いつかのさよならを探して

あきら

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1 まどろみ

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 とろとろとまどろむ。意識が完全に浮上することはなくて、ぬるま湯にぼんやりと浸かっているような感覚がずっと続いていた。
 それを望んだのは自分で。二度と目覚めないよう自らに呪いをかけて、もう何年が経ったんだろう。何年、どころじゃないのかもしれない。
 誰も訪れることのない、森の奥。小さな家の小さな部屋で、いつか朽ちていくことを夢見続けていた。
 なぜそれを望んだのか、そうしなければならない理由があったのか、きっとあったはずのその記憶はすでになく。ただただ、まどろみを感受する日々が続いている。


 頭の中に流れていくのは、いつかの記憶。幸せだったような何か。本当に幸せだったのかは、自分にもよくわからない。そんなような気がする、それだけだ。
 閉じたままの瞳から、水滴が流れて伝う。
 誰にも拭われることのないそれは、冷たく落ちて消えた。

 意識がまた、沈んでいく。
 沸いては消える、不鮮明な記憶よりも。何もない、何も感じない、深い昏睡に陥っている時の方が幸せだとすら感じた。



 どれだけの時間が過ぎたかわからない。
 わからない中、俺の意識は突然引き摺り出される。

「っ」

 目の前にあったのは、今にも泣き出しそうな男の顔で。俺は俺が何を見ているのか理解できずに、瞬きを繰り返す。
 つり上がった眉に、緩やかに垂れた目。高い鼻も薄い唇も、嫌味なほど綺麗に整って配置されていた。
 思わず見惚れていたのだと思う。呆然としている間に、男の指が俺の頬に触れた。ぐい、と少し強く擦られて眉を顰める。
 誰だ、と言おうとした声は出なかった。

「……や、っと……見つけ、た」

 男のそんな言葉に疑問を挟むこともできず、じろりと睨みつける。
 だけれど、そんな俺を見ると男はやけに嬉しそうに微笑んで、そのままどさりと倒れこんだ。
 反射的に両腕を伸ばす。多少軋むが、思ったよりは動いてくれた。

「……っ、な……」

 指先から手のひらに伝わる、どろりとした感触。同時に鼻腔を刺激する、鉄にも似た匂い。
 どくん、と止まっていたはずの心臓が音を立てた。
 
 飲みたい。

 どうしようもない衝動。本能と呼ぶことすら生温い、それ以上の抗えないものに突き動かされる。
 震える手を見た。飛び込んでくる赤に、知れず口角が上がる。
 頭の片隅で冷静な俺が止めに入るけれど、そんなもの何の役にも立ってはくれなかった。

 赤く濡れた手を口元へと持っていく。まるで極上のデザートのような、甘くて魅惑的なそれを、舌先で舐め取った。
 背中をぞくぞくとしたものが這い上がっていく。気づけば夢中で、両手についたそれを喉へと流し込んでいた。
 腹の中が熱くなる。長らく動かしていなかった体の、その頭の先から爪先まで、まさにたった今命が吹き込まれたように脈動を始めた。
 俺の両手から赤が消えたころに、覆い被さったままだった男が動いた。体を起こそうとして、どこか痛むのか眉を顰める。

「……寝てな」
「な、っ……」

 頭をぐしゃと撫でてやって、男の両腕から抜け出した。見れば、背中を負傷しているようだ。
 
「一飯の恩義くらい、返してやるよ」

 笑って言って、立ち上がる。
 それとほぼ同時に、何かが小さな家の屋根を轟音と共にぶち破った。

「人んち、ぶっ壊しやがって」

 呻き声が聞こえる。
 人の形をしていない。ぶよぶよとした、ゼリー状の生き物だ。それはどこにあるのかわからない口で、叫び声だけを上げていた。

「雑魚じゃん。なにお前、こんなのにやられたの?」
「っ……そいつ、は、変化型、だ……っ」

 なるほど、と頷く。
 人型から、一定のダメージを受けて不定形へと姿を変えたのだろう。普通に考えれば、不定形のほうが弱くて人型のほうが強いが、変化型はそれに当てはまらないことが多い。
 人型を倒したと思ったところで、不定形に変化した相手に重い一撃を貰ったのだろうか、と考えた。

