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『こま希』にて 編
幸せになる権利
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「姉さんは私には一人暮らし先の住所を教えてくれた。うちはピアノをする関係で料理なんて教えてもらわないし、私は姉さんの生活能力が心配だった。でも『動画もあるし、やろうと思えばなんとかなるのよ』って言ってた。……だから私はこっそりと、家にあった食材や生活用品を持ち出して、姉さんの家に運んでた」
ちえりさんは少し恥ずかしそうに言い、照れ笑いをする。
「大学生時代、姉さんはとても楽しそうだったわ。『私からピアノをとったら何も価値がなくなると思ったけれど、亘さんはそんな私にも価値があると教えてくれた』って。音楽以外で学んだ事や、普通の女子学生として遊ぶ事が楽しいって言っていた。……きっとあの頃が一番輝いていたのよね」
彼女は姉を想い、目を細める。
「あれだけ派手な喧嘩をして出ていったから、母は学費を出さないものと思っていた。けど父が『四年間だけは学費を出す』といって、さゆりは優秀な成績を収めて大学を卒業した。卒業後、家には訪れなかったが『お陰様で無事に大学を卒業できました。ありがとうございます』という手紙が、成績表や卒業証書のコピーと共に送られてきた」
良かった。一応お祖父さんはさゆりさんの味方をしてくれたんだ。
「そのあと、さゆりは篠宮フーズに入って秘書業を始めた。あちらも息子の彼女が会社に入って、どう思ったのかは分からないが、しばらくの間はうまくいっていたようだ。……だが、亘さんのご両親は結婚を許さず、かねてから子供の結婚を約束していた國見家のお嬢さん……怜香さんとの結婚を押し進めた。恐らく結婚は許さないが、会社に入って働くだけなら問題ないと捉えていたんだろうか。結婚はさせられないが、少しだけでも側にいる事を許したというか……」
裕真さんは溜め息をつき、手酌したお酒を呷る。
私は話を聞きながらも、ちみちみと煮魚を食べていた。
「あの頃の姉さんは不安定だったわ。亘さんは結婚の話をうまく姉さんに言えず、ごまかしていたみたい。傷つけると思ったのでしょうね。……気がついたら亘さんと怜香さんの縁談は纏まり、姉さんが〝浮気相手〟になっていた。それに気づいたあとは……、可哀想で見ていられなかったわ」
ちえりさんは溜め息をつくと、立ちあがってカウンターの中に入り、自らビールサーバーでビールを注ぐ。
確かに、さゆりさんの身内としては、飲まないとやってられない話だろう。
尊さんを見ると、暗い目をして氷の溶けたウィスキーのグラスを見つめていた。
そんな彼を少しでも元気づけたくて、私は彼にちょいちょいと手招きをすると、煮魚を指で示してその指で頬をクリクリし、「ボーノ」を示す。
すると尊さんはクシャッと笑った。
食いしん坊担当でも構わない。尊さんが笑ってくれるなら、私はなんでもする。
「……亘さんが結婚したあと、姉さんは絶望して篠宮フーズを辞めたわ。それまで暮らしていた賃貸マンションから引っ越して、二度と彼に会わないようにした。……でもしばらくしたあと、亘さんは別の会社で働いていた姉さんを探し出して、土下座して謝った。そして『愛しているのは君だけ』と言って、姉さんを住まわせるマンションを借りて、そこに通うようになった」
ちえりさんは溜め息をついて空いているカウンター席に座り、ビールを飲みながら続ける。
「姉さんも、他の男性の愛し方が分からなかったのよね。一途に続けてきたピアノをやめ、自分には価値がないと思っていたところを、亘さんが愛してくれたから、なんとかやってこられた。……けどその亘さんにも裏切られ、普通に暮らせてはいるけれど覇気をなくし、精神的に死んだ状態にあった。『なんのために生きているんだろう』と思っていたでしょうね」
裕真さんは暗い表情で続ける。
「その事を聞いた母さんは、『ほら見なさい』と言った。でも無気力に呟いただけで、それ以上何もしようとしなかった。さゆりを連れ戻そうとしないし、父に言われても『家に上げるつもりはない』と言った。その気持ちだけは頑なで、私たちがどう言っても聞き入れる事はなかった」
ちえりさんはグラスの半分ぐらいになったビールを傾け、言った。
「姉さんは亘さんとの逢瀬を断り切れず、彼とズルズルと関係を続けていった。……多分、それがなければいつ自死してもおかしくない状態だった。……そのうち、姉さんは尊くんを身ごもった。……とても幸せそうだったわ。確かに亘さんという〝他人の夫〟と関係してしまった後ろめたさは感じていた。でも何もないと思っていた自分に、守るべき存在ができて、やっと生きる意志を得た」
尊さんは痛みを噛み締めるように微笑み、グラスの中身を呷った。
「尊くんを産んだ時、姉さんはクシャクシャに泣いて幸せそうに笑っていた。『私みたいなのでも、母親になれた』って。……ピアノの道から外れ、亘さんと結婚できなかった事が、姉さんの自己肯定感を大きく否定していたのよ。でも、子を産んだ母は強いわね。それから姉さんはどんどん逞しくなっていった」
ちえりさんは遠くを見る目で微笑み、ビールを一口飲む。
「亘さんと関係し続ける事が間違えていると、姉さんはちゃんと分かっていた。でも自分が人間らしく生きていくために、子供の存在は必要不可欠だったの。せめて父親には会わせたいと思ったから、亘さんがマンションに来る事を容認したんじゃないかしら。そのうちあかりちゃんも生まれて、姉さんはまた以前のようにピアノを演奏するようになった。本当に幸せそうだった。……怜香さん側の言い分は理解するわ。夫を寝取った憎い相手よね。……でも、姉さんにだって幸せになる権利はある。どんな人にも、生きて幸せになる権利はあるの」
