泥に咲く花

臣桜

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第二十七章

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「桜さん、どうぞ」
 ストローを挿したグラスを桜の前に置き、忠臣がそのグラスを桜の胸元まで掲げる。
「おおきに」
 顔を少し前に出して桜がストローを咥え、お茶を飲み始める。
 少し伏せられた長い睫毛を見て、忠臣は初めてお見舞いをしたあの日を思い出せば、随分と顔の腫れも引いたと安心していた。
「どうですか? 桜さんがいつも飲んでいるお茶と違うかもしれませんが」
 ちゅっ、とストローから口を離して桜が微笑む。
「いいえ、お茶はいつも安いの買うてるんです。口に入る物は基本そうやの。出来るだけ生活費は浮かせて、あとは……」

 ピアノのレッスンに。

 その言葉が消えてしまった。

「カーテン、何かいいのありましたか?」
 それを察して忠臣がノートパソコンを覗き込み、マウスを動かす。
「ああ、気になるんはあるんですけど、下の方も見てみたいです」
「今スクロールしますね。どんな物がタイプですか? シンプルなの? ゴージャスなの?」
「そうですね、思い切って気分を変えるのに、普通のカーテンごと変えたい気持ちもあります。
 こういうこと言いますと嫌な女に思われるかもしれへんですが、裁判とかに必要なお金は家が出してくれるので、私の生活費の方で少し浮いた分を、カーテンに宛てるぐらいどもないんです」
 自嘲気味に桜が笑い、そんな桜の頭を忠臣が優しく撫でる。
「気持ちを切り替えるのは大切ですね」
「今のカーテンはクリーム色やさかいに、思い切った違う色にしてもええですね」
「じゃあ、カーテンの種類から見てみましょうか。あ、カラーコーディネートのページとかも見てみますか?」
「そうですね」
 そうやって二人でインテリアコーディネートのページなどを見ながら、色彩がもたらす効果などを見てゆく。
「グリーンがいいかもしれないですね。リラックス効果があるそうです」
「そうですねぇ。あ、忠臣さん。お茶もう一口ええですか?」
「はい」
 忠臣がグラスを掲げると、桜が「おおきに」とストローに唇をつける。
「桜さん、俺が貴女のお手伝いをするのは自分から望んだ事で、当たり前の事なんですから、それにいちいち礼を言うのはやめませんか?」
 優しく微笑んだまま、忠臣が提案する。
「……けど、人が何かしてくれはったんなら、お礼を言わなあきまへん。お礼を言えへん人になってはあきまへん、と乳母に言われました」
「……貴女のそういう上品で、きっちりとした所が大好きです」
 桜が唇を離して、少しムズムズと体を揺すらせた。
「どうしました?」
「……」
 忠臣が尋ねても桜は恥ずかしそうに目線を外して、まだムズムズと体を揺する。
「どこか、痒いですか?」
「……背中が」
 桜の消え入りそうな小さな声に、忠臣は優しく笑んで「失礼します」と桜のチュニックをめくり上げた。
 細い腰の上にスッとした縦線が少し入った背中があり、白い下着が見える。
「どの辺りですか?」
「……右の、下着の際の所です」
「はい」
 忠臣の指がコリコリと桜の背中を掻いて、ブラジャーのアンダーベルトの周りを少しずつ移動してゆく。
「もう少し、右をお願いします」
「はい、ここですか?」
「もう少し……、あ、そこです」
 そんな遣り取りをしながら、桜は恥ずかしくて堪らない。
「桜さん、女性の下着の事はよく分かりませんが、脱ぎ着とかしやすい様にスポーツブラとかにしてみたらどうですか?」
「……」
 忠臣が贈った髪飾りで髪をまとめてある桜の後ろ頭が、少し前へ俯いた。
「嫌ですか?」
「……確かに、その方が楽かもしれませんけど、……ちゃんとしたのしぃひんと、胸の形が崩れたり、……それに、忠臣さんの前では可愛い下着をつけておきたいんです」
 それは忠臣が想像していなかった、桜の女性としての意地だった。
「俺は……、気にしませんけど」
「私は気にするんです」
「……」
「……」
 少し二人が気まずく黙り込んでしまった。
 やがて忠臣が桜の髪を優しく撫でながら、子供を宥めるように言い聞かせる。
「桜さん、貴女が俺との間を気にしてくれるのも、女性でいたいという気持ちも嬉しいです。でも今は療養期間なんですから、まずはそれを第一に考えないと」
「……」
「よく分からないですが、スポーツタイプでも可愛い物はあるんじゃないですか?」
「……」
「まだ桜さんは十九なんですから、少しの間スポーツブラにしていも垂れたりしませんよ」
「……」
「じゃあ、毎朝俺が普通の下着をつけてあげて、胸の肉をすくって安定させるあの着け方をしていいんですね?」
「!?」
 忠臣の最終手段に桜がギクリと背筋を震わせ、ゆっくりと忠臣を振り向いて恥ずかしそうにじろりと彼を睨む。
「そういう事ですよ? まぁ、俺としては役得ですが」
「……半年はスポブラにします」
「宜しい」
 ふわりと桜のチュニックを下ろし、忠臣が後ろから優しく彼女を抱き締める。
「桜さん、これから一緒に生活していきますし、ゆくゆくは結婚も考えているんですから、お互い敬語はやめませんか?」
 それは桜も思っていたのか、忠臣の体温を感じながら彼女も同意した。
「……そう、やね」
「桜、カーテンはどうする?」
 少し照れ臭い。
「グリーンの中から検索出来る? 忠臣さん」
「あれ? 名前はそのままなの?」
「将来、旦那様になるお人やもん」
「そう?」
 それから二人でカーテンを飽きる事なく見ていたが、また暫くして桜がもじもじし始めた。
 どうにも落ち着かなく膝を合わせたり、重ねている足首を入れ替えたりを繰り返す。
「桜、トイレ?」
「!」
「そうなら行こう、我慢していたら体によくない」
 忠臣が立ち上がり、促すように桜の肩をぽんと叩いた。
「けど……、下着下げたり……、お尻……拭いたり……」
「こうなったら腹を括って。出さないでいられる訳ないんだから」
「あ、ああ! でもトイレのボタンに乾燥がある! 今は大きい方やないさかいに、自分で出来る!」
「じゃあ、終わったら教えて。下着掴めないだろう」
「……」
 忠臣を睨んでから桜が立ち上がり、いそいそとトイレに向かってドアのレバーをギプスで下げ、何とか引っ掛けて開けて中に入ってしまう。
「桜? 下着下げられるの?」
「出来ます! 離れてて!」
 中から返って来たのは怒った様な声。
 穿いているのはスウェットのショートパンツなので、恐らくずり下げるには大丈夫だが、と考えながらリビングのソファへ戻った。
 マウスのホイールを回しながら気になった別のサイトを見て、暫くするとトイレの方から水を流す音が聞こえる。
 下心が全くない訳ではないが、元々はこの生活は桜のサポートをする為に始めたものだ。
 いちいち恥ずかしいとか、性的なものを感じるとか、そういう事に拘っていたら介護は出来ない。
「桜? 大丈夫?」
 コンコン、とトイレのドアをノックすると中から「平気!」と返事がある。
 だがそれから三分ほどしても、ドアが開く気配はない。
「桜?」
 溜息をついた忠臣が何回目かのノックをすると、やっとドアが控え目に開いた。
「終わった? 一人で出来たの?」
「……子供やあらへんのやから」
「そこに立って」
 ドアを閉じてトイレ前の廊下に桜を立たせ、少し離れて彼女の格好をチェックしだす忠臣。
「な……、なに」
「やっぱり。直すよ」
 溜息と一緒に忠臣が遠慮なく桜のチュニックをめくり上げ、ゴム部分が腰まで上がりきっていないショートパンツをズルッと下げた。
「ちょっ」
「黙って」
 股の下辺りで止まっているおむつを直し、ショートパンツをちゃんと股の高さが合う所まで素早く上げてしまってから忠臣が「終わり」と口元を笑わせるが、桜は笑ってくれない。
「あれ?」
「……おおきに」
 そのまま、むくれて顔を赤くした桜は先にリビングへと戻ってしまった。