「まぁ、どっちにしても俺の敵じゃねぇけど」

 笑って、それを蹴り飛ばす。
 思ったよりも重量はあったが、大した問題でもない。壁にでかい穴を空けて、それは転がった。家はもう家とも呼べない有様になっていたが、この際仕方がない。
 ひらりと飛び上がり、木を利用して上に乗る。ぐにょん、と形を変えようとするそれを、無造作に片腕で貫いた。
 派手な水音が響く。少し考えて腕を引き抜くと、記憶の欠片を引っ張り出した。確かすぐ近くに川があったはずだ。

「ほら、こっちだこっち。そう、いい子だな」

 ほとんど水のようになったそれは、形を変えながら俺を追ってくる。あとは誘導してやって、川の中に突き落とせばお終いだ。
 俺の思惑通り付いてきた、地面で力なく蠢くそれを掴んで。

「それじゃ、またそのうちな」

 その言葉の意味を、それが理解できたかどうかはわからない。
 ひょいと川に投げ入れれば、ばしゃんと水柱が上がる。それを確認して、家だった場所へと戻った。
 背中に大きな傷を負い、ぐったりと体を投げ出した男に近づく。

「おーい。大丈夫かよ」

 つん、と指先で突いて声をかけてみた。一瞬動いたような気がしたが、顔を上げる気配はない。
 死んだのかと首を傾げる。だけれども、その背中は荒いながらも上下していた。




 ベッドの上がもぞもぞと動いて、がばりと起き上がる。いってぇ、という声が続けてした。

「おう、起きた?」
「……は?」

 読んでいた新聞から顔を上げて声をかけると、驚きに満ちた目が俺を見る。長い睫毛に縁取られた大きなその目は、ただ驚いているだけではなく、まるで信じられないものを見るかのようた。

「っ、て」
「馬鹿じゃねぇの、んな急に動くからだろ。けっこう深く抉られてたぞ」
「……お前が、助けてくれたわけ?」

 そうだよ、と答えると首を捻る。
 それから何か言おうとして止めるから、ばさりと新聞をテーブルに置いた。
 ほら、と水のペットボトルを渡してやる。

「開けてやろうか」
「……いや、いい。できる」

 背中が痛むだろうと思って言った言葉に、微妙な間。けれどそれは事実のようで、実際何の苦もなく蓋を開けて。
 一気に半分ほどを空にして、彼は大きく息を吐いた。

「で、お前どこの奴?」
「……東京」

 不機嫌そうに答える。
 一応は助けてやったのに、そんな顔をされる理由もわからない。だから、近づいて頬を軽くつねってやった。

「なんなのその態度。一応、俺はお前を助けてやったんだけど?」
「頼んでない」
「ふぅん。あのまんま、のたれ死んでたほうが良かったって?」

 揶揄うように言うと眉を寄せて。ぱっと離した手首をすかさず掴まれる。
 
「なんだよ」
「……覚えて、ない、のか?」
「なにを」

 自慢じゃないが、俺の記憶力なんかほぼマイナスだ。無意識に、目線がテーブルの上に動いた。
 そこに乗った新聞は、2020年の6月。俺の、その頼りない記憶の最後は確かーー

「っ」

 ずき、と頭が痛む。
 空いている手でこめかみを押さえた。思い出そうとすればするほど、それはひどくなる。
 
「お、おい、大丈夫か?」

 心配そうな声。聞いたことがあるような気がして、だけどそれも、考えようとすると痛みが増した。
 その場に膝をついて、掴まれたままの手首を見る。ゆっくり目を動かして、その先に視線を送って。
 
