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一番聞きたくなかった声
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彼に笑いかけられ心を寄せてもらうほど、芳乃は恋の蟻地獄に嵌まって身動きが取れなくなっていた。
一つだけ変わったと思ったのは、暁人が以前のようにセックスを求めてこなくなった事だ。
一緒にソファに座ってテレビを見ていると、肩を抱かれたり太腿に触られたり、膝枕を求められる事もある。
時に胸に触られたりもしたが、彼は無理強いをして芳乃をベッドにつれて行かなくなった。
自分からグレースに申し訳ないから、セックスには応じられないと決意したはずなのに、それを寂しく想ってしまう我が儘な自分がいる。
日に日に暁人への恋慕は強くなり、この心地よい生活を手放したくないと思ってしまうようになった。
十月になったある日、そんな想いもひっくり返す出来事が起こった。
**
フロントに立っている芳乃は、今日〝ゴールデン・ターナー〟の役員たちがホテルにチェックインすると聞いていて、朝から倒れそうな程の緊張に包まれていた。
同僚たちには、まさか〝ゴールデン・ターナー〟のCOOと関係があっただなんて言えない。
昨晩は暁人に大丈夫か尋ねられたが、彼には柊壱からウィリアムたちが来る事を聞かされたと言っていない。
卑怯だが「生理前に調子が悪くなっただけだから」と言うと、彼は若干動揺しつつも「あまり重いようだったらきちんと上司に伝えて」と気遣ってくれた。
午前中発のフライトとして、羽田に着くのは昼過ぎだ。
気を引き締めていなければ……と思っていた時、耳につけていたインカムから「ターナー様いらっしゃいました」とドアマンの声が聞こえた。
目の前にいる他の客の対応をし終えた芳乃は、お辞儀をして頭を上げた時、ウィリアムがレティを伴ってホテルのロビーに入っていくのを目撃した。
ウィリアムはレティの腰を抱いていて、二人とも親しげに話し笑い合っている。
もう彼の事は吹っ切れて、今自分の心を占めるのは暁人だと思っていた。
しかしクリスマス前に酷い振られ方をされた心の傷は、少しの刺激を受けてまたかさぶたを剥がし、血を滲ませた。
二人は初めて訪れるホテルのロビーを見回し、和とモダンが混じった内装に感動しているようだった。
レティはさっそくロビーを背景に自撮りを始め、ウィリアムは内装のどの部分に金を掛けているかなど、見回しながらチェックしているようだった。
――と、彼と目が合い、遠目にもウィリアムが目を大きく見開いたのが分かった。
(やめて。気付かないで。こっちに来ないで)
その他にもウィリアムの弟であるマーティンに部下たちもいて、接待している暁人や柊壱の姿も見えた。
微笑んだまま表情を強ばらせている芳乃のもとに、ウィリアムがまっすぐ足を運ぼうとする。
――のを、暁人が呼び止めた。
《ミスター? どうかなさいましたか? チェックインは秘書が済ませる手はずでは?》
《失礼。私のホテルで働いていた優秀なスタッフがいたんです。まさかこのホテルで彼女に再会できるとは……》
今さらな事を言い、ウィリアムは構わずフロントまでやってくる。
目の前に長身の彼が迫り、芳乃は観念して業務的にお辞儀をした。
《いらっしゃいませ、ターナー様》
《つれないじゃないか、芳乃》
彼は肘をつきニヤニヤと笑ってくる。
(仕事の邪魔をしないで)
心の中で思いきりしかめっつらをしたが、表向きビジネススマイルは崩さなかった。
《やはり日本に戻ってもホテル業界で働いていたんだね。実に君らしい》
《ミスター、うちの社員とどのような関係ですか?》
そこに、フロントへやって来た暁人に話しかけられ、ウィリアムは《おっと、失礼》と姿勢を正す。
《彼女は昨年末までNYにある〝ゴールデン・ターナー〟のフロントをしていたんです。事情があり辞めたあと、有望な人材なだけにどうしていたのかずっと気にしていました》
社交的な笑みを浮かべながら、ウィリアムは欠片も思っていないだろう事を口にする。
(……いや、仮にそう思っていたとしても、『いい遊び相手がいなくなった』でしょうね)
心の中で皮肉を言い、芳乃は耳に入ってきたインカムの情報から、パソコンを操作する。
