにいくのは、嫌よね」
「そ、そんなことは無いです! 國枝さんと……國枝さんと一緒に、飲みに行きたいです。おすすめ、教えて……欲しいです」
千優はいつの間にか己の内に入り込み、声を出すという当たり前のことを忘れていた。
不意に耳元から聞こえる寂しげな声に、ずっと黙り込んでいたことに気づく。
咄嗟に、これまでよりも一際大きな声を発し、精一杯の言葉で意思を伝える。
迷惑じゃないかと散々悩んだにも関わらず、彼の魅惑的な誘いから目を背けることなど出来なかった。
途中からどんどん小さくなる声とは対照的に、恥ずかしさのせいで頬の赤みは増す一方だ。
「……柳ちゃん」
「は、はい」
「優しいのは素敵なことだけど、優しすぎるのは逆に罪よ? アタシ、柳ちゃんが心配だわ。いつか悪い人に騙されて、誘拐されないか心配」
「は? ……え?」
電話の向こうから聞こえる言葉の意味が理解出来ず、次々と脳内にうまれる疑問符。そんな千優の状況など知らず、「知らない人について行っちゃ駄目だからね」と國枝は喋り続ける。
その内容はまるで、子供に言い聞かせるようなものばかりだった。
その後、時折脱線しながら二人は予定をすり合わせ、飲み会の日時と仕事終わりに集合する場所について話し合った。
しかし、あとは寝るだけと思っていた彼女のもとに届いた一通のメッセージが、状況を一変させる。
寝室のベッド傍で床に座り寛いでいた時、そばに置いていたスマートフォンから、メッセージ着信を通知する音が鳴る。
壁掛け時計を確認すれば、時間は九時過ぎ。
平日の夜にメッセージを送ってくる間柄の人物など、両手で足りる程しかいない。友好関係は狭く深く、なんて言えば聞こえは良いが、ただ単に積極的な交流を持たなかったからだ。
まず最初に、家族という選択肢は消えた。実家にはまだ小さい子供が多く、今は寝かしつけたり宿題をしたりと、皆騒がしくしている頃だろう。
そうなると候補はおのずと絞られてくる。
可能性の高さを考えパッと頭を過ったのは、数日に一度は連絡を寄越す友人の顔。
(どうせ、また茅乃だろうな)
用事があろうが無かろうが、彼女から一方的にメッセージが届くなどしょっちゅうだ。
直前に見たアニメの感想を長文で書き記したものがほとんどで、千優は毎回スタンプ一つで返事を済ませている。
元々アニメを見る機会にほとんど恵まれず興味が無いのもあるが、少しでも興味を示した瞬間、執拗な布教活動が始まることを理解しているからだ。
「は……?」
今度は一体どんなアニメにハマっているのだろう。
そんな疑問を抱きながら、千優は手に取ったスマートフォンへ視線を落とす。
すると、流し読みをしようと半分閉じかけていた瞳が、画面に表示された名前を見た瞬間、大きく見開かれる。
(え……? な、んで?)
予想もしなかった困惑に陥りながらも、千優は画面に綴られた文字から目を離すことが出来ない。
『この前約束したアタシおすすめの店、いつなら行けそう?』
メッセージの送り主の名前は國枝螢。
身に覚えのない約束を問う文面に、ただでさえ混乱しかけた思考が更に散らかっていく気がした。
何度見返した所で、メッセージの内容が変わるわけでも、消えるわけでもなかった。
唯一違う点と言えば、メッセージのそばに既読の文字が表示されたことくらい。
それは、こちらがアプリを開き文面を確認したことを、國枝へ伝えるもの。
つまり、見ていなかったという言い訳は通用しない。
このまま相手の話に合わせ空いている日時を伝えても、詳細が謎のままでは当日まで不安が残る。
身に覚えのない約束だと正直に話すべきかと頭を悩ませ、千優はそのままベッドに背中を添わせ、横に倒れ込んだ。
「あーもう、めんどくさ」
頭がコツンと床につくと同時に、つい口から無意識な言葉が零れる。
異常な懐かれ具合といい、ショッピングモールの件といい、最近何かと國枝に関する悩みが増えた気がする。
正直に言えば、自ら関わるなどもっての外だ。出来る限り避けていきたい。
だからと言って、返事をしないわけにはいかない。ウダウダ考え続けても、きっと答えは出ないだろう。
(仕方ない)
千優は片手を床について体を起こし、最終手段を実行するため画面を軽くタップした。
「もしもし?」
数回のコール音に続き聞こえたのは、最近やたらと聞く機会が多い声だ。
「もしもし……あの、柳です、けど」
慌てて名乗った声色はいつもより固く、緊張を知らせる。電話での受け答えなど、仕事でいつもしているのに、何故か今日は心臓が煩い。
「えっと……急に電話かけちゃってすみません。今少しだけ、大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫よ。どうしたの電話なんて、珍しいわね」
耳をくすぐる小さな笑い声に、視線が無意識に泳ぐ。
