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加速する絶望 編
侮辱
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『遅かったじゃない』
自宅マンションに帰ってロビーに入った途端、聞きたくない声に話しかけられて、俺はギクリとして足を止める。
十歳の頃から植え付けられたトラウマなのか、いまだに怜香の声を聞くと心臓をギュッと握られたような感覚に陥る。
『……何かご用ですか?』
まさか朱里の事がバレたんじゃないだろうな?
彼女と恋人になれたら正々堂々と報告しにいくつもりだが、今はまだまずい。
コツコツとヒールの音を響かせて近づいてきた怜香は、少し離れたところから俺を見て冷笑した。
『世間はもうクリスマスムードなのに、いまだに独り者なの?』
煽られてムッとしながらも、冷静に切り返した。
『あなたが自分で相手を用意すると言ったんじゃないですか』
『そうね。……じゃあ、風磨の秘書の丸木さんとでも結婚したら? そうなさい』
『は?』
予想外の事を言われ、さすがに声を上げた。
丸木エミリは風磨の恋人だ。
入社して秘書課に配属され、副社長秘書に抜擢されてすぐ風磨と付き合い始めた。
顔立ちのくっきりした美人で、仕事もできるらしい。
俺は実家を出てから、たまに風磨と食事をし、飲むようになっていた。
最初は風磨から誘われ、応じているうちに少しずつ距離が縮まっていったような感じだ。
根本的なところに大きな問題があるから、まだ本当の兄弟のように何でも気兼ねなく……とはいかない。
だが風磨は一度も俺に意地悪をしなかったし、無言無反応であっても一応気を遣っていたのは分かっていた。
お互い家を出たあとだから、風磨もある程度考え直したのだと思う。
放っておけば、このまま一生関わり合わずに生きていける。
けど風磨は少しでも何かしたいと思って、母親の目が届かないところでなら……、と歩み寄ろうとしたんだろう。
だから俺は応じようと思ったし、エミリを紹介された時は素直に二人の仲を祝福した。
兄弟の歩み寄りをしたいと思った一方で、風磨はエミリと結婚する際に味方してくれる存在を増やしておきたかったのかもしれない。
風磨は強い母親を持った影響か、女性にリードしてもらったほうが精神的に楽らしい。
あいつを王子様的に見ている女性社員は、『副社長はスパダリ』と思っているみたいだが、実のところただの甘ったれだ。
エミリはかなりハキハキしたタイプだし、お互い馬が合ったんだろう。
二人は数年前から同棲しているらしいが、それを怜香が知らない訳がない。おそらく正直者の風磨の事だから、母親に『エミリと結婚したい』と申告していただろう。
だが怜香は実の息子であろうが、自分の思い通りの人生を歩ませたいようだ。
むしろこの女は結婚生活をぶち壊されたからこそ、今度は自分がすべてを支配して〝理想〟の生活を送ろうとしているのかもしれない。
理屈は分かるが、同意はできない。
『断ります。彼女は兄貴の恋人だと、あなただって分かっているでしょう』
突っぱねると、怜香は腕を組んで笑った。
『風磨には別の女性を用意しています。もう三ノ宮重工のご令嬢に釣書を送ってあるの』
何を勝手な事を。風磨にその気がないって分かったら、どんな目に遭うか……。
いい子の風磨なら、絶対自分の言う事を聞くって信じて疑ってないのか。
俺が黙っているからか、怜香はせせら笑って言葉を続ける。
『それにあなたみたいな愚物の妻になろうなんて女性、いないでしょう? 弟なんだから風磨のお下がりをもらって丁度いいんじゃない? 彼女は秘書だし、あなたみたいな人でも〝お世話〟が得意なんじゃない?』
また始まった。
いつもの事だから黙ってやり過ごすに限るが、侮辱され続けて平気な訳ではない。
『三十二歳になっても、まだ恋人の一人もいないんでしょう? もしかして女性を満足に抱く事もできないんじゃないの? 夜遊びばっかりしていても、女性の愛し方なんて学べませんよ』
怜香が言っているのは、贔屓にしている小料理屋の女将の事だろう。
彼女とはそういうんじゃないのに、女と聞けばすぐそっちのほうに結びつける。
『そもそも、あなたみたいな人の遺伝子なんて、途絶えてしまえばいいのにね。あの女の息子なら、まともな恋愛や結婚なんてできっこないのよ。あなたが結婚したとしても、絶対不倫するに決まってるわ。その子供だって同じに決まってる! あはは! それなら色仕掛けで風磨に近づいた丸木さんで丁度いいじゃない』
俺はきつく拳を握り、震わせた。
俺を侮辱するだけならまだいいが、ここで故人を持ち出す必要はあるか?