 入院中は、ナースコールの押せない桜の代わりに未来がナースコールを押してくれたり、時々看護師が様子を見に来てくれた。
 女性の看護師になら、同性という事もプロフェッショナルだからという意味で、多少の恥ずかしさはあるものの身の回りの事を頼むことが出来た。
 だが今は自宅にいて、相手は好きな相手で。
 恥ずかしくて恥ずかしくて堪らない。
 おむつだなんて。
 今はトイレも小用だったからまだマシだが、仮に大きい方だった場合、臭いが彼の鼻をかすったらと思うと、本当に羞恥で消えてなくなりたくなる。

「桜、怒ったの?」
「……」
 桜は黙ってソファの上で膝を立てて座っている。
「ねぇ、聴いて。俺は君の家族になる人間だ。ずっとずっと先、君がお婆ちゃんになって介護が必要になったりした時、もしその隣に俺がいるのなら俺は同じ事をする。それが早いか遅いかだ。
 俺が今気にかけているのは、君が通常生活を送るのに手が必要な時の事だ。介護をする時は君の事を家族とは思っても、異性として見たり、例えば今だったらおむつを見たからって変に思ったりとか、そういう事はない」
「……言いたい事は分かる。けど、私の気持ちも察して」
 そういう桜の声は、今にも消えてしまいそうに頼りない。
「君が恥ずかしいと思う事も、俺は絶対に茶化したりしない。約束する」
「……」
「先に言っておくけど、怒らないで?」
「なに?」
「おむつのストックは足りているの? 買った方がいい?」
「!」
 じわぁ、と桜の顔が赤くなって、歯がぎゅっときつく噛み合わされる。
「生活に必要なそういう事は、全部聴いているよ」
「……っ」
 とうとう桜が静かに泣き出した。
 窓の外から上野の街の喧騒が聞こえ、部屋の中からは忠臣のノートパソコンのハードディスクが動いている音がする。
「……っ、忠臣さんにっ、ばっちい所見せとうないの……っ」
 両手で顔を覆いたくても、ギプスで固定されていて硬い感触が顔に当たるだけだ。
 それが余計に悲しく、やりきれない。
「うあぁっ、あぁっ、……ぁああぁぁぁあっっ」
 体が不自由で抱えていたフラストレーション、大好きな相手に自分の恥部を見せなければならない悲しみ、それらが今までは何とか飽和状態になりながらも、感情が零れないように堪えられていた。
 だが、忠臣に自分がおむつをしていた事を言われて、とうとうそれが爆発してしまった。
 初めは静かに頬を伝っていた涙が嗚咽に変わり、すぐに感情の本流となる。

 忠臣は、それをただ静かに抱き締めるしか出来ない。

 自分は桜のように両手が不自由でもなんでもない。
 顔を怪我していたとしても、女性なら気にするのは尚の事だ。
 おまけに桜はかなりの美人だ。
 彼女自身がそれを鼻に掛ける性格ではなかったとしても、女性が美貌を褒められて嬉しくなかった訳はないし、美人が自分の顔を嫌いと言うパターンはなかなかない。
 人の第一印象を決めるそれが、今は鼻のギプスは取れて手術跡や変色した顔が曝け出されている。
 彼女の夢を奏でる両手は自分で衣服を着脱する事も叶わず、リビングから通じているピアノの部屋のドアは閉じられていた。
 桜が、今日帰宅する前日に忠臣に「ピアノを見せないでくれ」と頼んだのだ。
 滑らかな最高級のシルクの様な腹部は、今は手術跡のテープが貼ってある。

 それが、桜の現状。

 美貌も、家柄も、財力も、才能も、性格の良さすらも全て兼ね揃えていた彼女が、谷底まで突き落とされた。

 おまけに好きな相手に下の世話をはじめ、風呂の世話、食事の世話、先ほどの様に背中が痒かったら掻いて貰うとか、ほんの些細な事まで頼らなければならない。
 それをまだ十代の女性に求めるのは酷な事だった。

 忠臣は桜の気持ちや現状は理解しているつもりでも、桜自身ではない。
 どれだけ大切に思っていても、思えば思う程に相手は自分を意識し、申し訳ないとか、恥ずかしいとか、そういう気持ちで萎縮してしまう。
 そこに感謝の気持ちはあるだろうけれど、その前に本来なら何でも一人で出来る元気な若者としての自尊心が、そんなつもりは微塵もない忠臣によって滅茶苦茶にされていた。

 桜だって分かっている。
 今自分が泣いているのは、大好きな彼を困らせているだけだ。
 彼は自分を思ってくれて、心の底から大切にしてくれて、今までの自分の生活を放り出して同棲してまで自分の介護をしてくれようとしている。
 その一日目がこれだ。

 それでも女性としての桜のプライドが、大好きな相手だからこそ壊されてしまう。
 これから毎日何度も忠臣にトイレに入る度に世話をされて、
 一緒に風呂に入って髪と体、顔を洗われて、
 赤ん坊や小さな子供、高齢者の様にスプーンやフォークで食事の世話をされて、
 おむつを穿かされて。
 それを思っただけでも、恥ずかしくて、情けなくて、自分に腹が立って、次から次へと涙が溢れてしまう。

 当たり前の事が出来なくなっただけで、人はすぐに精神的負担を感じ、他者に迷惑を掛けてしまう事で自分を呪ってしまう。
 要介護高齢者が「殺してくれ」と、自分の為に生活や時間を捧げている子供に懇願する気持ちの根底にあるものと似ている。
 そこにあるのは感謝の気持ちと、申し訳ないという気持ち。
 介護を受けている状態が回復するか、しないかという違い。
 類似点と相違点はたったそれだけだ。

 人は何の問題もなく生きているように見えて、いつも何かに侵されている。
 それは病気かもしれないし、
 貧困かもしれないし、
 精神的なものかもしれない。

 心は体の様に、本能として生きようとするバリア機能がない。
 あるのは意思。
 どれだけ踏みつけられても、
 罵られても、
 嘲られても、
 裏切られても、
 人間としての尊厳を奪われようとも、
 そこに生きようとする意思があれば人は生きて、
 なくなってしまえば人は簡単に死を選んでしまう。

 それを選ばずに泥にまみれて生きている人間を、誰が笑えるだろうか。

 人が人を嗤っていい理由などないし、あってはいけない。

 汗水垂らして丹精に咲かせた花を、踏みにじる事においては本当に簡単だ。

 その花がどれだけありふれた種類だろうが、その場所に咲いているその花はそれ一輪だという事を、人はちゃんと知覚して愛しまないとならない。
 物が量産されるこの時代でも、決して同じシリアルナンバーのものはない。
 人も、動物も、あらゆる命だけでなく、生命を持たないものまでも、この世はたった一つの愛しいもので溢れているのだ。
 それに気付く事が出来るのは、人を思い遣れる優しさを持っている者だけ。

 暫く桜は激しく泣きじゃくり、忠臣はそれに余計な言葉で慰める事もなく、黙って優しく抱きしめて彼女の髪を撫でていた。
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