《嫌だわ。こんな所にこの子がいるの?》
その時、一番聞きたくなかった声がした。
パソコンの画面から視線を外したくない。
一つだけ変わったと思ったのは、暁人が以前のようにセックスを求めてこなくなった事だ。
一緒にソファに座ってテレビを見ていると、肩を抱かれたり太腿に触られたり、膝枕を求められる事もある。
時に胸に触られたりもしたが、彼は無理強いをして芳乃をベッドにつれて行かなくなった。
自分からグレースに申し訳ないから、セックスには応じられないと決意したはずなのに、それを寂しく想ってしまう我が儘な自分がいる。
日に日に暁人への恋慕は強くなり、この心地よい生活を手放したくないと思ってしまうようになった。
十月になったある日、そんな想いもひっくり返す出来事が起こった。
**
フロントに立っている芳乃は、今日〝ゴールデン・ターナー〟の役員たちがホテルにチェックインすると聞いていて、朝から倒れそうな程の緊張に包まれていた。
同僚たちには、まさか〝ゴールデン・ターナー〟のCOOと関係があっただなんて言えない。
昨晩は暁人に大丈夫か尋ねられたが、彼には柊壱からウィリアムたちが来る事を聞かされたと言っていない。
卑怯だが「生理前に調子が悪くなっただけだから」と言うと、彼は若干動揺しつつも「あまり重いようだったらきちんと上司に伝えて」と気遣ってくれた。
午前中発のフライトとして、羽田に着くのは昼過ぎだ。
気を引き締めていなければ……と思っていた時、耳につけていたインカムから「ターナー様いらっしゃいました」とドアマンの声が聞こえた。
目の前にいる他の客の対応をし終えた芳乃は、お辞儀をして頭を上げた時、ウィリアムがレティを伴ってホテルのロビーに入っていくのを目撃した。
ウィリアムはレティの腰を抱いていて、二人とも親しげに話し笑い合っている。
もう彼の事は吹っ切れて、今自分の心を占めるのは暁人だと思っていた。
しかしクリスマス前に酷い振られ方をされた心の傷は、少しの刺激を受けてまたかさぶたを剥がし、血を滲ませた。
二人は初めて訪れるホテルのロビーを見回し、和とモダンが混じった内装に感動しているようだった。
レティはさっそくロビーを背景に自撮りを始め、ウィリアムは内装のどの部分に金を掛けているかなど、見回しながらチェックしているようだった。
――と、彼と目が合い、遠目にもウィリアムが目を大きく見開いたのが分かった。
(やめて。気付かないで。こっちに来ないで)
その他にもウィリアムの弟であるマーティンに部下たちもいて、接待している暁人や柊壱の姿も見えた。
微笑んだまま表情を強ばらせている芳乃のもとに、ウィリアムがまっすぐ足を運ぼうとする。
――のを、暁人が呼び止めた。
《ミスター? どうかなさいましたか? チェックインは秘書が済ませる手はずでは?》
《失礼。私のホテルで働いていた優秀なスタッフがいたんです。まさかこのホテルで彼女に再会できるとは……》
今さらな事を言い、ウィリアムは構わずフロントまでやってくる。
目の前に長身の彼が迫り、芳乃は観念して業務的にお辞儀をした。
《いらっしゃいませ、ターナー様》
《つれないじゃないか、芳乃》
彼は肘をつきニヤニヤと笑ってくる。
(仕事の邪魔をしないで)
心の中で思いきりしかめっつらをしたが、表向きビジネススマイルは崩さなかった。
《やはり日本に戻ってもホテル業界で働いていたんだね。実に君らしい》
《ミスター、うちの社員とどのような関係ですか?》
そこに、フロントへやって来た暁人に話しかけられ、ウィリアムは《おっと、失礼》と姿勢を正す。
《彼女は昨年末までNYにある〝ゴールデン・ターナー〟のフロントをしていたんです。事情があり辞めたあと、有望な人材なだけにどうしていたのかずっと気にしていました》
社交的な笑みを浮かべながら、ウィリアムは欠片も思っていないだろう事を口にする。
(……いや、仮にそう思っていたとしても、『いい遊び相手がいなくなった』でしょうね)
心の中で皮肉を言い、芳乃は耳に入ってきたインカムの情報から、パソコンを操作する。
《嫌だわ。こんな所にこの子がいるの?》
その時、一番聞きたくなかった声がした。
パソコンの画面から視線を外したくない。
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