泥に咲く花

臣桜

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第十八章

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 スマホのメールには未来から連絡があり、桜の一度目の手術が終わったとの事だった。
 現在はHCUに入っているらしく、家族ではない忠臣は面会には行けない。
 それでもどうしたらいいのか分からず、未来に病院に来たという事をメールした。
 タクシーを降りた所から少ししか移動しておらず、夜の熱気にぼんやりとした頭が「蒸し暑いな」と思った時。
 手にしていたスマホが震え、未来からのメールがあった。
 その指示通りの場所へ夜の病院の中を静かに移動していくと、自動販売機が並んでいる前に椅子があり、そこに疲れた様子の未来と誠司が座っていた。
「こんばんは」
 あんな凄惨な事件があった後だというのに、忠臣の口から出たのは随分と間抜けな挨拶だ。
「こんばんは、忠臣さん。座って。何か飲みますか?」
「あ、自分で買います」
 気を遣わせてはいけないと思い、財布を出して冷たいお茶を買う。
「一華ちゃんと沙夜ちゃんは?」
「大丈夫、二人とも俺の実家に預けてきたから」
 誠司の答えに少し安堵し、二人から少し離れた場所に腰掛けて、さして飲みたいとも思っていないお茶のキャップを開け、一口飲んだ。
 だが、思っていない所で喉は乾いていたらしく、乾きを覚えていた体は水分を求めて忠臣がゴクッゴクッと喉を鳴らしてお茶を飲んでゆく。
 500mlのペットボトルの八割ぐらいを飲んでやっと忠臣が飲み口から唇を離し、大きく息をついた。
「喉乾いてたんだね」
 それを気遣ってくれたのか誠司が少し笑って言い、「俺もコーヒー飲むかな」と立ち上がる。
「桜ちゃんね、お腹の傷は致命傷にはならなかったみたい。指は……複雑骨折で。顔は鼻と頬の骨が骨折してて、歯が折れてしまってるみたいで」
 最後の方は未来の声が震える。
「すみま」
「有り難うね!」
 忠臣が謝罪の言葉を口にする前に、未来が明らかに空元気と分かる口調で礼を言った。
「確かに、こんな事になったのは残念だけれど、忠臣くんが発見してくれなかったら、きっと桜ちゃん助かってなかったと思うの。……だから、有り難う。本当にどうも有り難う」
「でも……」
「謝ったら罰金だからね?」
 涙ぐんだ未来が鼻水を啜りながら笑い、その隣に座っている誠司が未来の肩を抱く。
「俺からも礼を言わせてくれ。桜ちゃんの命を救ってくれて、本当に有り難う。忠臣くんも自分を責める事があるかもしれないけど、君は犯人じゃないんだし、ああやってDVに遭っている桜ちゃんを気にしてくれて、結果こうやってあの子の命が助かったんだ」
「……」

 責められる覚悟をして病院に足を運んだ。
 どうしてもっと早くに交際相手と対立しなかったとか、DVが始まる前に彼女が好きなら、奪って相手をやり込めていたらこういう事にはならなかったとか、そういう叱責が待っていると覚悟していたのだ。

 自分自身でも思っていた。
 自分がもっと危機感を感じていれば、桜がこんな事になる前に事態を回避出来たのかもしれない。
 桜だってあんな心身ともに傷付く事はなかったし――

 何より、彼女の人生から夢を奪ってしまったのは自分だ。

 好きだと言わなければ。
 付き合って欲しいと言わなければ。

 こんな事にはならなかった。

 押し寄せる後悔の津波は、忠臣の予定では防波堤などなく、顔を合わせた二人に罵倒される事で地上へと押し流されて、忠臣の心を壊してゆく予定だった。
 けれども、未来と誠司の思いやりという防波堤が、想定外に存在したのだ。
 波はそこで留められて大きな飛沫となる。

