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馴れ初め編/第二章 お酒と油断はデンジャラス
20.白いお守り(國枝視点)
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柳千優という女性に心惹かれ始めたのは、一体いつからだろう。
どこまでも真っ直ぐな佇まいを目にした時か、それとも揺らがぬ瞳に囚われた時か。
考えれば考える程、求めるものは見つからない。そんな己でさえわからぬ答えを、いつまでも探そうとは思わなかった。
彼女の姿を目にし、声を耳にする。そして言葉を交わすたび、一際力強く脈打つ鼓動が何よりの証となるのだから。
約三年前のとある平日。取引先との打ち合わせを終え、会社へ戻ってきた國枝は、持ち出した資料を返却するため、社内を歩き回っていた。
表紙に印字された目印を頼りに、各階の資料室を渡り歩くのはかなりの運動量だ。
(えっと、この階で返すのは……)
人気の無い廊下を歩きながら、腕に抱えた資料へ視線を落とし、次に返却するものを選別する。
時折周囲に人がいないかと視線をあげるも、資料室周辺は人の往来が割と少ない。
残業中、薄暗い資料室へ行くのが怖いと言っていた女性社員を思い出すと、無意識に苦笑いが零れた。
國枝の中には恐怖心など無く、早く財布片手に食堂へ走りたい思いが先走るせいで、自然と歩みが速くなった。
「だから、何度も言ってるじゃないですか。三浦さんには彼氏がいるんです。だから、貴方とは付き合えないって」
「……?」
目的地手前の廊下を歩いていた時、静まり返った空気を切り裂く怒声が聞こえた。
穏やかとは言い難い内容に、思わず足を止めた國枝は、曲がり角の柱に身を隠し、こっそり状況を見ようと覗き込む。
すると、今しがた向かおうとしていた資料室の前に、三人の人影を発見した。
まず目についたのは、男と思わしきスーツを纏った後ろ姿。
それと対峙するように、鋭い眼差しをしたショートカットの女性社員の姿もある。
そして、彼女の背に隠れ怯えた様子を見せる女性社員だ。
(もしかしなくても……これって、ヤバい感じ?)
数メートル離れた場所に居ても伝わる緊張感に、ゴクリと喉が上下する。
あんな修羅場を通り抜け、暢気に資料返却へ行く気にもなれず、どうしたものかと國枝は頭を悩ませた。
「何で無関係なお前に、そんなことを言われなきゃいけないんだ」
「わ、私が何度言っても……全然聞いてくれなかったじゃないですか」
しばらく、三人のやりとりを見聞きしていると、少しずつ状況が見えてくる。
三浦と呼ばれていたのは、きっと今も尚怯えている女性のことだ。
粗方、男が強引に交際を迫り、彼女に拒絶された事に対し怒っているのだろう。三浦が必死に主張を続けるが、状況的に見ればマイナスなことは明らかだ。
そんな中、当事者二人に挟まれる形で立つショートカットの女性は、臆することなく男を見つめている。
自らの意思であの場にいるとしたら、その無鉄砲さは正直褒められたものではない。
「三浦さんもこう言っているので、諦めてください。きっと、他にも素敵な人が見つかると思います」
(……あの子、火に油を注いでるって自覚、あるのかな)
野次馬のように修羅場をのぞき見しながら、國枝は今にも飛び出しそうなため息をグッと堪える。
三浦を守る女性の言っていることは正論だが、現状を考えればそれは逆効果だ。
男が怒りに身を任せ暴走しようものなら、女性二人ではとても相手にならないだろう。
「あーあ、どうするよ誠司さんや」
「どうするも何も、さっさと片付けろ」
「……っ!」
このまま最悪な状況を目撃してしまうのかと、身体に悪寒が走る。すると次の瞬間、背後から聞こえた声にピクリと両肩が震えた。
「なっ! しゃ、社長……浅生さ……」
「シーッ!」
思わず背後をふり返れば、かくれんぼ中の子供みたいに口元に人差し指をあてる男と、眉間に皺を寄せた眼鏡姿の男の姿が目につく。
咄嗟に己の口を手で覆い隠しながら、混乱の中加速する鼓動を落ち着かせるため、浅い呼吸をくり返した。
(どうして、社長と副社長がこんな所に?)