そこまで言って、ちえりさんは涙を流した。
ちえりさんは少し恥ずかしそうに言い、照れ笑いをする。
「大学生時代、姉さんはとても楽しそうだったわ。『私からピアノをとったら何も価値がなくなると思ったけれど、亘さんはそんな私にも価値があると教えてくれた』って。音楽以外で学んだ事や、普通の女子学生として遊ぶ事が楽しいって言っていた。……きっとあの頃が一番輝いていたのよね」
彼女は姉を想い、目を細める。
「あれだけ派手な喧嘩をして出ていったから、母は学費を出さないものと思っていた。けど父が『四年間だけは学費を出す』といって、さゆりは優秀な成績を収めて大学を卒業した。卒業後、家には訪れなかったが『お陰様で無事に大学を卒業できました。ありがとうございます』という手紙が、成績表や卒業証書のコピーと共に送られてきた」
良かった。一応お祖父さんはさゆりさんの味方をしてくれたんだ。
「そのあと、さゆりは篠宮フーズに入って秘書業を始めた。あちらも息子の彼女が会社に入って、どう思ったのかは分からないが、しばらくの間はうまくいっていたようだ。……だが、亘さんのご両親は結婚を許さず、かねてから子供の結婚を約束していた國見家のお嬢さん……怜香さんとの結婚を押し進めた。恐らく結婚は許さないが、会社に入って働くだけなら問題ないと捉えていたんだろうか。結婚はさせられないが、少しだけでも側にいる事を許したというか……」
裕真さんは溜め息をつき、手酌したお酒を呷る。
私は話を聞きながらも、ちみちみと煮魚を食べていた。
「あの頃の姉さんは不安定だったわ。亘さんは結婚の話をうまく姉さんに言えず、ごまかしていたみたい。傷つけると思ったのでしょうね。……気がついたら亘さんと怜香さんの縁談は纏まり、姉さんが〝浮気相手〟になっていた。それに気づいたあとは……、可哀想で見ていられなかったわ」
ちえりさんは溜め息をつくと、立ちあがってカウンターの中に入り、自らビールサーバーでビールを注ぐ。
確かに、さゆりさんの身内としては、飲まないとやってられない話だろう。
尊さんを見ると、暗い目をして氷の溶けたウィスキーのグラスを見つめていた。
そんな彼を少しでも元気づけたくて、私は彼にちょいちょいと手招きをすると、煮魚を指で示してその指で頬をクリクリし、「ボーノ」を示す。
すると尊さんはクシャッと笑った。
食いしん坊担当でも構わない。尊さんが笑ってくれるなら、私はなんでもする。
「……亘さんが結婚したあと、姉さんは絶望して篠宮フーズを辞めたわ。それまで暮らしていた賃貸マンションから引っ越して、二度と彼に会わないようにした。……でもしばらくしたあと、亘さんは別の会社で働いていた姉さんを探し出して、土下座して謝った。そして『愛しているのは君だけ』と言って、姉さんを住まわせるマンションを借りて、そこに通うようになった」
ちえりさんは溜め息をついて空いているカウンター席に座り、ビールを飲みながら続ける。
「姉さんも、他の男性の愛し方が分からなかったのよね。一途に続けてきたピアノをやめ、自分には価値がないと思っていたところを、亘さんが愛してくれたから、なんとかやってこられた。……けどその亘さんにも裏切られ、普通に暮らせてはいるけれど覇気をなくし、精神的に死んだ状態にあった。『なんのために生きているんだろう』と思っていたでしょうね」
裕真さんは暗い表情で続ける。
「その事を聞いた母さんは、『ほら見なさい』と言った。でも無気力に呟いただけで、それ以上何もしようとしなかった。さゆりを連れ戻そうとしないし、父に言われても『家に上げるつもりはない』と言った。その気持ちだけは頑なで、私たちがどう言っても聞き入れる事はなかった」
ちえりさんはグラスの半分ぐらいになったビールを傾け、言った。
「姉さんは亘さんとの逢瀬を断り切れず、彼とズルズルと関係を続けていった。……多分、それがなければいつ自死してもおかしくない状態だった。……そのうち、姉さんは尊くんを身ごもった。……とても幸せそうだったわ。確かに亘さんという〝他人の夫〟と関係してしまった後ろめたさは感じていた。でも何もないと思っていた自分に、守るべき存在ができて、やっと生きる意志を得た」
尊さんは痛みを噛み締めるように微笑み、グラスの中身を呷った。
「尊くんを産んだ時、姉さんはクシャクシャに泣いて幸せそうに笑っていた。『私みたいなのでも、母親になれた』って。……ピアノの道から外れ、亘さんと結婚できなかった事が、姉さんの自己肯定感を大きく否定していたのよ。でも、子を産んだ母は強いわね。それから姉さんはどんどん逞しくなっていった」
ちえりさんは遠くを見る目で微笑み、ビールを一口飲む。
「亘さんと関係し続ける事が間違えていると、姉さんはちゃんと分かっていた。でも自分が人間らしく生きていくために、子供の存在は必要不可欠だったの。せめて父親には会わせたいと思ったから、亘さんがマンションに来る事を容認したんじゃないかしら。そのうちあかりちゃんも生まれて、姉さんはまた以前のようにピアノを演奏するようになった。本当に幸せそうだった。……怜香さん側の言い分は理解するわ。夫を寝取った憎い相手よね。……でも、姉さんにだって幸せになる権利はある。どんな人にも、生きて幸せになる権利はあるの」
そこまで言って、ちえりさんは涙を流した。
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