 飛沫は――

 涙となった。

 大きな手で顔を覆って黙ってしまう忠臣を見て、優しい夫婦が顔を見合わせて静かに微笑む。
 彼らは桜がとてもいい子だという事は分かっていたし、忠臣と顔を合わせたのがあの一日だけだったとしても、忠臣が誠実な青年だという事は理解していたつもりだ。
 自分達が大好きで、二人の子供も懐いている桜が選んだ男だからこそ、信じる事が出来る。
 未来と誠司だって誰かを責めたい気持ち、泣き叫んで怒りたい気持ちはあるが、目の前でこうやって泣いている青年を相手に、それを擦り付けるのは違うと思っていた。
 二人で混乱するのは、忠臣が事情徴収を受けている長い時間の間に散々して、未来はいいだけ泣いて、誠司は姿の見えない誰かに向かって怒鳴った。

 そうやって発散させたからこそ、今は忠臣の前で『大人』でいられる。

「……どうして、許すんですか。……どうして、叱らないんですか」
 涙で歪んだ忠臣の声に、未来が笑いながら俯いている彼の髪を撫でてやった。
「なぁに? 忠臣くんマゾなの? 叱って欲しいの?」
「……マゾじゃありません」
「ふふ」
 背中を丸めた忠臣は、いつもならスラリとした長身なのに、今はとても小さく見える。
 そんな彼の純粋な所が、きっと桜は愛しく思ったのだろうと未来は思う。

 頭を撫でてくれる未来の手が優しい。
 まるで、あの日の朝に桜に告白をして泣いてしまった時だ。
「泣かんといて下さい」と、ティッシュで涙を拭って頭を撫でてくれた彼女の様だ。

 そのまま、未来が忠臣をギュッと抱き締めてきた。
「ねぇ、忠臣さん。これから一緒に頑張っていきましょう?
 きっとこれから桜ちゃんは、ピアノを弾けない現実に絶望する。残酷かもしれないけれど、あの子がこのまま現役で大学を卒業するのは無理な気がするの。
 あんなに優しい子でも、きっと自棄になったり絶望したりしてしまう。それを周りにいる私達が支えてあげないと」
「……はい、そうですね」
 グスッと鼻を鳴らして忠臣が乱暴に手で目をこすり、顔を上げる。
「よし、泣き止んだな。偉いぞ男の子」
「やめて下さい、誠司さん」
 誠司の冗談に忠臣が照れてそっぽを向き、未来が笑う。
「こういう時だから、家族は団結しなければならないし、もう実質的に恋人である君は桜ちゃんを支えてあげて欲しい」
 誠司の「家族」という言葉に、忠臣は桜の本当の家族の事を思い出した。
「桜さんのご家族には?」
「ええ、ちゃんと電話しておいたわ。ただ、桜ちゃんのお父さんとお母さんは、とても忙しい人なの。お兄さんも京都でそのサポートをしていて」
 未来の声は少し歯切れが悪い。
 その声のトーンの中に何となく桜が家族と不仲なのか、という疑問を抱いたが、今はそういう事をあまりゴタゴタと突っ込むべき時ではないと判断する。
「電話をした時には、近いうちにこっちに来るって言っていたけど、それも……本当は正直どうなるか分からなくて。お金の面では問題ないとは思うんだけど」
 少しだけ未来が桜の家庭事情を補足して、それだけで忠臣は彼女の家庭環境を推し量った。
 想像していた通り、自分と遠からず近からず。
 金銭的に困らない家の事情は何処も似ているのかな、と何となく思いながら、返すべき適当な言葉が分からずに「そうですか」と頷いた。

 結局、桜がHCUにいる間は忠臣も面会出来ないので、一般病棟に移ったらすぐに連絡をするから、という事でその日は斉藤夫婦と一緒に病院を出て、タクシー乗り場から二台が発車していった。

 長い夜が明けようとしていて、外は白み始めていた。
 安堵で一気に疲れが出た忠臣は、行き先を告げてからシートに深く座って頭部も預け、そのまま出来るだけ何も考えずに意識を手放す。

 願ったのは、幸せだったあの一夜の幻想を夢見ること。
 まだ桜に交際相手がいるとか何も知らなかった、初恋に対する不安や恐れに震えていた蒲公英の綿毛の様な夢を望んだ。
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