眼鏡をかけた男の名は藤原誠司。そして、妙に茶目っ気のある男の名は浅生大樹。
株式会社『Wiht U』を築いたトップ二人の登場に、驚かない方が無理というものだ。
何度か顔を合わせ、会話をしたことがある國枝でさえ、鼓動は一向に鳴り止まない。
「あぁもう、いい加減煩いんだよ! 部外者は引っ込んでろ!」
「お願い止めてぇー!」
白く染まりかけた思考が、数メートル先から聞こえるやり取りによって、瞬時に色づいていく。
咄嗟に社長達へ向けていた視線を戻せば、男に胸倉を掴まれ、今にも殴られそうな無鉄砲女の姿が視界に飛び込んできた。
(……っ、駄目だ!)
色を取り戻し、複数のそれに染まり始めた脳内が、瞬く間に赤く色を変える。
身体の底から湧き上がる熱に押され、考えるよりも先に駆けだそうと、國枝は両足に力をこめた。
「大樹、行け」
「あいよ」
「……っ!」
しかし、身体が飛び出すよりも先に、すぐ隣を何かが駆け抜ける気配を感じた。
唖然と見開いた視界には、角を曲がり駆けていく浅生の後ろ姿が数秒映り込む。
「ここは任せてくれ」
ポン、と誰かに肩を叩かれたと認識すれば、今度は藤原の声が聞こえ、また頬に風を感じた。
「はいはーい、そこまで、そこまで。君は一回、その手を放そうか」
「あ、あの! これは……」
「女の子に殴りかかろうとするのは、良くないね」
慌てて意識を資料室前へ向ける。すると、そこには新たに浅生と藤原の姿があった。
どうやら、浅生がバカな男の腕を掴み、最悪の事態を阻止してくれたらしい。
先程まであんなに威勢の良かった男の顔が、みるみる青ざめていくのがわかる。
冷静さを取り戻し、自分が何をしたかを理解したのだろう。
「二人とも、怪我は無いか?」
「はぁ……大丈夫、です」
「本当に? 本当に、怪我してない?」
藤原は女性達のフォローにまわった様だ。先程まで泣きそうだった三浦は、無鉄砲女を心配そうに見つめ、その瞳を潤ませている。
無鉄砲女の方は、状況を把握しきれていないようで、ポカンとただ目の前にいる面々を見つめていた。
こんな状況だと言うのに、彼女は表情一つ変えず受け答えをしている。
(不思議な子)
これまで出会った事のない女性を前にし、言葉にし難い何かが芽生えた瞬間だった。
その後、騒動を起こした男は減俸処分が言い渡されたが依願退職したと噂で聞いた。
しかし、國枝は特に気に留めることも無く、己の仕事に没頭していく。
その日の仕事をこなし、時に同僚や後輩たちと酒を飲む。
普段と変わらぬ毎日を送る中で、彼は、あの時目撃した無鉄砲な女性社員の姿を時折見かける、いや気に留めるようになった。
「いやー、ごめんね。荷物運び手伝ってもらっちゃって」
「大丈夫です、このくらい。それに、一人じゃ大変だろうし……」
ある日は、先輩らしき女性社員の荷物運びを手伝っていた。
「ちょ、ちょっと! 今じゃなくていいって。パンツ見えてるよ!」
「蛍光灯切れた状態でパソコン作業するの大変でしょ? いいじゃんパンツくらい。どうせ男なんて今誰も居ないんだし」
ある時は、同じ部署の女性社員が慌てふためく中、不安定な椅子の上にのぼり、蛍光灯を取り換えていた。
彼女に対する印象が、不思議な子から面白い子へ変わっていく。
それと同時期、國枝はある噂を耳にした。それは、女っぽい自分とは真逆な女性社員がいるというもの。
そして数か月後、同期の後藤、後輩の篠原から紹介され、彼女――柳千優との正式な対面を果たした。
◇ ◇ ◇
「……あら?」
カウンターへ戻ってきた國枝は、席を離れる前と違う状況に首を傾げる。
顔なじみの店主と女性店員が困ったように眉を下げ、とある場所を見つめているのだ。
「二人共一体どうし……あー」
思わず口を開きかけるも、視界に映りこむものがすべてを物語っていた。
何故この可能性を考えていなかったのかと、己に呆れ思わずため息を吐く。
酔いつぶれ幸せそうに眠る千優の姿から、目を離すことが出来なかった。
「何回も声かけてるんですけど、全然起きなくて……」
助けを求めるような店員の視線に、口から苦笑いがこぼれる。
(こんな事になるんなら、飲み始める前に家の場所を聞いておくんだった)