千優からの電話が珍しいと彼は言ったが、二人が電話越しに話すのはこれで二回目だ。
一度目は、先日お礼の品を渡した時に國枝からかかってきたもの。そして二度目の今回、千優からは初めて電話をかけた。
「さっき送ってもらったメッセージについて、少し確認したいことがあって……」
脱線しかけた意識を戻すため、小さく咳払いをし、今回の目的について急ぎ話を切り出した。
「あの、ですね……覚えてないんです。國枝さんと約束したことについて」
変に取り繕って恥をかくより、ここは直球勝負だと、正直に現状を打ち明ける。しかし体験してみれば、これはこれででかなり恥ずかしいものだ。
今目の前に國枝の姿が無いことが、千優にとって唯一の救いと言える。
申し訳なさや恥ずかしさ、そして今すぐ電話を切り逃げ出したくなる程の情けなさを感じ、顔から耳、首筋までが一気に火照りだす。
「……あー、そっか。んー……確かに、あの状況だと、覚えてなくても仕方ないわねぇ」
言ってからには後戻り出来ないと、千優は一人怒りや呆れが飛んでくるものと覚悟する。
しかし、しばらく沈黙が続いた後、聞こえてきたのはどこか歯切れの悪い声だった。
この場にいないはずの國枝が、困惑している様子が易々と想像出来てしまい、心に焦りがうまれる。
「す、すみません! 大事な約束なのに覚えてないなんて!」
馬鹿だ阿保だと自分を罵倒したい気持ちを押し殺し、目に見えぬ相手へ思いっきり頭を下げながら声を張る。
部署こそ違うが、國枝は会社の先輩だ。仕事上の立場的にも、彼の方が明らかに上。普段の行いは別として、そんな人を相手に、約束を忘れるなどあってはならない。
「あはは、そんな大袈裟なものじゃないわ。ただ単に、今度二人で飲みに行こうかって話をしてたのよ」
「……? 二人で……飲みに?」
何か仕事に関わる重要な約束だろうか。それとも、何か手伝いを頼まれたのか。
混乱する中、脳が新たな言葉を拾い、思考に急ブレーキをかける。
あの一文の中から『約束』のワードだけに囚われ暴走寸前だった頭の中は、國枝から伝えられた真実により、最悪の事態を免れた。
その後、約束についての詳細を聞いた千優は、これまでとは違う意味で、心底土下座をしたいと思った。
「もう、本当……すみません。迷惑ばっかりかけて……」
「またそうやって謝る。これからは、アタシの前で謝るの禁止ね」
「えぇー」
「そんな声出してもダーメ!」
一方的な禁止令に、思わず不満が口から漏れる。電話越しの声を聞く限り、怒りや不快などと言ったものは感じられず、内心ホッとしたのは言うまでもない。
しかし、そう感じられるのは國枝のお陰であり、彼の細やかな気遣いの上に成り立っていることをすぐに理解する。
気を遣わせていることが申し訳なくなり、また謝罪の言葉が喉元からせりあがる。しかし、我に返った千優は、出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。
ここでまた、すみません、ごめんなさいと口にすれば、十中八九お叱りの言葉が飛んでくるのだから。
何度も言葉を交わしたおかげか、千優の緊張も大分和らいできた。
最初は強張っていた声も元に戻り、普段と変わりなく喋ることが出来る。
安堵する反面、たった今聞かされた己の醜態については、頭を抱えたくなるほど後悔した。
『カクテルなんて……あんなの、お酒飲んだ気になりましぇん』
『ぷっ! ふふ、そうね。今度、アタシがたまに行くおすすめのお店教えてあげるわ。日本酒とか焼酎とか、珍しいのも揃ってるの』
『絶対でしゅよ! やーくーそーくー! ふふっ』
(あれは、夢じゃなかったのか)
懇親会の日に見た、あたたかくてフワフワした不思議な夢は、ぼんやりと覚えている。
しかし、あれが現実で、酔っぱらって寝ぼけた自分が國枝と会話していたとは初耳だ。
一度はおさまった熱が、じわじわと全身を侵食していく。近頃不思議と多発するこの現象は、思考回路にまで影響を及ぼすやっかいなもの。
國枝と接する時によく発症するこれについて、根本的な原因を千優は未だ見つけられていない。
「柳ちゃん……悪いけど、約束の話、無しにしてくれない?」
「え?」
遠くへ行きかけた意識が、國枝の声により引き戻される。聞こえてきたのは、千優を驚かせるものだった。
「あの、えっと……どうして?」
予想もしなかった突然の申し出に、思わず首を傾げ、しどろもどろになりながら口を開く。
「どうしてって……ちゃん約束したわけでもないのに、アタシの我がままに付き合わせるのも悪いし」
すると電話越しに聞こえてきたのは、苦笑い混じりな國枝の声。
「付き合わせるって……元々は私が変なこと言ったせいじゃないですか。國枝さんが、謝ることじゃないです」
「ふふ、ありがとう」
