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別れの曲
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「……弾いたら……、願いを叶えてくれるの?」
もう一度同じ言葉を呟き、花音は呼吸を荒げながら、とある曲のファーストポジションをとる。
(六年のブランクがありすぎて、弾けないかもしれない。手が痛むかもしれない。でも……!)
ドクッドクッと心臓が頭の中にあるようにうるさく響き、花音の緊張が高まった頃、彼女は意を決して指を動かした。
奏で始めた曲は、ショパンの『別れの曲』。
アップテンポの曲ではないので、ある程度余裕を持って弾く事ができる。
最初こそ鍵盤に込める力加減が分からず、情けない音になってしまったが、徐々に感覚を取り戻していった。
手は、拍子抜けするほど痛まなかった。
日々、会社でタイピングなどをしていたのもあるからだろうか。ピアノから離れていても、知らない内にリハビリはされていたようで、彼女の指は滑らかに動いていく。
(……楽しい)
そう。六年前まで、自分はこうやって十本の指を自由に動かして音楽を奏でていた。
音楽とは関わりのない友達からは、「指がそんな風に動いて音を奏でるって、凄いよね」と手放しで褒められた。
その時の花音にとっては当たり前の事なので、「ありがとう」とは言ったものの「普通の事なのにな」など考えてしまっていた。
けれどピアノから離れた今なら分かる。
一定水準以上の演奏ができる人は、凄い。
確かに六年前、自分は音楽業界の最高峰の一員になろうとしていたのだ。
「う……っ」
あの時の輝かしいばかりの毎日を思い出し、涙が出てくる。
懐かしい、戻りたいと思うかは分からない。
ただ、二十年間音楽しか知らない人生を送り続けていた。恋愛もろくにせず、会社員が必要とする最低限のスキルや、パソコンの扱い方すら怪しかった。
何もかも捧げたピアノを自分から遠ざけ、祖母がいなくなった今になり、こうして奏でている。
今さら、と祖母は思うかもしれない。
六年ぶりにピアノを弾けたという感動と、説明しきれない複雑な感情。
それに翻弄され、花音は涙を流しながら情感たっぷりにメロディーを紡いでゆく。
(お祖母ちゃん、ごめんなさい……っ)
白と黒を映した視界が、涙でぼやける。
それでも花音は体に覚え込んだ指運びをし、ペダルを踏み、曲に没入して演奏した。
脳裏に蘇るのは、幼い頃からずっとピアノを教えてくれた祖母の顔。
厳しくはあったが、常にピアノへの愛が溢れた人であった。
ピアノ教室は「楽しく学ぶ」をモットーにし、祖母自身が有名なピアニストであった事から、常に盛況だった。
祖母はピアノから離れたところでは、少し世間ずれした品のいいお祖母ちゃんという感じだった。友達からはよく、「花音の家はお金持ちでいいな」と言われていた。
けれどそれはすべて、祖母や母が人生のほとんどをピアノに費やした結果だと思っている。
一日中練習するのは当たり前、普段ピアノの教師として生徒に教えている以外の時間でも、放っておけば食事を忘れるほどピアノに打ち込む。
花音や弟も、学校行事に両親がそろって来てくれないのが当たり前で育っていた。
毎回母に「ごめんね」とお土産つきで謝られていたが、そのうち諦めて何も期待しないようになっていった。
小学生ぐらいまでは「私はこんな人にならない」と怒っていたが、高校生になる頃には花音自身もピアノで頭がいっぱいになり、友達づきあいは二の次になっていた。
大学に入れば周りはライバルばかり。
本当に、音楽だけの人生だった。
祖母自身も、「私はピアノを弾く以外に、特技はないの」とカラリと笑っていた。
傲慢にならないよう、祖母はカウンセラーと月に一回話して、自分の気持ちを整理して過ごしていた。
プロになれば、それだけプライドが高くなる。
一人目の夫とは、それが原因で別れてしまったそうだ。
喪ってしまった梨理も含め、様々な失敗をしたからこそ今までの祖母があるのだろう。
そして、祖母はピアノに生涯を捧げながらも、奏恵や他の子供たちも育て、花音たち孫にも愛情を注いでくれた。
普段は「いて当たり前」と思っていた祖母の存在を、喪って初めて大きく感じる。
(子供の頃に憧れていた曲を、こんなにスムーズに弾けるようになったのも、お祖母ちゃんのお陰だよ)
心の中で語りかけ、花音は目の端からポロポロと涙を零す。
(ごめんね。私は良くない孫だったかもしれない。お祖母ちゃんにどれだけ愛されていたのか、自覚できていなかった。あれだけ期待して一流のピアニストに育ててもらったのに、コンクールで優勝する夢を叶えられなかった……っ)
こみ上げるのは、悔恨と悲しみのみ。
追悼の曲はクライマックスを迎えようとしていた。
もう一度同じ言葉を呟き、花音は呼吸を荒げながら、とある曲のファーストポジションをとる。
(六年のブランクがありすぎて、弾けないかもしれない。手が痛むかもしれない。でも……!)