千優の限界を把握していなかった己の失態に頭を抱えたくなった。
後藤から、彼女は結構酒に強い方だと聞いていたが、詳細を掴んでいたわけではない。
もっと早く切り上げるべきだったと後悔するも、今はそれどころではないと頭を切り替える。
「お会計お願い出来る?」
「は、はい!」
伝票を女性店員に渡せば、パタパタとレジカウンターへ走る後ろ姿が遠ざかっていく。
「タクシー、呼んだ方がいいか?」
「大丈夫よ。仕方ないから、このまま家に連れて行くわ。そんなに遠くないし、アタシも酔い覚ましのついでに歩いて帰る」
店主と言葉を交わしながら、椅子の上に置いてあった己の鞄から財布を取り出す。
「家に連れてくって……螢、手だけは出すんじゃねぇよ? いくら何でも、柳ちゃんが可哀想だ」
「……は?」
そのまま、中の残金を軽く確認していると、あまりにも突飛押しも無い言葉の数々が聞こえてきた。
数枚の札を中途半端に取り出した状態で、手の動きが止まり、手元に向いていた視線をあげた國枝は、呆れ顔の店主を睨みつける。
「何バカな冗談言ってるのよ」
「冗談なんかじゃねぇよ。気に入ってるんだろ? この子のこと」
そう言って彼は、いまだ眠り続ける千優へ視線を向けた。
「お前、誰か連れて飲みに来いって言っても、今まで連れてきたこと無かっただろう? それが、今日はこれだ」
全てを見透かしたような視線を受け、男へ向ける眼差しがつい鋭くなる。
どんな意味を込め男が口を開いたのかを、なんとなく想像し理解したからだろう。
この店に通い出し、どれくらいの年月が過ぎたのか。
互いを知りすぎるというのは、なんとも厄介なものだ。
にんまりと憎たらしい笑みを浮かべる店主の目の前で、國枝は掴んでいた札をカウンター席へ叩きつける。
「あっ」
その時、支払い用にと出した札に挟まった白い紙が目に入り、慌てて綺麗に折り畳まれたそれを抜き取り、財布の中へ戻す。
「ん? 何だそりゃ」
「別に、何だっていいでしょう」
店主の言葉を突っぱね、プイッと國枝はそっぽを向く。
苛立ちのせいで刺々しくなった心を落ち着かせようと、財布を持つ手に力が入った。
彼の指先が触れるそれは、以前千優にジャージを貸した時、返却時に貰った小さな便箋だ。
普段の男らしい立ち振る舞いからは、想像も出来ぬ綺麗な文字で綴られた感謝の言葉。
それらが認められた紙を、あの日からずっと國枝はお守りとして持ち歩いている。
どこまでも真っ直ぐな佇まいを目にした時か、それとも揺らがぬ瞳に囚われた時か。
考えれば考える程、求めるものは見つからない。そんな己でさえわからぬ答えを、いつまでも探そうとは思わなかった。
彼女の姿を目にし、声を耳にする。そして言葉を交わすたび、一際力強く脈打つ鼓動が何よりの証となるのだから。
約三年前のとある平日。取引先との打ち合わせを終え、会社へ戻ってきた國枝は、持ち出した資料を返却するため、社内を歩き回っていた。
表紙に印字された目印を頼りに、各階の資料室を渡り歩くのはかなりの運動量だ。
(えっと、この階で返すのは……)
人気の無い廊下を歩きながら、腕に抱えた資料へ視線を落とし、次に返却するものを選別する。
時折周囲に人がいないかと視線をあげるも、資料室周辺は人の往来が割と少ない。
残業中、薄暗い資料室へ行くのが怖いと言っていた女性社員を思い出すと、無意識に苦笑いが零れた。
國枝の中には恐怖心など無く、早く財布片手に食堂へ走りたい思いが先走るせいで、自然と歩みが速くなった。
「だから、何度も言ってるじゃないですか。三浦さんには彼氏がいるんです。だから、貴方とは付き合えないって」
「……?」
目的地手前の廊下を歩いていた時、静まり返った空気を切り裂く怒声が聞こえた。
穏やかとは言い難い内容に、思わず足を止めた國枝は、曲がり角の柱に身を隠し、こっそり状況を見ようと覗き込む。
すると、今しがた向かおうとしていた資料室の前に、三人の人影を発見した。
まず目についたのは、男と思わしきスーツを纏った後ろ姿。
それと対峙するように、鋭い眼差しをしたショートカットの女性社員の姿もある。
そして、彼女の背に隠れ怯えた様子を見せる女性社員だ。
(もしかしなくても……これって、ヤバい感じ?)