『言葉が過ぎやしませんか?』
刃向かうと、怜香はギラギラとした目で俺を睨んできた。
『あなたこそ何様のつもり? 八年間のうのうと篠宮家で生活した裏で、私が屈辱的な思いをしていたのを知らないとでもいうの? あなたの母親は、妻がいる男とセックスして子供を二人も産んだのよ! その子供が家にいたのよ!?』
どす黒いオーラに包まれた怜香の口から、怨嗟の声が漏れる。
彼女の口から迸る言葉は、呪いを纏っているように感じられた。
『なぜ離婚しなかったか分かる? 私は見合い結婚でも夫を愛しているし、妻の役目を果たそうとしているからよ! 私は篠宮家に嫁ぎ、跡継ぎとなる風磨を産んだ。あの子が理想のお嫁さんをもらって立派な社長になり、可愛い孫を見せてくれる日まで、絶対気を抜けないの!』
怜香は狂気めいた笑みを浮かべ、続ける。
『離婚すればいい笑いものになるわ。私が結婚した時、どれだけ周囲から羨まれたか知ってる? 美男美女と言われて〝理想的な家庭を築くに決まっている〟と言われていたのよ。それが…………』
彼女はワナワナと全身を震わせて俺を指さし、ヒステリックに叫んだ。
自宅マンションに帰ってロビーに入った途端、聞きたくない声に話しかけられて、俺はギクリとして足を止める。
十歳の頃から植え付けられたトラウマなのか、いまだに怜香の声を聞くと心臓をギュッと握られたような感覚に陥る。
『……何かご用ですか?』
まさか朱里の事がバレたんじゃないだろうな?
彼女と恋人になれたら正々堂々と報告しにいくつもりだが、今はまだまずい。
コツコツとヒールの音を響かせて近づいてきた怜香は、少し離れたところから俺を見て冷笑した。
『世間はもうクリスマスムードなのに、いまだに独り者なの?』
煽られてムッとしながらも、冷静に切り返した。
『あなたが自分で相手を用意すると言ったんじゃないですか』
『そうね。……じゃあ、風磨の秘書の丸木さんとでも結婚したら? そうなさい』
『は?』
予想外の事を言われ、さすがに声を上げた。
丸木エミリは風磨の恋人だ。
入社して秘書課に配属され、副社長秘書に抜擢されてすぐ風磨と付き合い始めた。
顔立ちのくっきりした美人で、仕事もできるらしい。
俺は実家を出てから、たまに風磨と食事をし、飲むようになっていた。
最初は風磨から誘われ、応じているうちに少しずつ距離が縮まっていったような感じだ。
根本的なところに大きな問題があるから、まだ本当の兄弟のように何でも気兼ねなく……とはいかない。
だが風磨は一度も俺に意地悪をしなかったし、無言無反応であっても一応気を遣っていたのは分かっていた。
お互い家を出たあとだから、風磨もある程度考え直したのだと思う。
放っておけば、このまま一生関わり合わずに生きていける。
けど風磨は少しでも何かしたいと思って、母親の目が届かないところでなら……、と歩み寄ろうとしたんだろう。
だから俺は応じようと思ったし、エミリを紹介された時は素直に二人の仲を祝福した。
兄弟の歩み寄りをしたいと思った一方で、風磨はエミリと結婚する際に味方してくれる存在を増やしておきたかったのかもしれない。
風磨は強い母親を持った影響か、女性にリードしてもらったほうが精神的に楽らしい。
あいつを王子様的に見ている女性社員は、『副社長はスパダリ』と思っているみたいだが、実のところただの甘ったれだ。
エミリはかなりハキハキしたタイプだし、お互い馬が合ったんだろう。
