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ケアンズ最後の夜 編
〝なかった事〟にするな
そのあと彼は私の腕を引いて抱き寄せ、後ろから抱く体勢になる。
「……で、どうした?」
今度はまじめだけれど、穏やかで優しい口調で尋ねられ、ふざけて逃れられる状態ではないと知る。
尊さんは大事な話をする時はいつも、私と目を合わさない。
私が彼の表情を窺い、どう思っているか気にするのを分かっているから、あえて顔を合わさないのだ。
「……大した事じゃないんです。分かっているでしょう?」
「でも、朱里が今も苦しんでいるなら、俺にとっては〝大した事〟だ」
尊さんはお湯の中で私の手を握り、マッサージしてくる。
「同じ話を聞かせてしまうから、気が進まないんです。……今は楽しい旅行の最中だし」
「旅行中だからって、まじめな話をしちゃ駄目だってルールはない。俺がいいって言ってるんだから、言えよ」
私は両腕を尊さんのそれに絡め、溜め息をついてから話し始めた。
「……さっきみたいなおふざけ、普通の男性なら……、ううん、昭人なら嫌がるだろうなって思ってたんです。『女が下ネタ言うな』『仮にも好きな男の前でなら、幻滅させる事を言うな』。そういう無言の圧力があって、本当の自分を出すのは〝良くない事〟なんだと思ってました」
「それは、ただのモラハラだよ。『朱里だけ本当の自分を曝け出したら駄目で、自分は好き勝手していい』なんておかしいだろ」
私が一人でグルグル悩んでいた事を、尊さんはサクッと解決してしまう。
「……そうか、モラハラだったのか」
昭人がモラハラ気質だったのは分かっていたはずなのに、彼に押しつけられた価値観や恐怖心が、今も私を縛っている。
「前にも言ったけど、モラハラの被害者は〝そう〟扱われてるって自覚できていないんだ。前に俺が『田村はモラハラだ』と言って、朱里は納得したけど、少し経ったらその〝気付き〟を忘れてしまう。長年植え付けられた感覚を、一発で払拭するなんて無理なんだ。モラハラとか、精神的DVの被害は、長年にわたって精神という土に染み入っている。ちょっと綺麗な水を注いだからって、土に染みこんだ毒が全部抜ける訳じゃないんだ」
「……うん」
「迷った時は、何回も口にしていい。そのたびに俺がトラウマを否定するから」
「…………うん……っ」
私は涙を流し、ギューッと尊さんの腕を抱き締める。
「……弱くてごめんなさい……っ。尊さんだって、ずっとつらい思いをしたのに、私、自分だけが可哀想みたいな素振りをして……っ」
「いいんだ。俺と朱里が同じ痛みを抱えたとしても、どれぐらい耐えられるかには個人差がある。だから自分と俺を比べなくていい。どっちのほうが不幸かなんて、どうでもいいんだ。今、朱里が傷付いている事を優先していい」
とうとう堪らなくなって、私は振り向いて彼を抱き締めた。
「…………っ、恐いんです……っ。尊さんや恵といると、心の底から〝本当の自分〟が出てきて、のびのびできて精神的にとても楽です。楽しい時を過ごしているのに、ふっ……、と我に返るように、心の中で昭人の声がします。いつも冷笑してて、物事を斜めに見ていて、上辺だけは格好付けているのに、中身は自分の体面を守るのに必死な人。……今まで昭人に言われた数々の言葉が、心の底の柔らかい部分に刺さって、なかなか抜けないんです。それがたびたび蘇って、私を苦しめる……っ」
尊さんは私の頭を撫で、チュッと頬にキスをする。
「もう昭人は私に会う事すらできないと分かっています。私はもう安全で、大好きな人と結婚して、幸せになっていくだけ。これから新しい家族を築いて、別の問題に直面していかなきゃならないのに、一年以上も前に別れた人の影響なんて受けなくていい。……分かっているはずなのに……」
彼は労る目で私を見つめ、頬に流れた涙を舐める。
「悩む事を〝悪〟だと思わなくていい。朱里は九年近く田村と付き合い続け、奴のモラハラに侵され続けてきた。九年だぜ? 俺と付き合った時間よりずっと長い。九年もの洗脳を、一年も経っていない幸せで上書きしようなんて無理なんだ。今が満たされていたら、過去の事を思い出して悩むのは生産的じゃない、良くない事だと思いがちだ。でも、そう思わなくていい。つらいものはつらいんだ」
「うぅ……っ」
私はグスッと洟を啜り、尊さんの肩に額をつける。
「朱里の傷なのに、朱里が認めてやんなきゃ誰が苦しむんだよ。俺はお前に寄り添っていたいけど、朱里の苦しみを直にシェアする事はできない。つらい目に合った事を認めて、両手で受け止めて、思いきり怒って嘆くんだ。大人のふりをして我慢しなくていい。痛みをなあなあにしていたら、未消化のまま将来に持ち越してしまう。だったら、痛みがまだある時に思いきり苦しんで、発散するんだ。長年モラハラされた挙げ句、ストーカーされて誘拐され、暴力を振るわれた事を、〝なかった事〟にするな。苦しんだ朱里が可哀想だ」