数メートル離れた場所に居ても伝わる緊張感に、ゴクリと喉が上下する。
あんな修羅場を通り抜け、暢気に資料返却へ行く気にもなれず、どうしたものかと國枝は頭を悩ませた。
「何で無関係なお前に、そんなことを言われなきゃいけないんだ」
「わ、私が何度言っても……全然聞いてくれなかったじゃないですか」
しばらく、三人のやりとりを見聞きしていると、少しずつ状況が見えてくる。
三浦と呼ばれていたのは、きっと今も尚怯えている女性のことだ。
粗方、男が強引に交際を迫り、彼女に拒絶された事に対し怒っているのだろう。三浦が必死に主張を続けるが、状況的に見ればマイナスなことは明らかだ。
そんな中、当事者二人に挟まれる形で立つショートカットの女性は、臆することなく男を見つめている。
自らの意思であの場にいるとしたら、その無鉄砲さは正直褒められたものではない。
「三浦さんもこう言っているので、諦めてください。きっと、他にも素敵な人が見つかると思います」
(……あの子、火に油を注いでるって自覚、あるのかな)
野次馬のように修羅場をのぞき見しながら、國枝は今にも飛び出しそうなため息をグッと堪える。
三浦を守る女性の言っていることは正論だが、現状を考えればそれは逆効果だ。
男が怒りに身を任せ暴走しようものなら、女性二人ではとても相手にならないだろう。
「あーあ、どうするよ誠司さんや」
「どうするも何も、さっさと片付けろ」
「……っ!」
このまま最悪な状況を目撃してしまうのかと、身体に悪寒が走る。すると次の瞬間、背後から聞こえた声にピクリと両肩が震えた。
「なっ! しゃ、社長……浅生さ……」
「シーッ!」
思わず背後をふり返れば、かくれんぼ中の子供みたいに口元に人差し指をあてる男と、眉間に皺を寄せた眼鏡姿の男の姿が目につく。
咄嗟に己の口を手で覆い隠しながら、混乱の中加速する鼓動を落ち着かせるため、浅い呼吸をくり返した。
(どうして、社長と副社長がこんな所に?)
眼鏡をかけた男の名は藤原誠司。そして、妙に茶目っ気のある男の名は浅生大樹。
株式会社『Wiht U』を築いたトップ二人の登場に、驚かない方が無理というものだ。
何度か顔を合わせ、会話をしたことがある國枝でさえ、鼓動は一向に鳴り止まない。
「あぁもう、いい加減煩いんだよ! 部外者は引っ込んでろ!」
「お願い止めてぇー!」
白く染まりかけた思考が、数メートル先から聞こえるやり取りによって、瞬時に色づいていく。
咄嗟に社長達へ向けていた視線を戻せば、男に胸倉を掴まれ、今にも殴られそうな無鉄砲女の姿が視界に飛び込んできた。
(……っ、駄目だ!)
色を取り戻し、複数のそれに染まり始めた脳内が、瞬く間に赤く色を変える。
身体の底から湧き上がる熱に押され、考えるよりも先に駆けだそうと、國枝は両足に力をこめた。
「大樹、行け」
「あいよ」
「……っ!」
しかし、身体が飛び出すよりも先に、すぐ隣を何かが駆け抜ける気配を感じた。
唖然と見開いた視界には、角を曲がり駆けていく浅生の後ろ姿が数秒映り込む。
「ここは任せてくれ」
ポン、と誰かに肩を叩かれたと認識すれば、今度は藤原の声が聞こえ、また頬に風を感じた。
「はいはーい、そこまで、そこまで。君は一回、その手を放そうか」
「あ、あの! これは……」
「女の子に殴りかかろうとするのは、良くないね」
慌てて意識を資料室前へ向ける。すると、そこには新たに浅生と藤原の姿があった。
どうやら、浅生がバカな男の腕を掴み、最悪の事態を阻止してくれたらしい。
先程まであんなに威勢の良かった男の顔が、みるみる青ざめていくのがわかる。
冷静さを取り戻し、自分が何をしたかを理解したのだろう。
「二人とも、怪我は無いか?」
「はぁ……大丈夫、です」
「本当に? 本当に、怪我してない?」
藤原は女性達のフォローにまわった様だ。先程まで泣きそうだった三浦は、無鉄砲女を心配そうに見つめ、その瞳を潤ませている。
無鉄砲女の方は、状況を把握しきれていないようで、ポカンとただ目の前にいる面々を見つめていた。
こんな状況だと言うのに、彼女は表情一つ変えず受け答えをしている。
(不思議な子)
これまで出会った事のない女性を前にし、言葉にし難い何かが芽生えた瞬間だった。
その後、騒動を起こした男は減俸処分が言い渡されたが依願退職したと噂で聞いた。
