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嫌だ、という声は無視をして。顎を強く掴んで上向かせ、口を深く塞ぐ。
「ん、っ……う、ぅ、っ」
舌に鋭い痛みが走って、噛まれたのだと気づいた。
「嫌だ、っつって、んだろ?!」
「知るか」
逃げようとする体を掴んで引き倒し、はだけていたシャツを乱暴に脱がせる。
じたばたと暴れる細い足を掴んで、お返しにそのふくらはぎを噛んだ。
「っ、い、って……」
「おとなしくしろよ。さっきの奴にはヤらせるつもりだったんだろ?」
「違う、って言ってんだろうが!このくそガキ!」
足も腕も腹も、どこもかしこも細いくせに筋力は意外とあるらしい。なんとか逃げ出そうとしているのがわかって、今度は太ももに噛みついた。
「っ!だ、から……っ、いて、ぇっつってんだろ!」
「暴れるからだろ。大人しくしてりゃ噛まねえよ」
「さっきっから大人しくってうるせぇな!黙ってヤられてろってことかよ!」
「そうだよ」
誰が逃がすか、と持っていた足を開かせる。何も着ていないその体の中心で、力なく萎えたそれが揺れた。
やめろ、という顔は赤く染まっている。もともとの色が白いせいで、赤くなった肌はひどく扇情的だ。
「な、ほら、わかんだろ?お前とおんなじもんついてんだって。男なの」
「知ってる」
「だったら、その手、離せって。お前ぐらいイケメンだったら、女の子の方から寄ってくんだろ?俺なんかやめとけよ、な」
焦っているのか、いつもより早口だ。ふ、と笑って、萎えたままのそこに触れる。
「っ、あ!」
「ああ、本当だな。ちゃんと反応すんじゃん」
「や、やめ、なに、ほんと、やめ」
手を動かす俺を、怯えと戸惑いが混ざった目が見てきた。
その二色しかなかった目が、手の動きを強くすれば、明らかな快楽を乗せて潤む。
「っ、や、あ、ぁあっ」
「なんだよ、その声……腰にくる」
「し、らな、はなせ、ってば、やめ、やめろ、って」
必死に頭を横に振り、震える手で俺の腕を引っ掻いて止めようとするけれど、それが逆に煽ってくるのを、本人は解っていないんだろうか。
そんなことを考えながら手をさらに速めれば、びくんと大きく震えて白濁を吐き出した。
「……早くね?」
「う、るっ、さ……おま、ほんと……最低」
「ったく、かわいくねーな」
悪態ばかりついて出る口を軽く舐める。かわいくない、と言いながら、ぴく、と反応する体は反対にかわいらしく思えた。
どろりとしたそれを指に絡め、開いた足の間へと伸ばす。
「っ、ひ?!やだ、やだやだやだ、やめ、やめろ、って、ほんと、やだ、っ」
「……そんなに、俺に抱かれんのは嫌なのかよ」
「やめ、や……っ、いた、いたい、やだぁっ」
指を進めようとすれば、びくりと跳ねて。だけど、それは快感によるものではないのが、その表情ではっきりとわかった。
赤くなっていた顔は青ざめ、痛みと恐怖にかぼろぼろと涙をこぼして。いやだ、とか細く言いながら、首を横に振る。
無理矢理押し込んだ指を引き抜けば、わずかではあるものの鮮血が伝った。
頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われ、一瞬で冷静になる。
「っ、あ……悪、ぃ……んな、つもり、じゃ……」
「っ、あ……う」
子供みたいに泣く遥に、どうしていいかわからなくなって。
ごめん、と何度も何度も繰り返し、着ていた制服のジャケットをそっとかけてやった。
それ以上、そこにいられなくて。最低だとは自覚しながらも、立ち上がる。
「……本当に、悪い……」
そして、情けなくもその場から逃げ出した。
夜が明ける。
結局、何をどうしていいのかもわからずバイトに行って、上の空で仕事をこなし、自宅に帰ってきて。
煎餅みたいな布団に横になったまま、眠れず朝を迎えようとしていた。
昨日まで、あの笑顔がずっと脳裏に焼き付いて離れなかったのに。今は、青ざめてぼろぼろと泣いていた姿しか思い出せない。
「……どの面下げて会えるっつんーんだ……」
独り言は、オレンジ色に染まり始めた空に溶けて消えた。
どれぐらい、そうしていたんだろう。気づいたらもう、すっかり空は明るくて。
ざわざわとした外の空気に、それを肌で感じる。まずい、と感じ慌てて立ち上がった。
外の階段を上がってくる足音が聞こえる。玄関で靴を履こうとしていると、扉が開いた。間に合わなかった、と歯噛みする。
「なぁに、あんたまだいたのぉ?」
酒臭い。だけど今日はずいぶん上機嫌なようだ。
少しだけ安堵して、言い訳を口にする。
「……今日は、午後からなんで」
「ふぅん、ま、どうでもいいけどぉ。学校なんてやめちゃえばいいのに」
また始まった。派手な髪と化粧をしたその人は、俺の脇をすり抜けて家の中に入る。
「あんた、兄さんに似て顔はいいんだしぃ。うちの店で働けばぁ?」
「……何度も、言ってるじゃないですか。まだ俺、未成年ですよ」
「そんなのいくらでも誤魔化せるってぇ……あ、そうだ」
鏡に向かい、化粧を落とし始めながら。俺の父親の妹――叔母は、なんでもないことのように言った。
「引き出しのお金、借りたから。そのうち返すわ」
「はあ?!」
「なんか文句あんの?」
文句も何も、その金は俺の稼いだアルバイト代だ。さすがに激昂し、一度は履いた靴を脱いで部屋に戻る。
「こっちはさぁ、独身で結婚もしたことないってのに兄さんの忘れ形見だからってあんたのこと養ってやってんのよぉ?」
「……だからって人の働いた金取っていいわけないだろ」
「なに言ってんの、家賃よ家賃。せいぜいそのぐらいもらわないとやってらんないわよぉ。まだ小さかったあんたをここまで育てたのは誰だと思ってんの?」
カチ、という音と、嗅ぎ慣れてしまった煙の匂い。
それが流れれば、ほとんど反射的に俺の体は固まってしまった。
「まだわかってないんだ?ほら腕だしな」
「や、やめ」
「出しなっつってんだよ」
何をされるかは想像がつく。幼いころから何度も同じ場所に繰り返されたそれは、跡が消えることはない。
「それともぉ、体で返すぅ?」
甘ったるい声。一度だって、頷いたことなんかないのに。この女は、自分の気まぐれで俺の上に乗っかってきた。
やめろ、と言いたい口が動かない。煙草の熱が、ゆっくり近づいてきて。
その時、滅多に鳴ることのないインターホンが来客を告げる。
何度も慣らされるそれに、無視しようとしていた叔母はため息をついて俺から離れた。
「ったく、つまんないわねぇ。あんた出なさいよ」
助かった、と心底思う。来客に心から感謝して、靴を履き直し扉を開けた。
「……あ」
「え?」
気まずそうな、だけど驚いた遥の顔がそこにあって。
彼は素早く俺の後ろへと視線を注ぐと、すっと目を細めた。
「な、んで」
「ジャケット、忘れてったろ……」
俺はといえば、目も合わせられず。家の中を見られたことが恥ずかしくて、変な相槌しかうてない。
すると彼は声を潜めて、俺に耳打ちしてきた。
「え、っ」
「お前が嫌なら強制はしない。どうする?」
迷った俺に、にこりと微笑む。それから、俺は下で待ってるから、と小さく囁いた。
ぱたん、と扉が閉じる。渡された制服のジャケットと、部屋の中と。忙しなく視線を動かした俺に、叔母はもう関心がなくなったようだった。
「あたし寝るから」
そう言い放って、自室へと引っ込んでいく。安堵の息を吐いて、履き直した靴をまたもそっと脱ぐと、足音を殺して自分の部屋へと戻った。
大事なものなんて、そんなに多くない。財布と携帯、それから写真、あとは原付の鍵。それらを、綺麗な教科書と一緒に鞄へ詰め込んでから外へ出る。
制服のジャケットを羽織って階段を下りると、宣言通り彼はそこにいた。
「……原付、取ってくる」
「エンジンはかけるなよ。転がしてこい」
じっと、俺の出てきた部屋を見上げながら言われて。ああ、と頷く。
言われた通り、エンジンは付けずに原付を引いて、行くぞと先を歩く背中を追った。
しばらく歩いて着いたのは、そこそこ大きなマンションの前で。
「原付はそっち置けるから。置いたらこっち戻ってこいよ」
「……ああ」
頷いて、これも言われた通りにする。
それから、促されるままに中に入った。慣れた様子でエレベーターを呼ぶ指先を見つめ、待っている間にぽつりとつぶやく。
「……その、昨日は……本当に、悪かった」
「いまその話しなくてもいいだろ?!お前、なんていうか……ほんと、わかんねぇやつだな」
電子音がして、エレベーターが開いて。乗れよ、と遥は言った。
エレベーターの表示が5を指し止まる。二人で下りて、廊下の先で鍵を開けるのを見守った。
「遠慮すんなよ、散らかってっけど」
「うちよりマシだ」
やっとそんなことを言う余裕が出てくる。遥が小さく笑ってくれて、少しだけほっとした。
座ってろよ、と案内されたソファーに大人しく腰を下す。何かをしている音がした後に、着替えてくるわ、という声が聞こえた。
そのうちに、コーヒーメーカーが出来上がりを告げる。合わせたように、着替え終わったらしい遥が戻ってきてマグカップにそれを注いだ。
「砂糖とかミルクとかいる?」
「いや、大丈夫……そのまま、もらう」
とん、と目の前のテーブルに置かれたそれを手に取って、一口飲み込む。温かさが腹から全身に伝わるような気がした。
「なあ、なんで……」
「見りゃわかるよ。俺だって一応、教師の端くれなんだからな」
俺が何を聞こうとしたのかも察して。すぐ横に座った遥は、柔らかく笑う。
「……ありが、とう……先生」
「んだよ調子狂うな。俺とお前しかいねぇんだから、いいよいつも通りで」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、目の縁に涙が浮いた。気づかれたくなくて、だけどたぶん気づかれていて。
震える手でマグカップをテーブルに戻し、その平たい胸に抱きついた。
驚きの気配は一瞬で、すぐに仕方ないなというように回された両腕が背中を撫でる。
「いつからなんだ?」
「……俺の、両親が死んで……あの人に、引き取られたのが、小三のとき、だった」
「それから、ずっと?」
小さく頷いた。そして体を離し、Yシャツの袖を捲る。
肘と二の腕の内側に、上書きされた新しい火傷の跡。丸いそれは、三日前につけられたやつだ。
「……しんどいよなぁ、そりゃ。ごめんな、わざわざ人に見せてぇもんでもねぇだろ」
「……呆れねーの?」
ぼそ、と声が零れた。何に、と首を傾げる遥を、涙の膜越しに見つめる。
「男のくせに、とか。俺のほうが身長もあるんだし、力づくで逃げられるだろ、とか」
「言うのは簡単だけどさぁ、現実問題んな単純じゃねぇだろ」
温かい手のひらが、俺の頬に触れた。
「情けねぇなんて、これっぽっちも思わねぇよ。言いたいやつには言わせとけ」
「……あんたが言うと、説得力があるな」
「慰めてやってんのにかわいくねぇなぁ」
ぐい、とそのまま頬を引っ張られる。痛いとぼやけば笑い声が聞こえた。
「……一回、逃げたことがあるんだ。中学三年の時だった」
「……皆川?」
「家出、して。街をうろついてたら、声かけられて。馬鹿だったから付いてって、そんで」
思い出すと吐きそうになる。
本来、愛おしいものであるはずの柔らかな裸体は、俺にとってトラウマでしかなかった。
「……結局、全部駄目でさ」
「何があったのかは、察しがつくから。無理に喋んなよ……大丈夫だから」
「……ん」
ソファーの上に、遥を押し倒したみたいな形になって。その上から、ぎゅう、と強く抱きしめる。本当に変な奴だな、という声が耳元でした。
「なんで俺なんか、って思ったけどそういう経緯なら仕方ねぇか」
「なんで俺なんか、ってどういう意味だよ」
「言ったじゃん。お前かっこいいし、普通に彼女ぐらいいんだろって」
顔を上げられなくて、さらに腕に力を込めた。
「苦しいっつの。まぁ、そう思ったってだけだって」
「……あの、さ」
強くした腕を解き、体を起こす。
たぶん俺の言いたいことはわかっていて、だけどそれを俺の口から言わせようとしているのもわかる。よいしょ、と起き上がって座りなおすのを待って、息を吸い込んだ。
「しばらく、ここに……いさせて、くれないか」
「……いいよ。ただし、条件があります」
ふふ、と悪戯っぽく笑って指を立てる。
「ひとつ。ちゃんと、学校に行くこと。ひとつ、卒業後どうするのか自分で決めること。進学でも就職でもいいから」
「……わかった」
指が増えていくのを、じっと見つめて次を待った。
「ひとつ、家賃としてバイト代の一割入れること。ひとつ、家事もすること。最低限でいいよ」
「最低限って?」
「自分の使った物は片づけるとか、汚れてると思ったら掃除するとか、そういうことだよ。あ、飯は作ってやるから心配すんな」
「……お前、掃除苦手だろ」
図星なのか、ぴくりと立てた指が震えた。
「俺のことはいいの!最後!」
「なんだよ」
「……昨日みたいなことは、すんな」
「了解」
あっさりと返すと、本当だろうな、と睨み付けてくる。当たり前だ。
「さすがに恩を仇で返すようなことしねえ、けど……」
「けど?」
「……ガキ、みたい、なんだけど。今日だけでいいから、一緒に、寝させて」
我ながら、子供っぽいとは思う。思うけれど、とにかく遥の体温に触れていたかった。
そんな風に思うのは初めてのことで。お願い、と俯いてつぶやく。
しばらくのあと、いいよ、という声と共に息を吐く音がして。
「今日はゆっくりしとけ。俺はこれからもっかい学校に行ってくるから」
「……うん」
「なんか食いたいもん、あるか?」
問われて考えた。だけどすぐには出てこない。
「いつも……バイト先のまかないか、コンビニ飯しか食ってねェから……」
「……ったく。わかった、なんかテキトーに作ってやる。好き嫌いねぇよな?」
「チーズ、とか、乳製品はちょっと苦手」
にこ、と笑って。
わかったよ、と言った遥を、玄関まで見送る。家主がいなくなってしまえば部屋の中はしん、と静まり返ってしまった。
「……ゆっくり、って言われてもな……」
リビングに戻り、雑然としたそこを見回す。なかなかに散らかっていて、やっぱり掃除は苦手なんだろうな、と感じた。
ただいま、という声に顔を上げる。
ソファーでうたたねしていたことに気づき、目を擦ってから、おかえり、と返した。
「……すげぇ片付いてる」
「トレカありすぎだろ。どんだけ集めてんだよ」
「数少ない趣味なんだってば」
「こっちの棚に種類別に納めといた。場所入れ替えるなら言って」
「……すげぇ」
掃除というか、片付けというか、整理整頓というか。そういうのが苦手らしく、カードゲーム用のカードがまぁ色んなところから出てくる出てくる。
それらを種類別に分け、それぞれラベリングした箱に入れ、棚に収納し、やっと見えた床に掃除機をかけ、ウェットシートで拭き取った。
それからキッチン周り。料理を日頃からしているのがよくわかるけれど、食器だの鍋だのが洗い残してあったのでその辺も全部綺麗にし、ついでだからとゴトクも洗っておいた。
「汚れる前にやんだよ普通。だいたいここのキッチン、これ取れば全部水拭きできんじゃねーか」
「……いやこれ俺金払うわ。ハウスキーパーやって」
「なんでだよ」
笑いながら、買い物してきたんだろう荷物をキッチンに置く。
「なんか、手伝う?」
「ん、じゃこっちきて」
「何作んの」
「麻婆豆腐です。子供にはハンバーグとかの方がいいかなとも思ったけど俺が食いたいのにした」
「……子供扱いすんなよ」
「一緒に寝たいなんて、泣きそうな顔して言うのは子供じゃねぇの?」
揶揄われながら、遥が夕飯を作るのを手伝って。いい匂いのする食事を並べて、二人で食べた。
「ん、美味い」
「そう?よかった」
「今日バイト休みで良かった」
「別にいつだって作ってやるよ」
笑いながら言い合って、皿を空にしていく。
人が作ってくれたものを食べるのもさることながら、こんなふうに誰かと笑い合って食事らしい食事をとることが、ずいぶん久しぶりに感じた。
洗い物は俺がやるよと言って、食器を片付ける。その間に、遥が何やら袋を持ってきた。
「これ、お前の着替えな。一応新品」
「あー……そっか、悪い。バイト代入ったら払うわ」
「別にいいって。一割の中に入れとくから」
そうは言っても、と眉をしかめる。ほんと変なやつだなと何度目かになるセリフを吐かれた。
「下着と靴下ぐらいしか買ってねぇからいいんだって」
「……それ、俺はずっと制服で過ごせってことか?」
「俺の服着れば?サイズ大して変わらねぇだろ」
言われて、改めて遥のことを見る。それから、小さくため息をついた。
「上はともかく下は無理だって。んな細くねーわ俺」
「……ガウチョとかどうよ。前に買ってほとんど着てねぇのあるし」
「それよかジャージ的なもんある?寝る時借りたい」
「あ、それならある。出しとくから先風呂どーぞ」
家主が先だろ、と思わなくもなかったが、さっさとクローゼットのある寝室へと行ってしまうものだから、大人しく従って浴室へ向かった。
タオルはその辺のテキトーに使って、という声だけが聞こえて、わかったと返す。
頭から熱い湯を浴びていると、自分が今ここにいることがとてつもなく不思議なことのように思えた。
「……サンキュ」
「お、大丈夫そうじゃん。取っといてよかった」
「このジャージ、遥の?運動とかすんだ、意外」
「失礼なやつだな。俺わりと体動かすし、運動神経だっていいんだぞ」
シャワーから出たところに置いてあった、ジャージとTシャツを着て、リビングに戻る。
ソファーの上で振り返って言う遥のその表情に、不思議なものを感じて首を傾げた。
「お前なんか変じゃね?」
「っ、あ、うー……やっぱ、変?わかる?」
両手を頬に当て、眉を八の字にして。
ちら、と俺を伺い見る姿見つめ返す。
「……実は、ちょっと、その……浮かれて、る」
「なんで」
冷蔵庫を勝手に開けて、中から水のペットボトルをもらって一口飲んだ。
そのまま遥の隣に腰を下ろすと、あう、と小さくこぼす。
「その……え、っと……この家、に、誰かいるの、はじめて……だから」
「……は?」
「ただいま、って言ったらおかえり、って、言ってくれたりとか。一緒、に飯、作んのとか……そういうのも、はじめて、だから……ちょっと、浮かれてた、ごめん」
別に謝られることなんか何もない。
だけど遥は、眉尻を下げたまま、ごめんな、と繰り返した。
「……その、お前が……ここにいるのは、その……お前に取ってよくない、ことが、前提としてあるから、なのに」
「遥が気にすることじゃねーよ。俺は本気で助かったと思ってんだから」
これは本音だ。
ほんとに、と呟くように言って。ああ、と返せば嬉しそうに笑う。
目が合って、不意に沈黙が落ちて。俺たちの間に漂う空気は、たぶん、ただの生徒と教師のそれではない。
「っ、え、っと、俺も……シャワー行ってくる、な。そんで、早く寝よ。疲れただろ?」
「……あ、ああ」
それを振り払うように、遥が立ち上がって、浴室へと逃げ込んだ。
俺はその姿を見送って、ソファーの背もたれに頭を預け深いため息をつく。
あんな条件、飲むんじゃなかった。そう考えるのと同時に、昨日美術室で遥が言っていたことがよぎる。
「……そんなもんじゃねーよ」
友愛、尊敬、それからなんだ?話を聞いてくれて、助けてくれる存在故の、勘違い?
今俺が、抱いたこの気持ちも。あいつは勘違いだと笑うのだろうか。
「上等だ」
俺の想いは、俺だけのものだ。
勘違いなんて、言わせるものか。
「ん、っ……う、ぅ、っ」
舌に鋭い痛みが走って、噛まれたのだと気づいた。
「嫌だ、っつって、んだろ?!」
「知るか」
逃げようとする体を掴んで引き倒し、はだけていたシャツを乱暴に脱がせる。
じたばたと暴れる細い足を掴んで、お返しにそのふくらはぎを噛んだ。
「っ、い、って……」
「おとなしくしろよ。さっきの奴にはヤらせるつもりだったんだろ?」
「違う、って言ってんだろうが!このくそガキ!」
足も腕も腹も、どこもかしこも細いくせに筋力は意外とあるらしい。なんとか逃げ出そうとしているのがわかって、今度は太ももに噛みついた。
「っ!だ、から……っ、いて、ぇっつってんだろ!」
「暴れるからだろ。大人しくしてりゃ噛まねえよ」
「さっきっから大人しくってうるせぇな!黙ってヤられてろってことかよ!」
「そうだよ」
誰が逃がすか、と持っていた足を開かせる。何も着ていないその体の中心で、力なく萎えたそれが揺れた。
やめろ、という顔は赤く染まっている。もともとの色が白いせいで、赤くなった肌はひどく扇情的だ。
「な、ほら、わかんだろ?お前とおんなじもんついてんだって。男なの」
「知ってる」
「だったら、その手、離せって。お前ぐらいイケメンだったら、女の子の方から寄ってくんだろ?俺なんかやめとけよ、な」
焦っているのか、いつもより早口だ。ふ、と笑って、萎えたままのそこに触れる。
「っ、あ!」
「ああ、本当だな。ちゃんと反応すんじゃん」
「や、やめ、なに、ほんと、やめ」
手を動かす俺を、怯えと戸惑いが混ざった目が見てきた。
その二色しかなかった目が、手の動きを強くすれば、明らかな快楽を乗せて潤む。
「っ、や、あ、ぁあっ」
「なんだよ、その声……腰にくる」
「し、らな、はなせ、ってば、やめ、やめろ、って」
必死に頭を横に振り、震える手で俺の腕を引っ掻いて止めようとするけれど、それが逆に煽ってくるのを、本人は解っていないんだろうか。
そんなことを考えながら手をさらに速めれば、びくんと大きく震えて白濁を吐き出した。
「……早くね?」
「う、るっ、さ……おま、ほんと……最低」
「ったく、かわいくねーな」
悪態ばかりついて出る口を軽く舐める。かわいくない、と言いながら、ぴく、と反応する体は反対にかわいらしく思えた。
どろりとしたそれを指に絡め、開いた足の間へと伸ばす。
「っ、ひ?!やだ、やだやだやだ、やめ、やめろ、って、ほんと、やだ、っ」
「……そんなに、俺に抱かれんのは嫌なのかよ」
「やめ、や……っ、いた、いたい、やだぁっ」
指を進めようとすれば、びくりと跳ねて。だけど、それは快感によるものではないのが、その表情ではっきりとわかった。
赤くなっていた顔は青ざめ、痛みと恐怖にかぼろぼろと涙をこぼして。いやだ、とか細く言いながら、首を横に振る。
無理矢理押し込んだ指を引き抜けば、わずかではあるものの鮮血が伝った。
頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われ、一瞬で冷静になる。
「っ、あ……悪、ぃ……んな、つもり、じゃ……」
「っ、あ……う」
子供みたいに泣く遥に、どうしていいかわからなくなって。
ごめん、と何度も何度も繰り返し、着ていた制服のジャケットをそっとかけてやった。
それ以上、そこにいられなくて。最低だとは自覚しながらも、立ち上がる。
「……本当に、悪い……」
そして、情けなくもその場から逃げ出した。
夜が明ける。
結局、何をどうしていいのかもわからずバイトに行って、上の空で仕事をこなし、自宅に帰ってきて。
煎餅みたいな布団に横になったまま、眠れず朝を迎えようとしていた。
昨日まで、あの笑顔がずっと脳裏に焼き付いて離れなかったのに。今は、青ざめてぼろぼろと泣いていた姿しか思い出せない。
「……どの面下げて会えるっつんーんだ……」
独り言は、オレンジ色に染まり始めた空に溶けて消えた。
どれぐらい、そうしていたんだろう。気づいたらもう、すっかり空は明るくて。
ざわざわとした外の空気に、それを肌で感じる。まずい、と感じ慌てて立ち上がった。
外の階段を上がってくる足音が聞こえる。玄関で靴を履こうとしていると、扉が開いた。間に合わなかった、と歯噛みする。
「なぁに、あんたまだいたのぉ?」
酒臭い。だけど今日はずいぶん上機嫌なようだ。
少しだけ安堵して、言い訳を口にする。
「……今日は、午後からなんで」
「ふぅん、ま、どうでもいいけどぉ。学校なんてやめちゃえばいいのに」
また始まった。派手な髪と化粧をしたその人は、俺の脇をすり抜けて家の中に入る。
「あんた、兄さんに似て顔はいいんだしぃ。うちの店で働けばぁ?」
「……何度も、言ってるじゃないですか。まだ俺、未成年ですよ」
「そんなのいくらでも誤魔化せるってぇ……あ、そうだ」
鏡に向かい、化粧を落とし始めながら。俺の父親の妹――叔母は、なんでもないことのように言った。
「引き出しのお金、借りたから。そのうち返すわ」
「はあ?!」
「なんか文句あんの?」
文句も何も、その金は俺の稼いだアルバイト代だ。さすがに激昂し、一度は履いた靴を脱いで部屋に戻る。
「こっちはさぁ、独身で結婚もしたことないってのに兄さんの忘れ形見だからってあんたのこと養ってやってんのよぉ?」
「……だからって人の働いた金取っていいわけないだろ」
「なに言ってんの、家賃よ家賃。せいぜいそのぐらいもらわないとやってらんないわよぉ。まだ小さかったあんたをここまで育てたのは誰だと思ってんの?」
カチ、という音と、嗅ぎ慣れてしまった煙の匂い。
それが流れれば、ほとんど反射的に俺の体は固まってしまった。
「まだわかってないんだ?ほら腕だしな」
「や、やめ」
「出しなっつってんだよ」
何をされるかは想像がつく。幼いころから何度も同じ場所に繰り返されたそれは、跡が消えることはない。
「それともぉ、体で返すぅ?」
甘ったるい声。一度だって、頷いたことなんかないのに。この女は、自分の気まぐれで俺の上に乗っかってきた。
やめろ、と言いたい口が動かない。煙草の熱が、ゆっくり近づいてきて。
その時、滅多に鳴ることのないインターホンが来客を告げる。
何度も慣らされるそれに、無視しようとしていた叔母はため息をついて俺から離れた。
「ったく、つまんないわねぇ。あんた出なさいよ」
助かった、と心底思う。来客に心から感謝して、靴を履き直し扉を開けた。
「……あ」
「え?」
気まずそうな、だけど驚いた遥の顔がそこにあって。
彼は素早く俺の後ろへと視線を注ぐと、すっと目を細めた。
「な、んで」
「ジャケット、忘れてったろ……」
俺はといえば、目も合わせられず。家の中を見られたことが恥ずかしくて、変な相槌しかうてない。
すると彼は声を潜めて、俺に耳打ちしてきた。
「え、っ」
「お前が嫌なら強制はしない。どうする?」
迷った俺に、にこりと微笑む。それから、俺は下で待ってるから、と小さく囁いた。
ぱたん、と扉が閉じる。渡された制服のジャケットと、部屋の中と。忙しなく視線を動かした俺に、叔母はもう関心がなくなったようだった。
「あたし寝るから」
そう言い放って、自室へと引っ込んでいく。安堵の息を吐いて、履き直した靴をまたもそっと脱ぐと、足音を殺して自分の部屋へと戻った。
大事なものなんて、そんなに多くない。財布と携帯、それから写真、あとは原付の鍵。それらを、綺麗な教科書と一緒に鞄へ詰め込んでから外へ出る。
制服のジャケットを羽織って階段を下りると、宣言通り彼はそこにいた。
「……原付、取ってくる」
「エンジンはかけるなよ。転がしてこい」
じっと、俺の出てきた部屋を見上げながら言われて。ああ、と頷く。
言われた通り、エンジンは付けずに原付を引いて、行くぞと先を歩く背中を追った。
しばらく歩いて着いたのは、そこそこ大きなマンションの前で。
「原付はそっち置けるから。置いたらこっち戻ってこいよ」
「……ああ」
頷いて、これも言われた通りにする。
それから、促されるままに中に入った。慣れた様子でエレベーターを呼ぶ指先を見つめ、待っている間にぽつりとつぶやく。
「……その、昨日は……本当に、悪かった」
「いまその話しなくてもいいだろ?!お前、なんていうか……ほんと、わかんねぇやつだな」
電子音がして、エレベーターが開いて。乗れよ、と遥は言った。
エレベーターの表示が5を指し止まる。二人で下りて、廊下の先で鍵を開けるのを見守った。
「遠慮すんなよ、散らかってっけど」
「うちよりマシだ」
やっとそんなことを言う余裕が出てくる。遥が小さく笑ってくれて、少しだけほっとした。
座ってろよ、と案内されたソファーに大人しく腰を下す。何かをしている音がした後に、着替えてくるわ、という声が聞こえた。
そのうちに、コーヒーメーカーが出来上がりを告げる。合わせたように、着替え終わったらしい遥が戻ってきてマグカップにそれを注いだ。
「砂糖とかミルクとかいる?」
「いや、大丈夫……そのまま、もらう」
とん、と目の前のテーブルに置かれたそれを手に取って、一口飲み込む。温かさが腹から全身に伝わるような気がした。
「なあ、なんで……」
「見りゃわかるよ。俺だって一応、教師の端くれなんだからな」
俺が何を聞こうとしたのかも察して。すぐ横に座った遥は、柔らかく笑う。
「……ありが、とう……先生」
「んだよ調子狂うな。俺とお前しかいねぇんだから、いいよいつも通りで」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、目の縁に涙が浮いた。気づかれたくなくて、だけどたぶん気づかれていて。
震える手でマグカップをテーブルに戻し、その平たい胸に抱きついた。
驚きの気配は一瞬で、すぐに仕方ないなというように回された両腕が背中を撫でる。
「いつからなんだ?」
「……俺の、両親が死んで……あの人に、引き取られたのが、小三のとき、だった」
「それから、ずっと?」
小さく頷いた。そして体を離し、Yシャツの袖を捲る。
肘と二の腕の内側に、上書きされた新しい火傷の跡。丸いそれは、三日前につけられたやつだ。
「……しんどいよなぁ、そりゃ。ごめんな、わざわざ人に見せてぇもんでもねぇだろ」
「……呆れねーの?」
ぼそ、と声が零れた。何に、と首を傾げる遥を、涙の膜越しに見つめる。
「男のくせに、とか。俺のほうが身長もあるんだし、力づくで逃げられるだろ、とか」
「言うのは簡単だけどさぁ、現実問題んな単純じゃねぇだろ」
温かい手のひらが、俺の頬に触れた。
「情けねぇなんて、これっぽっちも思わねぇよ。言いたいやつには言わせとけ」
「……あんたが言うと、説得力があるな」
「慰めてやってんのにかわいくねぇなぁ」
ぐい、とそのまま頬を引っ張られる。痛いとぼやけば笑い声が聞こえた。
「……一回、逃げたことがあるんだ。中学三年の時だった」
「……皆川?」
「家出、して。街をうろついてたら、声かけられて。馬鹿だったから付いてって、そんで」
思い出すと吐きそうになる。
本来、愛おしいものであるはずの柔らかな裸体は、俺にとってトラウマでしかなかった。
「……結局、全部駄目でさ」
「何があったのかは、察しがつくから。無理に喋んなよ……大丈夫だから」
「……ん」
ソファーの上に、遥を押し倒したみたいな形になって。その上から、ぎゅう、と強く抱きしめる。本当に変な奴だな、という声が耳元でした。
「なんで俺なんか、って思ったけどそういう経緯なら仕方ねぇか」
「なんで俺なんか、ってどういう意味だよ」
「言ったじゃん。お前かっこいいし、普通に彼女ぐらいいんだろって」
顔を上げられなくて、さらに腕に力を込めた。
「苦しいっつの。まぁ、そう思ったってだけだって」
「……あの、さ」
強くした腕を解き、体を起こす。
たぶん俺の言いたいことはわかっていて、だけどそれを俺の口から言わせようとしているのもわかる。よいしょ、と起き上がって座りなおすのを待って、息を吸い込んだ。
「しばらく、ここに……いさせて、くれないか」
「……いいよ。ただし、条件があります」
ふふ、と悪戯っぽく笑って指を立てる。
「ひとつ。ちゃんと、学校に行くこと。ひとつ、卒業後どうするのか自分で決めること。進学でも就職でもいいから」
「……わかった」
指が増えていくのを、じっと見つめて次を待った。
「ひとつ、家賃としてバイト代の一割入れること。ひとつ、家事もすること。最低限でいいよ」
「最低限って?」
「自分の使った物は片づけるとか、汚れてると思ったら掃除するとか、そういうことだよ。あ、飯は作ってやるから心配すんな」
「……お前、掃除苦手だろ」
図星なのか、ぴくりと立てた指が震えた。
「俺のことはいいの!最後!」
「なんだよ」
「……昨日みたいなことは、すんな」
「了解」
あっさりと返すと、本当だろうな、と睨み付けてくる。当たり前だ。
「さすがに恩を仇で返すようなことしねえ、けど……」
「けど?」
「……ガキ、みたい、なんだけど。今日だけでいいから、一緒に、寝させて」
我ながら、子供っぽいとは思う。思うけれど、とにかく遥の体温に触れていたかった。
そんな風に思うのは初めてのことで。お願い、と俯いてつぶやく。
しばらくのあと、いいよ、という声と共に息を吐く音がして。
「今日はゆっくりしとけ。俺はこれからもっかい学校に行ってくるから」
「……うん」
「なんか食いたいもん、あるか?」
問われて考えた。だけどすぐには出てこない。
「いつも……バイト先のまかないか、コンビニ飯しか食ってねェから……」
「……ったく。わかった、なんかテキトーに作ってやる。好き嫌いねぇよな?」
「チーズ、とか、乳製品はちょっと苦手」
にこ、と笑って。
わかったよ、と言った遥を、玄関まで見送る。家主がいなくなってしまえば部屋の中はしん、と静まり返ってしまった。
「……ゆっくり、って言われてもな……」
リビングに戻り、雑然としたそこを見回す。なかなかに散らかっていて、やっぱり掃除は苦手なんだろうな、と感じた。
ただいま、という声に顔を上げる。
ソファーでうたたねしていたことに気づき、目を擦ってから、おかえり、と返した。
「……すげぇ片付いてる」
「トレカありすぎだろ。どんだけ集めてんだよ」
「数少ない趣味なんだってば」
「こっちの棚に種類別に納めといた。場所入れ替えるなら言って」
「……すげぇ」
掃除というか、片付けというか、整理整頓というか。そういうのが苦手らしく、カードゲーム用のカードがまぁ色んなところから出てくる出てくる。
それらを種類別に分け、それぞれラベリングした箱に入れ、棚に収納し、やっと見えた床に掃除機をかけ、ウェットシートで拭き取った。
それからキッチン周り。料理を日頃からしているのがよくわかるけれど、食器だの鍋だのが洗い残してあったのでその辺も全部綺麗にし、ついでだからとゴトクも洗っておいた。
「汚れる前にやんだよ普通。だいたいここのキッチン、これ取れば全部水拭きできんじゃねーか」
「……いやこれ俺金払うわ。ハウスキーパーやって」
「なんでだよ」
笑いながら、買い物してきたんだろう荷物をキッチンに置く。
「なんか、手伝う?」
「ん、じゃこっちきて」
「何作んの」
「麻婆豆腐です。子供にはハンバーグとかの方がいいかなとも思ったけど俺が食いたいのにした」
「……子供扱いすんなよ」
「一緒に寝たいなんて、泣きそうな顔して言うのは子供じゃねぇの?」
揶揄われながら、遥が夕飯を作るのを手伝って。いい匂いのする食事を並べて、二人で食べた。
「ん、美味い」
「そう?よかった」
「今日バイト休みで良かった」
「別にいつだって作ってやるよ」
笑いながら言い合って、皿を空にしていく。
人が作ってくれたものを食べるのもさることながら、こんなふうに誰かと笑い合って食事らしい食事をとることが、ずいぶん久しぶりに感じた。
洗い物は俺がやるよと言って、食器を片付ける。その間に、遥が何やら袋を持ってきた。
「これ、お前の着替えな。一応新品」
「あー……そっか、悪い。バイト代入ったら払うわ」
「別にいいって。一割の中に入れとくから」
そうは言っても、と眉をしかめる。ほんと変なやつだなと何度目かになるセリフを吐かれた。
「下着と靴下ぐらいしか買ってねぇからいいんだって」
「……それ、俺はずっと制服で過ごせってことか?」
「俺の服着れば?サイズ大して変わらねぇだろ」
言われて、改めて遥のことを見る。それから、小さくため息をついた。
「上はともかく下は無理だって。んな細くねーわ俺」
「……ガウチョとかどうよ。前に買ってほとんど着てねぇのあるし」
「それよかジャージ的なもんある?寝る時借りたい」
「あ、それならある。出しとくから先風呂どーぞ」
家主が先だろ、と思わなくもなかったが、さっさとクローゼットのある寝室へと行ってしまうものだから、大人しく従って浴室へ向かった。
タオルはその辺のテキトーに使って、という声だけが聞こえて、わかったと返す。
頭から熱い湯を浴びていると、自分が今ここにいることがとてつもなく不思議なことのように思えた。
「……サンキュ」
「お、大丈夫そうじゃん。取っといてよかった」
「このジャージ、遥の?運動とかすんだ、意外」
「失礼なやつだな。俺わりと体動かすし、運動神経だっていいんだぞ」
シャワーから出たところに置いてあった、ジャージとTシャツを着て、リビングに戻る。
ソファーの上で振り返って言う遥のその表情に、不思議なものを感じて首を傾げた。
「お前なんか変じゃね?」
「っ、あ、うー……やっぱ、変?わかる?」
両手を頬に当て、眉を八の字にして。
ちら、と俺を伺い見る姿見つめ返す。
「……実は、ちょっと、その……浮かれて、る」
「なんで」
冷蔵庫を勝手に開けて、中から水のペットボトルをもらって一口飲んだ。
そのまま遥の隣に腰を下ろすと、あう、と小さくこぼす。
「その……え、っと……この家、に、誰かいるの、はじめて……だから」
「……は?」
「ただいま、って言ったらおかえり、って、言ってくれたりとか。一緒、に飯、作んのとか……そういうのも、はじめて、だから……ちょっと、浮かれてた、ごめん」
別に謝られることなんか何もない。
だけど遥は、眉尻を下げたまま、ごめんな、と繰り返した。
「……その、お前が……ここにいるのは、その……お前に取ってよくない、ことが、前提としてあるから、なのに」
「遥が気にすることじゃねーよ。俺は本気で助かったと思ってんだから」
これは本音だ。
ほんとに、と呟くように言って。ああ、と返せば嬉しそうに笑う。
目が合って、不意に沈黙が落ちて。俺たちの間に漂う空気は、たぶん、ただの生徒と教師のそれではない。
「っ、え、っと、俺も……シャワー行ってくる、な。そんで、早く寝よ。疲れただろ?」
「……あ、ああ」
それを振り払うように、遥が立ち上がって、浴室へと逃げ込んだ。
俺はその姿を見送って、ソファーの背もたれに頭を預け深いため息をつく。
あんな条件、飲むんじゃなかった。そう考えるのと同時に、昨日美術室で遥が言っていたことがよぎる。
「……そんなもんじゃねーよ」
友愛、尊敬、それからなんだ?話を聞いてくれて、助けてくれる存在故の、勘違い?
今俺が、抱いたこの気持ちも。あいつは勘違いだと笑うのだろうか。
「上等だ」
俺の想いは、俺だけのものだ。
勘違いなんて、言わせるものか。
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