二人は数年前から同棲しているらしいが、それを怜香が知らない訳がない。おそらく正直者の風磨の事だから、母親に『エミリと結婚したい』と申告していただろう。
だが怜香は実の息子であろうが、自分の思い通りの人生を歩ませたいようだ。
むしろこの女は結婚生活をぶち壊されたからこそ、今度は自分がすべてを支配して〝理想〟の生活を送ろうとしているのかもしれない。
理屈は分かるが、同意はできない。
『断ります。彼女は兄貴の恋人だと、あなただって分かっているでしょう』
突っぱねると、怜香は腕を組んで笑った。
『風磨には別の女性を用意しています。もう三ノ宮重工のご令嬢に釣書を送ってあるの』
何を勝手な事を。風磨にその気がないって分かったら、どんな目に遭うか……。
いい子の風磨なら、絶対自分の言う事を聞くって信じて疑ってないのか。
俺が黙っているからか、怜香はせせら笑って言葉を続ける。
『それにあなたみたいな愚物の妻になろうなんて女性、いないでしょう? 弟なんだから風磨のお下がりをもらって丁度いいんじゃない? 彼女は秘書だし、あなたみたいな人でも〝お世話〟が得意なんじゃない?』
また始まった。
いつもの事だから黙ってやり過ごすに限るが、侮辱され続けて平気な訳ではない。
『三十二歳になっても、まだ恋人の一人もいないんでしょう? もしかして女性を満足に抱く事もできないんじゃないの? 夜遊びばっかりしていても、女性の愛し方なんて学べませんよ』
怜香が言っているのは、贔屓にしている小料理屋の女将の事だろう。
彼女とはそういうんじゃないのに、女と聞けばすぐそっちのほうに結びつける。
『そもそも、あなたみたいな人の遺伝子なんて、途絶えてしまえばいいのにね。あの女の息子なら、まともな恋愛や結婚なんてできっこないのよ。あなたが結婚したとしても、絶対不倫するに決まってるわ。その子供だって同じに決まってる! あはは! それなら色仕掛けで風磨に近づいた丸木さんで丁度いいじゃない』
俺はきつく拳を握り、震わせた。
俺を侮辱するだけならまだいいが、ここで故人を持ち出す必要はあるか?
『言葉が過ぎやしませんか?』
刃向かうと、怜香はギラギラとした目で俺を睨んできた。
『あなたこそ何様のつもり? 八年間のうのうと篠宮家で生活した裏で、私が屈辱的な思いをしていたのを知らないとでもいうの? あなたの母親は、妻がいる男とセックスして子供を二人も産んだのよ! その子供が家にいたのよ!?』
どす黒いオーラに包まれた怜香の口から、怨嗟の声が漏れる。
彼女の口から迸る言葉は、呪いを纏っているように感じられた。
『なぜ離婚しなかったか分かる? 私は見合い結婚でも夫を愛しているし、妻の役目を果たそうとしているからよ! 私は篠宮家に嫁ぎ、跡継ぎとなる風磨を産んだ。あの子が理想のお嫁さんをもらって立派な社長になり、可愛い孫を見せてくれる日まで、絶対気を抜けないの!』
怜香は狂気めいた笑みを浮かべ、続ける。
『離婚すればいい笑いものになるわ。私が結婚した時、どれだけ周囲から羨まれたか知ってる? 美男美女と言われて〝理想的な家庭を築くに決まっている〟と言われていたのよ。それが…………』
彼女はワナワナと全身を震わせて俺を指さし、ヒステリックに叫んだ。
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