「うぅう……」
目の奥が熱くなり、次から次に涙が出てくる。
「……で、どうした?」
今度はまじめだけれど、穏やかで優しい口調で尋ねられ、ふざけて逃れられる状態ではないと知る。
尊さんは大事な話をする時はいつも、私と目を合わさない。
私が彼の表情を窺い、どう思っているか気にするのを分かっているから、あえて顔を合わさないのだ。
「……大した事じゃないんです。分かっているでしょう?」
「でも、朱里が今も苦しんでいるなら、俺にとっては〝大した事〟だ」
尊さんはお湯の中で私の手を握り、マッサージしてくる。
「同じ話を聞かせてしまうから、気が進まないんです。……今は楽しい旅行の最中だし」
「旅行中だからって、まじめな話をしちゃ駄目だってルールはない。俺がいいって言ってるんだから、言えよ」
私は両腕を尊さんのそれに絡め、溜め息をついてから話し始めた。
「……さっきみたいなおふざけ、普通の男性なら……、ううん、昭人なら嫌がるだろうなって思ってたんです。『女が下ネタ言うな』『仮にも好きな男の前でなら、幻滅させる事を言うな』。そういう無言の圧力があって、本当の自分を出すのは〝良くない事〟なんだと思ってました」
「それは、ただのモラハラだよ。『朱里だけ本当の自分を曝け出したら駄目で、自分は好き勝手していい』なんておかしいだろ」
私が一人でグルグル悩んでいた事を、尊さんはサクッと解決してしまう。
「……そうか、モラハラだったのか」
昭人がモラハラ気質だったのは分かっていたはずなのに、彼に押しつけられた価値観や恐怖心が、今も私を縛っている。
「前にも言ったけど、モラハラの被害者は〝そう〟扱われてるって自覚できていないんだ。前に俺が『田村はモラハラだ』と言って、朱里は納得したけど、少し経ったらその〝気付き〟を忘れてしまう。長年植え付けられた感覚を、一発で払拭するなんて無理なんだ。モラハラとか、精神的DVの被害は、長年にわたって精神という土に染み入っている。ちょっと綺麗な水を注いだからって、土に染みこんだ毒が全部抜ける訳じゃないんだ」
「……うん」
「迷った時は、何回も口にしていい。そのたびに俺がトラウマを否定するから」
「…………うん……っ」
私は涙を流し、ギューッと尊さんの腕を抱き締める。
「……弱くてごめんなさい……っ。尊さんだって、ずっとつらい思いをしたのに、私、自分だけが可哀想みたいな素振りをして……っ」
「いいんだ。俺と朱里が同じ痛みを抱えたとしても、どれぐらい耐えられるかには個人差がある。だから自分と俺を比べなくていい。どっちのほうが不幸かなんて、どうでもいいんだ。今、朱里が傷付いている事を優先していい」
とうとう堪らなくなって、私は振り向いて彼を抱き締めた。
「…………っ、恐いんです……っ。尊さんや恵といると、心の底から〝本当の自分〟が出てきて、のびのびできて精神的にとても楽です。楽しい時を過ごしているのに、ふっ……、と我に返るように、心の中で昭人の声がします。いつも冷笑してて、物事を斜めに見ていて、上辺だけは格好付けているのに、中身は自分の体面を守るのに必死な人。……今まで昭人に言われた数々の言葉が、心の底の柔らかい部分に刺さって、なかなか抜けないんです。それがたびたび蘇って、私を苦しめる……っ」
尊さんは私の頭を撫で、チュッと頬にキスをする。
「もう昭人は私に会う事すらできないと分かっています。私はもう安全で、大好きな人と結婚して、幸せになっていくだけ。これから新しい家族を築いて、別の問題に直面していかなきゃならないのに、一年以上も前に別れた人の影響なんて受けなくていい。……分かっているはずなのに……」
彼は労る目で私を見つめ、頬に流れた涙を舐める。
「悩む事を〝悪〟だと思わなくていい。朱里は九年近く田村と付き合い続け、奴のモラハラに侵され続けてきた。九年だぜ? 俺と付き合った時間よりずっと長い。九年もの洗脳を、一年も経っていない幸せで上書きしようなんて無理なんだ。今が満たされていたら、過去の事を思い出して悩むのは生産的じゃない、良くない事だと思いがちだ。でも、そう思わなくていい。つらいものはつらいんだ」
「うぅ……っ」
私はグスッと洟を啜り、尊さんの肩に額をつける。
「朱里の傷なのに、朱里が認めてやんなきゃ誰が苦しむんだよ。俺はお前に寄り添っていたいけど、朱里の苦しみを直にシェアする事はできない。つらい目に合った事を認めて、両手で受け止めて、思いきり怒って嘆くんだ。大人のふりをして我慢しなくていい。痛みをなあなあにしていたら、未消化のまま将来に持ち越してしまう。だったら、痛みがまだある時に思いきり苦しんで、発散するんだ。長年モラハラされた挙げ句、ストーカーされて誘拐され、暴力を振るわれた事を、〝なかった事〟にするな。苦しんだ朱里が可哀想だ」
「うぅう……」
目の奥が熱くなり、次から次に涙が出てくる。
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