謝罪禁止中のため、必死に考え抜いた言葉に返ってきたのは、小さな笑いと感謝の言葉だ。
「それじゃあ、改めてお誘いするわ。柳ちゃん、近々飲みに行かない? お酒の種類と料理の味は期待して大丈夫よ」
そのまま続く魅力的な誘い文句に、千優は困惑のあまり息を呑んだ。
まさか、改めて提案されるなど思ってもいなかった。
もしかして気を遣わせてしまっただろうかと、小さいながら確かに感じたあたたかさが消えていく。
こんな考えを最初に抱く自分が時々嫌になる。
モテる女性ならきっと、こういう時は素直に頷くのだろう。
一緒に酒を飲むことが嫌なわけではない。期待していいと言われ、正直興味が沸いている。
その気持ちを素直に言い出せればどんなにいいかと理解していながら、それを実行出来ない。
(あぁ、また……)
素敵な誘いにつられ、ふわふわと宙を漂っていた気持ちが、突然絡みついた黒い蔦によって瞬く間に引きずり降ろされる。
一度マイナス思考へ傾くと、とことん突き進んでしまう自分は、なんて愚かなのだろう。
それではいけないと思っているのに、直らないのは根っからの性格故なのかもしれない。
「やっぱり、アタシなんかと飲みにいくのは、嫌よね」
「そ、そんなことは無いです! 國枝さんと……國枝さんと一緒に、飲みに行きたいです。おすすめ、教えて……欲しいです」
千優はいつの間にか己の内に入り込み、声を出すという当たり前のことを忘れていた。
不意に耳元から聞こえる寂しげな声に、ずっと黙り込んでいたことに気づく。
咄嗟に、これまでよりも一際大きな声を発し、精一杯の言葉で意思を伝える。
迷惑じゃないかと散々悩んだにも関わらず、彼の魅惑的な誘いから目を背けることなど出来なかった。
途中からどんどん小さくなる声とは対照的に、恥ずかしさのせいで頬の赤みは増す一方だ。
「……柳ちゃん」
「は、はい」
「優しいのは素敵なことだけど、優しすぎるのは逆に罪よ? アタシ、柳ちゃんが心配だわ。いつか悪い人に騙されて、誘拐されないか心配」
「は? ……え?」
電話の向こうから聞こえる言葉の意味が理解出来ず、次々と脳内にうまれる疑問符。そんな千優の状況など知らず、「知らない人について行っちゃ駄目だからね」と國枝は喋り続ける。
その内容はまるで、子供に言い聞かせるようなものばかりだった。
その後、時折脱線しながら二人は予定をすり合わせ、飲み会の日時と仕事終わりに集合する場所について話し合った。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
女の子がほとんど産まれない国に転生しました。
さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。
100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳
そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。
当面は2日に1話更新予定!
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
再婚相手の連れ子は、僕が恋したレンタル彼女。――完璧な義妹は、深夜の自室で「練習」を強いてくる
まさき
恋愛
「初めまして、お兄さん。これからよろしくお願いしますね」
父の再婚によって現れた義理の妹・水瀬 凛(みなせ りん)。
清楚なワンピースを纏い、非の打ち所がない笑顔で挨拶をする彼女を見て、僕は息が止まるかと思った。
なぜなら彼女は、僕が貯金を叩いて一度だけレンタルし、その圧倒的なプロ意識と可憐さに――本気で恋をしてしまった人気No.1レンタル彼女だったから。
学校では誰もが憧れる高嶺の花。
家では親も感心するほど「理想の妹」を演じる彼女。
しかし、二人きりになった深夜のキッチンで、彼女は冷たい瞳で僕を射抜く。
「……私の仕事のこと、親に言ったらタダじゃおかないから」
秘密を共有したことで始まった、一つ屋根の下の奇妙な生活。
彼女は「さらなるスキルアップ」を名目に、僕の部屋を訪れるようになる。
「ねえ、もっと本気で抱きしめて。……そんなんじゃ、次のデートの練習にならないでしょ?」
これは、仕事(レンタル)か、演技(家族)か、それとも――。
完璧すぎる義妹に翻弄され、理性が溶けていく10日間の物語。
『著者より』
もしこの話が合えば、マイページに他の作品も置いてあります。
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/658724858
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる