泥に咲く花

臣桜

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第三十五章

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 翌日、忠臣と桜は時坂家の車に迎えられて、立派な洋風の屋敷の門をくぐって時坂家の私有地に入る。
「お邪魔致します……」
 予定が決まってすぐに未来に連絡をし、午前中にマンションまで来てくれた未来のお陰で、桜はきちんと髪を編み込んで化粧をし、よそ行きのワンピースを身につけて恋人の実家の玄関を通る事が出来た。
「いらっしゃい。……貴女が佐咲桜さんね? 忠臣の母の千草です」
 玄関ホールというのだろうか。
 大きな玄関のドアを開けてすぐに広い空間があり、豪華なフラワーアレンジメントをバックに、忠臣の母がソファに座っていた腰を浮かした。
「は、初めまして。佐咲桜です。今回はお招きおおきに」
「ふふ、綺麗で可愛らしい人ね。忠臣」
「母さんでも渡しませんよ」
 時坂の母と息子がそんな冗談を交わし、自分の顔はまだ完治していないのに、という気持ちをつい抱いてしまう桜だが、千草の言葉には桜の怪我の事を匂わせる様なものはなく、何故か言葉通りの意味をすんなりと受け入れられた。
「暑かったでしょう。どうぞ中へ」
「母さん、これお土産。桜のお気に入りの店のジュレなんだって」
 忠臣が紙袋を差し出し、「あら」と千草が桜を見ると、彼女はにっこりと微笑んで頭を下げてみせる。
「お口に合うか分からしまへんが、どうぞ」
「ご丁寧に有り難う御座います。気の利くお嬢さんなのね」
 それから涼しいリビングに通されて、その映画のセットの様な広さに桜が口を小さく開けて固まってしまう。
「桜、座って」
 忠臣にそっと背中を押されて何とかソファに座ったが、見ただけで高級な物だと分かるソファに、おむつを穿いた自分の尻がつけられていいのかと悩む。
「二人とも大きな事件に巻き込まれたわね。けど、二人とも命が助かって本当に良かったわ」
 使用人がアイスティーを持って来てテーブルに置き、下がり際に千草から忠臣と桜の土産物を受け取って、静かに退室していった。
「はい、桜」
 いつもの様に忠臣がグラスを差し出してくれて、それでも桜は千草の手前、酷く恐縮して顔色を窺ってしまう。
「いいのよ、気にしないで桜さん。忠臣が貴女の介護を買って出ているんでしょう? この家だからって遠慮する必要はないし、貴女が過ごしやすい様にして頂戴?」
「はい……、失礼します」
 千種の気遣いに感謝して桜は小さく頭を下げてから、そっとストローに口をつけてアイスティーを飲む。
 氷で冷やされたアイスティーは、口に含むとふわりと果実と花の様な甘い香りが広がった。
「……美味しい」
 思わず口から出た桜の言葉に、千草がにっこりと微笑んだ。
「良かった、私の手作りなの」
「ほんまですか? わぁ、素敵です」
 そういう所は、女性同士話が合うんだな、と忠臣は半ば感心する。
「忠臣さんも一緒に暮らしてくれはる様になって、お料理作ってくれはるんです」
「まぁ、忠臣が?」
 桜が少し自慢げに千草に打ち明けると、息子のそんな面など知らない母が驚いて手を口に当てる。
「そんなに驚く事ですか。失礼ですね」
「でも……、美味しいものは作れてるの? 味見とか……」
 千草が心配するのも無理はない。
 母はまだ息子を味覚障碍のままだと思っている。
 それを察して忠臣と桜は顔を見合わせて微笑み合い、少しの間「どっちが言う?」という遣り取りをした後、忠臣が面映そうに口を開いた。
「味覚障碍は……多分治りました。美味しい、っていう感覚が今はちゃんと分かるんです」
「ええ?」
 息子の報告に母はポカンと口を開いて固まり、その後に胸の前でぎゅっと手を握り締めて、大切なものを包み込む様に体を前屈させる。
「本当なの? 忠臣」
 俯いて表情は知れないが、その声が震えている事だけでも千草が歓喜しているのが分かった。
「はい……。今までご迷惑を掛けました。これからは、人並みに生きていけます」
「そう……、良かった……。本当に、良かった……」

 忠臣が味覚障碍を持ってしまったと分かってから、夫婦の苦悩は深かった。
 父は己を責め、母は悔恨に深く落ちる。
 ありとあらゆる手段で忠臣に美味しい食事を食べさせようとしたが、どれだけ料理番が腕を振るっても、最高級の食材を使っても、忠臣少年が食卓で笑顔を見せる事はなかったのだ。
 料理番も一時スランプに陥りかけたが、それはプロのシェフという事で主人の食生活だけは、意地になって守ってきた。
 忠臣としても、食事を作ってくれる彼に申し訳ない事をしている自覚はあるが、それだけはどうしようもない事として処理してきたのだ。

「きっと、大和田さん喜ぶわ。お昼は食べて来たの?」
「はい、軽く」
「何を食べたの?」
「出かける支度もあったので、インスタントラーメンを作って食べてきました。あれ、美味しいですよね」
 忠臣の口からインスタントラーメンという単語が出て千草が目を丸くし、忠臣が悪戯っぽく笑う。
「ああ、怒らないで下さい。食べられる様になって、取り敢えず色んな物を試している所なんです。家で食べていた様なものは俺は作れないから、桜から口頭で指導して貰って、簡単な物を作っています。
 最近は、オムライスとか作れるようになったんですよ?」
 そうやって千草に報告する忠臣は、少年期に彼が失っていたキラキラとしたものを、今になってようやっと取り戻したかの様だった。
「本当? 凄いわねぇ。桜さん、忠臣は何が一番美味しいの?」
「ふふ、そうですねぇ。今練習しはってるのは、玉子焼きと、煮物やんねぇ」
「そうだね。煮物も俺が関東風で桜が関西風の味付けに慣れているから、お互い少し主張が食い違ってしまって。模索中だ」
 若いカップルがそうやって仲睦まじく同棲生活の話をし、それを千草は早くも嫁が来た心境になってしまう。
「ねぇ、忠臣。お母さんに何か簡単な物でいいから作って? 玉子焼きとかでもいいわ」
「えぇ? でも母さん何か食べたんじゃないんですか?」
「いいの、食べたい。玉子焼きでいいから」
「じゃあ……、大和田さんに頼んで少し台所を借りてきます。桜、母さんとここで二人というのも気を遣うだろうから、一緒に台所に来て座っていたら?」
「ええの?」
 桜が千草を気にすると、千草は微笑んで立ち上がった。
「じゃあ、桜さん一緒に忠臣がお料理をしている所、見学しましょうか」
「はい」
 忠臣が桜を立たせる。
 その介助の仕方の中に慣れを感じ、千草はこの二人が本当にお互いを求め合っているのだな、と感じて心が温かくなった。
 あんなにも何事にもまるで無関心だった息子は、いつの間にか一人の女性を心から思って、その人の為に今までろくにやった事のない料理までもしている。
 そうやって忠臣を変えてくれた桜という存在に、心から感謝もしていた。

「父さんは仕事? 帰りはいつも通りなの?」
「ええ、平日だしいつも通りよ」
 明るい廊下を歩いて幾つかあるドアの一つを開くと、広々としたダイニングになっている。
 白いテーブルクロスが敷かれたダイニングテーブルの横を通り、隣接した台所に三人が入ってゆく。
「大和田さん、ただいま。ちょっといいですか?」
「おやぁ、坊ちゃん。どうしたんです?」
 五十代ほどの男性が椅子に座って新聞を読んでいた顔を上げ、忠臣の顔を見てにっこりと相好を崩す。
「台所借りてもいいですか? 母さんの為に玉子焼きを作りたくて」
「えぇっ? 坊ちゃんが!?」
 ガタッと音を立てて大和田が立ち上がり、皺が出来て小さくなりつつある目を目一杯に広げて、まじまじと忠臣を見詰める。
「大和田さん、俺治ったんです。今は『美味しい』が分かるんです」
「ええええええ!?」
 暫く大和田は口をパクパクとさせて忠臣を見詰め、声を失っていた。
 が、そのうちその小さな目に涙を溜めて、何度も頷いて「よかったぁ」と感極まった声を漏らし出す。
「大和田さん、今まですみません。『美味しくない』とか、作ってくれる大和田さんの気持ちも考えずに沢山傷つけてしまって。今は自分が料理を作るようになって、作る側の大変さや、大切な人に食べて欲しいと思う作り手の気持ちというものも、少しだけは分かるつもりです」
 忠臣が頭を下げると、大和田は嬉しそうに目を細めて首を振った。
「いいえ、いいんですよ。坊ちゃんは病気だったんだ。それが治ったんなら私は嬉しくて仕方がない。今は……そちらのお嬢さんと一緒に暮らしてるんですか? いやぁ、実に綺麗なお嬢さんを見つけたもんだ。幸せになって下さいね、坊ちゃん」
 大和田は身長があまり高くないので忠臣の頭を撫でる訳にいかず、ただそっと若い主人の腕を何度も何度もさする。
「坊ちゃんの玉子焼き、私にも食べさせて貰っていいですか?」
「大和田さんに味見されたら恥ずかしいな」
「いいえ、いいんです。記念日として食べさせて下さい。その後、ちゃあんと指導しますから」
 最後にそう付け加えて大和田がカラカラと笑い、忠臣と桜、千草も一緒になって笑った。
 そして、忠臣が少し緊張して恥ずかしそうに台所に立ち、三人が見守るなか玉子焼き鍋を使って、玉子焼きを作り始めた。
 桜は甘い玉子焼きが好きなので、砂糖を少し多めに入れる。
「坊ちゃん、甘い玉子焼きなら味醂を少し入れるといいですよ」
 思わず大和田が口を出してしまってから、「あっ」とばつが悪そうに手を額に遣った。
「有り難う御座います。やってみます」
 だが、忠臣はいいアドバイスを受けたと味醂を探し、大和田に言われた通り小さじ一を玉子液の中に混ぜいれる。
 中火で玉子を焼き、まだ上手く出来ないが桜に教えて貰った通り、出来るだけ半熟のうちに巻いてゆく。
「……出来ました」
 恥ずかしそうに忠臣が出した玉子焼きは、まだ練習途中の物でお世辞にも綺麗な外見をしていない。
 表面が剥がれていて中の半熟が見えていたり、本来なら綺麗な楕円形になっている筈の形は、何故か三角形になっていた。
「まぁ、美味しそう」
 それでも千草は嬉しそうに微笑み、大和田もにこにこして玉子焼きを切る包丁を取り出す。
 そんな二人を見て、桜は忠臣が愛されている事が分かって微笑ましいという気持ちを抱きながら、こんなに愛されている彼を自分がこの屋敷から奪ってしまった罪悪感も感じていた。
「坊ちゃんが焼いた記念すべき玉子焼きだ。あっ、そうだ! 坊ちゃん、この玉子焼き写真撮ってもいいですか?」
 まるで自分の孫が初めて玉子焼き作ったかの様な反応をし、大和田がポケットからスマホを取り出す。
「あら、大和田さんそれいいわね。私もそうするわ」
「ちょっと二人とも……」
 困って照れてしまう忠臣の前で、千草と大和田がスマホを構えて不恰好な玉子焼きを写真に収め、満足そうに液晶を見て微笑んでいる。
「忠臣さん、愛されてはるんやねぇ」
 思わずクスクスと笑った桜の反応に、忠臣はもっと照れて額を掻く。
 正直、桜の前で「坊ちゃん」と言われるのも恥ずかしい。
 けれど、それを大和田に「やめてくれ」と言うのは、更に自分が子供っぽく振舞っている様に思えてはばかられる。
「何だかケーキ入刀みたいな気分ですね」
 そう言って大和田が玉子焼きを等分し、焼き物の小皿に取って四人がダイニングへ移動した。
「忠臣、いただきます」
「いただきますよ、坊ちゃん」
 幸せそうな顔で千草と大和田が玉子焼きに箸をつけ、忠臣も「はい」と桜に一口分を箸に取って差し出す。
「んん、美味しい」
「ああ、これが坊ちゃんの作ってくれた玉子焼きかぁ」
 形は悪いが、ふわりとした甘さに三人が目を細め、桜が口を動かしている間に忠臣も味見してみる。
「あ、味醂で少し味が変わった気がします」
「でしょう。気分が変わったら、醤油とかを使って甘くないのを作ってもいいですよ」
「ああ、成る程。出汁巻き玉子とかもやってみたいです」
「出汁巻きは柔らかいから少し難しいですよ。初めのうちはフライ返しとかを使うといいかもしれません」
 そういう風に大和田と料理を交えた話をし、忠臣は夏休み中にまたこの家を訪れて、大和田から簡単で美味しい料理を習う約束を取り付けた。
「本当にご馳走様でした、坊ちゃん」
「いいえ、俺こそいつも大和田さんには美味しい物を作って貰っていたのに……すみません」
「いいんですよ、私は坊ちゃんがこうやって食に興味を持つ事が出来て、本当に嬉しい。これからは、桜お嬢さんの為に美味しい物を作って差し上げて下さい」
「はい、先生」
 忠臣がそう返事をすると、大和田が「先生かぁ」とまんざらでもなさそうな顔で破顔し、周りも笑う。

 一つ、結び目が解けた気がする。
 ずっと言いたくても言えなかった気持ち。
 自分の為を思って色んな工夫をしてくれた大和田に、今まで一言も心から「美味しかった」や「有り難う」が言えなかったもどかしい気持ち。
 二人の間に誤解があった訳ではないが、味覚というものが橋渡しをしてくれて、今日やっと、忠臣と大和田の間に若旦那と料理番という関係が改めて成り立った気がした。

「今晩は旦那様がお帰りになったら、私の料理を食べていって下さい」
 本当に嬉しそうにそう言う大和田を後ろに、三人は台所を後にして再びリビングへと元来た道を戻る。
「桜さんのお陰で、忠臣は本当に幸運が向いてきたわねぇ」
 千草の手作りだというアイスティーは冷たい物に取り替えられ、室内にはゆったりとした空気が流れている。
「京都で少しだけお邪魔したお宅のお嬢さんが、こんな素敵な女性になるだなんて」
 幼少期の話を持ち出されて二人が「あ」という顔をし、忠臣が当時の話を聴きたがる。
「桜の匂いを一生懸命嗅いでいたという事は、例の事以降ですか?」
 血を飲んでしまった事を、忠臣はそうとは言わずに言葉をぼかす。
「そうね、急に忠臣が何を食べても何の反応を示さなくなってしまって、それを慰める為もあって一緒に京都に連れて行ったのよ」
「へぇ……、成る程」
 両親としても、忠臣の味覚を刺激する為に、色んな料理を食べさせようとしたのだろう。
「桜さんがね、あの大きなお屋敷の縁側でお利口に絵本を開いたりしているのに、忠臣はその後ろからずーっと桜さんの匂いを嗅いでるのよ……。もうお母さん、心配なのと恥ずかしいのとで、桜さんのお母様に顔が合わせられなくて……」
 そういうものの、千草の顔は懐かしそうに笑っている。
「いやですわぁ。私、そないに匂ったんでしょうか?」
 忠臣から話は聞いていても、女性としてそんな風に嗅がれていたと聞いては恥ずかしい。
「ふふ、私が忠臣に訊いてもね、トローンとした顔で『あの子いい匂いがする』ってばっかりで」
「もう……、母さん」
 涼しい筈の室内なのに、忠臣は手で頻繁に顔を拭って決まり悪そうにそっぽを向いていた。
「でも、忠臣の味覚はどうやって治ったの?」
 千草の当然と言えば当然な質問に、忠臣は顔を曇らせて押し黙ってしまう。
 理由を知っている桜は自分が話したものかと思うが、やはりこういう事は本人が打ち明けた方がいいのかとも思う。

 暫く忠臣は黙っていた。
 自分の中の『罪』と向き合い、幼い自分と今の自分を見詰め返す。
 初めて口にした『罪』はドロッとしていて鉄臭くて。
 この上もなく不味かった。
 まだ『それ』の正体が分からない時は、父親が飲んでいる物だからきっと何かいい飲み物なのだろうと思っていたのだ。
 残したら怒られる。
 そう思って全部口にして飲み込んでから、後味が悪くて台所に駆け込んで水を飲んだ。
 幼い忠臣に衝撃を与え、その後事実を知った彼が自らの味覚を封じてしまった事件は、やがて同じ『罪』の形で収束した。
 
 ――あの時。
 必死になって桜の望みのままキスをして、舌先に味わった『罪』の味は、忠臣に初めての「美味しい」を教えてくれた。

 この事実が、どんなに重たい事なのか。
 けれど、自分の味覚障碍を心配してくれた両親には、特に自分の所為で忠臣が血を口にして障碍を持ってしまったと苦悩している父には、ちゃんと知らせて安心させてあげなければならない。
 親が子を心配するものであるなら、
 子は親の心配を少しでも軽減するものだ。

 呻くように言葉を搾り出す。
「……自分が口にした不味いものが誰かの血だと分かってショックを受けた後……、気がついたら味覚が滅茶苦茶になっていて……、けれど、それをまた取り戻させてくれたのは……桜の血でした」
 夏の午後のぎらついた日差しが、上品なレースのカーテン越しに上等な絨毯を明るく照らしていた。
 その光が直接届かない広いリビングの中で、忠臣の告白が始まっている。
「桜が暴漢に襲われて倒れていた時、救急車を呼んでから彼女にキスをしました。……その時に口にした桜の血の味を舌に感じて、物心ついてから初めて『美味しい』と感じました」
 そっと隣に座っている忠臣の顔を窺った桜には、彼の沈痛な面持ちがとても綺麗なものだと思えた。
 スッとした顔の輪郭は滑らかに輝いて、茶色味を帯びた髪はサラリと艶がある。

 こんなに綺麗な男性は見た事がない。
 俗世にまみれていなくて、正直で、優しくて。
 自分が抱えているものに対して責任感があって、いつまでもそれに囚われているからこそ、この年齢になってもしなやかで素直な人を形成している。
 守りたい。
 こんなにも綺麗な彼を、守って、いとおしんで、
 ――一生、自分という檻の中で優しく独占したい。

「そう。……それを忠臣は悪い事だと思っているの?」
「え?」
 母の反応に、忠臣が悲しそうな目を瞠る。
「桜さんが今こうやって側にいて下さっているという事は、桜さんは許してくれたんでしょう?」
「ゆる……して……」
 ノロノロと忠臣が桜を見、彼女は女神の様に微笑んでみせた。
「私、忠臣さんのお役に立てたんなら、嬉しいんよ? なぁんも気にしんといて?」
「桜……」

 ああ、彼女はなんて優しいんだろう。
 本当に綺麗で、ウスバカゲロウの様に儚いのに、ちゃんとそこに生きてくれている。
 どれだけ衝撃を与えてもしなやかに伸びる竹の様で、その真っ直ぐな瞳の先は自分を見て、赦してくれている。
 まるで聖母のように。

 その忠臣の目を、桜も受け入れる。

 知ってるよ。
 こうやって優しく笑ったら、貴方は私に骨抜きになる。
 貴方が罪悪を感じているからこそ、私はそこにつけ入って優しさを植えつけて、私なしではいられない貴方にしてしまう。
 何があっても貴方を手放さない為に。

「ほら、桜さんはこんなにも優しい女性じゃない。だから忠臣だって桜さんを選んだんでしょう? 忠臣がその事を少しでも悪い事だと思っているのなら、今こうやって桜さんのお世話をしたり、結婚を考えているのだったらそうやって二人の間で帳尻を合わせていけばいいと思うの」
 サマーニットの胸の前で手を併せて千草がにっこりと笑い、そんな母を忠臣はやはりお花畑の中の人だな、と思っていた。
 今になって母は思っていたよりもしっかりした『母親』なのだと分かったが、こういう平和的な考え方は基本的に変わらない。
 事実、桜が赦してくれていて、周囲にも表立ってこれ以上の噂にはなりえない。
 けれど、罪悪感というものはずっと忠臣の心に巣食って、彼を苦しめ続ける。

 父が言っていた言葉。

 この場合、忠臣がした『後悔』は、事後になってやって良かったと思うが味わう場合の後悔だ。
 けれども、しなかった場合にしても、した場合にしても、後悔というものは本当に味が悪い。
 ザラザラとした苦いペースト状の海苔の様で、ねばついた網を心の中に張り巡らせる。
 時間が経ってそれはゆっくりと心の底の方へ澱の様になっていくが、思い出した時はまたその触手を心の中に伸ばして満遍なく黒い毒を送り込む。

「あの……忠臣さんもお母様も、そないに深く考えんといて下さい。あの時は私が忠臣さんに死ぬ前にキスして欲しいって思って、それだけなんです。むしろ、汚れてしもた私に触れてくれはった忠臣さんに……感謝したいんです。
 忠臣さんはただ私に優しくしてくれはっただけで、舌に感じた事はほんのきっかけ。それだけですよ? 何の問題もあらしまへん」
 そう言って、桜が春の日差しの様に微笑んでみせた。

 少しでも、忠臣の中の闇を晴らしたくて。
 少しでも、泥にまみれた今の自分を綺麗だと思いたくて。

 傷跡が痛々しい顔で、いつもの様に桜が笑う。
 その笑顔は、既にもう完璧に忠臣の心を捉えていた。

「本当にいいお嬢さんねぇ、桜さんは。忠臣、手放しちゃ駄目よ? 小さい頃からご縁があったっていうのも、きっと神様か誰かが引き合わせて下さったんだわ」
「……そうですね」

 今となっては理由も縁もどうでもいい。
 桜と出会って、全てが変わった。
 それに感謝している。
 
「お父様が帰るまで、忠臣はお部屋で桜さんと過ごしていなさい。映画とか沢山あるでしょう。夕食の時に桜さんが買って来て下さったジュレ、皆で食べましょうね」
「はい」
 千草に言われてそれからはそう過ごすようにし、桜は初めて入る忠臣の実家の部屋を物珍しそうに見て、それが済んでから忠臣のDVDコレクションの中から、桜が見てみたいと言った映画を見て、父の帰宅までの時間を潰した。
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