ドクッドクッと心臓が頭の中にあるようにうるさく響き、花音の緊張が高まった頃、彼女は意を決して指を動かした。
奏で始めた曲は、ショパンの『別れの曲』。
アップテンポの曲ではないので、ある程度余裕を持って弾く事ができる。
最初こそ鍵盤に込める力加減が分からず、情けない音になってしまったが、徐々に感覚を取り戻していった。
手は、拍子抜けするほど痛まなかった。
日々、会社でタイピングなどをしていたのもあるからだろうか。ピアノから離れていても、知らない内にリハビリはされていたようで、彼女の指は滑らかに動いていく。
(……楽しい)
そう。六年前まで、自分はこうやって十本の指を自由に動かして音楽を奏でていた。
音楽とは関わりのない友達からは、「指がそんな風に動いて音を奏でるって、凄いよね」と手放しで褒められた。
その時の花音にとっては当たり前の事なので、「ありがとう」とは言ったものの「普通の事なのにな」など考えてしまっていた。
けれどピアノから離れた今なら分かる。
一定水準以上の演奏ができる人は、凄い。
確かに六年前、自分は音楽業界の最高峰の一員になろうとしていたのだ。
「う……っ」
あの時の輝かしいばかりの毎日を思い出し、涙が出てくる。
懐かしい、戻りたいと思うかは分からない。
ただ、二十年間音楽しか知らない人生を送り続けていた。恋愛もろくにせず、会社員が必要とする最低限のスキルや、パソコンの扱い方すら怪しかった。
何もかも捧げたピアノを自分から遠ざけ、祖母がいなくなった今になり、こうして奏でている。
今さら、と祖母は思うかもしれない。
六年ぶりにピアノを弾けたという感動と、説明しきれない複雑な感情。
それに翻弄され、花音は涙を流しながら情感たっぷりにメロディーを紡いでゆく。
(お祖母ちゃん、ごめんなさい……っ)
白と黒を映した視界が、涙でぼやける。
それでも花音は体に覚え込んだ指運びをし、ペダルを踏み、曲に没入して演奏した。
脳裏に蘇るのは、幼い頃からずっとピアノを教えてくれた祖母の顔。
厳しくはあったが、常にピアノへの愛が溢れた人であった。
ピアノ教室は「楽しく学ぶ」をモットーにし、祖母自身が有名なピアニストであった事から、常に盛況だった。
祖母はピアノから離れたところでは、少し世間ずれした品のいいお祖母ちゃんという感じだった。友達からはよく、「花音の家はお金持ちでいいな」と言われていた。
けれどそれはすべて、祖母や母が人生のほとんどをピアノに費やした結果だと思っている。
一日中練習するのは当たり前、普段ピアノの教師として生徒に教えている以外の時間でも、放っておけば食事を忘れるほどピアノに打ち込む。
花音や弟も、学校行事に両親がそろって来てくれないのが当たり前で育っていた。
毎回母に「ごめんね」とお土産つきで謝られていたが、そのうち諦めて何も期待しないようになっていった。
小学生ぐらいまでは「私はこんな人にならない」と怒っていたが、高校生になる頃には花音自身もピアノで頭がいっぱいになり、友達づきあいは二の次になっていた。
大学に入れば周りはライバルばかり。
本当に、音楽だけの人生だった。
祖母自身も、「私はピアノを弾く以外に、特技はないの」とカラリと笑っていた。
傲慢にならないよう、祖母はカウンセラーと月に一回話して、自分の気持ちを整理して過ごしていた。
プロになれば、それだけプライドが高くなる。
一人目の夫とは、それが原因で別れてしまったそうだ。
喪ってしまった梨理も含め、様々な失敗をしたからこそ今までの祖母があるのだろう。
そして、祖母はピアノに生涯を捧げながらも、奏恵や他の子供たちも育て、花音たち孫にも愛情を注いでくれた。
普段は「いて当たり前」と思っていた祖母の存在を、喪って初めて大きく感じる。
(子供の頃に憧れていた曲を、こんなにスムーズに弾けるようになったのも、お祖母ちゃんのお陰だよ)
心の中で語りかけ、花音は目の端からポロポロと涙を零す。
(ごめんね。私は良くない孫だったかもしれない。お祖母ちゃんにどれだけ愛されていたのか、自覚できていなかった。あれだけ期待して一流のピアニストに育ててもらったのに、コンクールで優勝する夢を叶えられなかった……っ)
こみ上げるのは、悔恨と悲しみのみ。
追悼の曲はクライマックスを迎えようとしていた。
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