泥に咲く花

臣桜

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第十九章

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 家に帰っても忠臣は眠る事が出来ず、家にずっと仕えている所謂『じいや』的な人間に相談して、睡眠導入剤を一粒貰った。
 果たしてこの小さな粒がどうやって脳と体に作用するのか、と毒を手にした気持ちでそれを舌の上に乗せ、何も考えずに水と一緒に飲み込んだ。

 俺は今、毒を飲んだ。
 彼女を侵している怪我や心の病と、同じになれればいいのに。

 彼女と全てをシェアしたい。
 彼女が落ちているのなら、俺もとことん泥の底まで落ちて、全身ズブズブの泥まみれになって、人とも泥虫とも判別つかないものになって、今苦しんでいる彼女の気持ちを分かりたい。

 人の気持ちを分かりたいだなんて、おこがましいのかもしれない。
 人は人、自分は自分。
 その分別がついているから、個々というものが成り立つのに。

 けれども人は人を求めて止まない。
 愛情を求めて相手の全てを欲しがったり、
 相手の情報を全て得て、それで相手をとことんまでに攻撃したがったり、
 相手が自分をどう思って気になってならないものは、それが分かる特殊能力や装置があったら、果たしてその者の目の前にはどんな世界が広がるのだろう?

 だがそれは全て有り得ない話だ。
『思い遣る』事は出来ても、完全な意味で人と人が『分かり合う』など出来ない。
 
 忠臣と桜がどれだけ優しい人間で、お互いを思い遣っていても、今この瞬間お互いが何を考えているかを知る事は出来ないのだ。
 長年付き合って、相手の癖や思考回路を把握する事は可能かもしれない。
 だが、考え事をしている女性がいたとして、彼女が彼氏について考えているのか、その日の食事の献立を考えているのか、会社の上司について腹立たしく思っているのか、そういう事を当てる事はほぼ不可能。

 分かっている。
 分かっているけれども、好きな人がいればその人の心を知りたいというのが、恋なのかもしれない。

「桜さん……」
 寝巻きにしているTシャツとハーフパンツに着替えて大きなベッドに転がり、目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは彼女の笑顔。
 ――が、腫れ上がった顔に変わる。

「忠臣さん」と優しく名前を呼んでくれる、春の風の様な声。
 ――が、途切れ途切れのかすれ声に変わる。

 柔らかな絹糸の様な髪。
 ――が、血で固まった固まりに変わる。

 しなやかで温かな肢体。
 ――が、ぐったりと動かない虫の息の体に変わる。

 思い出したくない。
 思い出したくない。
 思い出したくない。

 シンとした部屋にエアコンの音だけが響いて、あの甘い香りがプンと濃厚に充満していた。
 彼女から香るあのいい匂いは、血の匂いだった。
 逃げるのに必死だったのだろうか、薄いレースのカーテンがカーテンレールから途中まで外れて彼女の体に掛かっていたのは、あの場に似つかわしくない花嫁のヴェールの様だ。
 あの空間にひっそりと死神が佇んでいた気がするのは、気の所為ではなかったのかもしれない。
 指は指という形の原型を留めていなくて、
 あの綺麗な顔が嘘だったかのように腫れ上がっていて、
 それでも不思議と桜への愛情は揺らがなかった。

 ただ、彼女の服が引き裂かれていて、下半身に明らかにそれと分かる陵辱の跡が残っているのを確認した時は、吐き気を覚えた。

 凶器も指紋も、精液も、何もかも犯人は残していった。
 捕まってもいいという覚悟があったのだろう。
 だが、その代わりに桜を破滅させてやるという、自爆テロの様な意思があった。

 いつも巻き込むのはその人間の勝手なエゴで、巻き込まれる側は何の罪もない無垢な魂だけだ。

 綺麗な思い出だけを頭に残したいのに。
(そんなの無理だと分かっている)
 彼女は何一つ欠点のない、綺麗な存在なのに。
(彼女だって人間だ)

 これから続くだろう、果てしない生き地獄のような彼女の戦いと、それに自分が側で支えないとならないという気持ちがある。

 正直、不安はあった。
 忠臣自身には夢という夢はなく、何となく漠然と父の仕事を継ぐのだろうという将来がある。
 だが桜はピアニストになる為に、きっと幼い頃から血の滲む努力をし続けて、ピアノの事も大好きで堪らない。
 それを奪われたのだ。
 どんな気持ちだろう? と想像するのも憚られる。
 人が人生の優先順位の一番にして、寝ても覚めてもその事しか考えられない程に大切なものについて、他人が想像する事など出来ない。
 その人の誇りに触れようとするなど、おこがましいにも程がある。
 
 今後、桜が発狂する様な事になっても、支えたい。
 彼女が自分を認識出来なくなる程に混乱していても、側にいたい。
 桜が好きだから。
 彼女の為なら、人生を捧げてもいい。
 正気の戻らない彼女を支え続けて、一生独身でもいい。
 桜以外の人間に恋をするつもりなどない。

 だが、こんな風に一人で煮詰まっているのを、彼女はどう思うのだろうか?

 余計な事だと思うだろうか?
 嬉しいと言ってくれるだろうか?
 自分の事は忘れて欲しいと言うだろうか?

 いや……、今は桜は忠臣の気持ちなど考える余裕などないだろう。

 それを支えていかないと。

 部屋のカーテンからは朝の光が漏れていて、忠臣はごろりと反対方向を向いてしまう。

 今は、自分の体力を回復させる為に休もう。
 全てを考えるのはそれからで、行動を起こすのは未来から連絡がきた後にしよう。

 薬の効果なのか少し眠気がきていたので、忠臣は意識を暗闇に集中させる。
 甘い血という蜜にひらひらと引き寄せられる、罪深い蝶の夢をみた。
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