しかし、國枝は特に気に留めることも無く、己の仕事に没頭していく。
その日の仕事をこなし、時に同僚や後輩たちと酒を飲む。
普段と変わらぬ毎日を送る中で、彼は、あの時目撃した無鉄砲な女性社員の姿を時折見かける、いや気に留めるようになった。
「いやー、ごめんね。荷物運び手伝ってもらっちゃって」
「大丈夫です、このくらい。それに、一人じゃ大変だろうし……」
ある日は、先輩らしき女性社員の荷物運びを手伝っていた。
「ちょ、ちょっと! 今じゃなくていいって。パンツ見えてるよ!」
「蛍光灯切れた状態でパソコン作業するの大変でしょ? いいじゃんパンツくらい。どうせ男なんて今誰も居ないんだし」
ある時は、同じ部署の女性社員が慌てふためく中、不安定な椅子の上にのぼり、蛍光灯を取り換えていた。
彼女に対する印象が、不思議な子から面白い子へ変わっていく。
それと同時期、國枝はある噂を耳にした。それは、女っぽい自分とは真逆な女性社員がいるというもの。
そして数か月後、同期の後藤、後輩の篠原から紹介され、彼女――柳千優との正式な対面を果たした。
◇ ◇ ◇
「……あら?」
カウンターへ戻ってきた國枝は、席を離れる前と違う状況に首を傾げる。
顔なじみの店主と女性店員が困ったように眉を下げ、とある場所を見つめているのだ。
「二人共一体どうし……あー」
思わず口を開きかけるも、視界に映りこむものがすべてを物語っていた。
何故この可能性を考えていなかったのかと、己に呆れ思わずため息を吐く。
酔いつぶれ幸せそうに眠る千優の姿から、目を離すことが出来なかった。
「何回も声かけてるんですけど、全然起きなくて……」
助けを求めるような店員の視線に、口から苦笑いがこぼれる。
(こんな事になるんなら、飲み始める前に家の場所を聞いておくんだった)
千優の限界を把握していなかった己の失態に頭を抱えたくなった。
後藤から、彼女は結構酒に強い方だと聞いていたが、詳細を掴んでいたわけではない。
もっと早く切り上げるべきだったと後悔するも、今はそれどころではないと頭を切り替える。
「お会計お願い出来る?」
「は、はい!」
伝票を女性店員に渡せば、パタパタとレジカウンターへ走る後ろ姿が遠ざかっていく。
「タクシー、呼んだ方がいいか?」
「大丈夫よ。仕方ないから、このまま家に連れて行くわ。そんなに遠くないし、アタシも酔い覚ましのついでに歩いて帰る」
店主と言葉を交わしながら、椅子の上に置いてあった己の鞄から財布を取り出す。
「家に連れてくって……螢、手だけは出すんじゃねぇよ? いくら何でも、柳ちゃんが可哀想だ」
「……は?」
そのまま、中の残金を軽く確認していると、あまりにも突飛押しも無い言葉の数々が聞こえてきた。
数枚の札を中途半端に取り出した状態で、手の動きが止まり、手元に向いていた視線をあげた國枝は、呆れ顔の店主を睨みつける。
「何バカな冗談言ってるのよ」
「冗談なんかじゃねぇよ。気に入ってるんだろ? この子のこと」
そう言って彼は、いまだ眠り続ける千優へ視線を向けた。
「お前、誰か連れて飲みに来いって言っても、今まで連れてきたこと無かっただろう? それが、今日はこれだ」
全てを見透かしたような視線を受け、男へ向ける眼差しがつい鋭くなる。
どんな意味を込め男が口を開いたのかを、なんとなく想像し理解したからだろう。
この店に通い出し、どれくらいの年月が過ぎたのか。
互いを知りすぎるというのは、なんとも厄介なものだ。
にんまりと憎たらしい笑みを浮かべる店主の目の前で、國枝は掴んでいた札をカウンター席へ叩きつける。
「あっ」
その時、支払い用にと出した札に挟まった白い紙が目に入り、慌てて綺麗に折り畳まれたそれを抜き取り、財布の中へ戻す。
「ん? 何だそりゃ」
「別に、何だっていいでしょう」
店主の言葉を突っぱね、プイッと國枝はそっぽを向く。
苛立ちのせいで刺々しくなった心を落ち着かせようと、財布を持つ手に力が入った。
彼の指先が触れるそれは、以前千優にジャージを貸した時、返却時に貰った小さな便箋だ。
普段の男らしい立ち振る舞いからは、想像も出来ぬ綺麗な文字で綴られた感謝の言葉。
それらが認められた紙を、あの日からずっと國枝はお守りとして持ち歩いている。
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