「……な、なあ」

 凛々しい眉が下がって、どこか心細そうな目。整った顔が、確かに歪んでいる。
 微かに香る、血の匂いにくらくらした。
 そういえば、俺はこの男の血を飲んだ気がする。

「心配して、くれんの?」
「そりゃ、目の前に具合悪そうな奴がいたら心配ぐらいすんだろ」

 ふ、と口角が上がった。
 もう大丈夫だと軽く頭を振って立ち上がり、手首を解放してくれるよう頼んだ。渋々、といった様子で男の手が離れていく。

「東京っつってたけど、ずいぶん遠くから来たんだなお前」
「……探し物を、してたんだよ。そしたら、この辺で最近吸血の被害があるって話をたまたま聞いて。こっちの方は支部もないから、申請して派遣してってやってたら何日もかかる。それよか俺が行ったほうが早い」
「その志はご立派だけどさぁ、それで死にかけてたら世話ねぇじゃん」

 俺が笑うのに合わせて、男がため息をついてベッドヘッドに寄りかかった。

「傷が大丈夫そうなら、さっさと帰んな」
「……ここは、お前の家なのか?」
「家っつーか、まぁ、別荘?別宅?だな。俺の本当の家はお前らがぶち壊してくれやがったから」
「あっちが本当の家かよ……いや、悪かった、すまない」
「別にいいよ……あぁ、でも俺のこと、黙っててくれんなら悪く思っといて」

 男がゆっくり、視線を動かす。俺の足から、顔へ。まるで舐めるみたいにじっとりと、湿気を含んだ目で。
 
「……それは」
「気づいてんだろ?」

 含まれた湿気には気づかないふりをして、くすりと笑った。すると男は頷いて、何かを考えるように顎に手をやる。
 その仕草に、背筋がぞくりとした。そして、あれは事実なのだと頭を過ぎる。俺は、こいつの、血を飲んだのだ、と。
 一呼吸置いて、静かにベッドへ近づいた。

「ひとつ、条件がある」
「条件?」
「俺に、協力してくれないか?」

 突然の提案に、驚いて男を見る。

「協力、って何を」
「……お前こそ、俺が何なのかわかってるんだろう?」

 今度は俺が頷いた。疑う余地もない。こいつは、クルースニクだ。

 吸血鬼。そんな、フィクションの中にしかいないと思われている化け物は、静かに存在している。
 あるときは人に混ざり。あるときは人と敵対し。普通の人は知らない世界で、共存を続けてきた。
 かつては、問答無用で討伐される側だった吸血鬼と、する側だった人間。その関係は、あるころから変わり始める。
 けして表立ってのことではないが、人間に協力する吸血鬼が出始めたのだ。

 種族で相手を見るのではなく、あくまで対等な個人として関係を持つことができるようになったのは、最近のことだ。
 だが、それはお互いの価値観に大きな変化を与えた。
 結果として、人に害をなす吸血鬼だけが討伐されることになり。例えば、人の理解と協力のもと提供される血液だけで生きていけるような吸血鬼は、彼らと協力関係を築くようになった。
 
 その、吸血鬼と協力し、また討伐する人間を、総称としてクルースニクと呼ぶ。

「……協力、の、意味わかって言ってんのかよ」

 俺の声は、少し震えていて。
 当然、と男は頷いた。そしておもむろに、着ていたシャツのボタンを外し始める。ごく、と俺の喉が鳴った。

「血ぐらいやるよ。動ける程度にしてくれると有難えけど」
「っ、俺は……」

 飲みたくない。飲まない。そう決めたはずだ。
 人の血など、二度と飲むものか、と。
 だけど、それが何故なのかという理由は、考えても出てきてはくれない。それどころか、またずきりと頭が痛む。

「なん、で、俺に協力させたいんだよ……俺は、お前らの」
「敵じゃない」

 はだけた服。程よく鍛えられた胸筋を覗かせながら、俺の手を取った。

「お前が吸血鬼でも、人間を襲ってないことはわかる。それなら、俺たちの敵じゃない」
「なんで、そんな」
「だってお前、ずっと寝てたんだろ。あの小さな家でさ」

 ふわりと笑う。呆れたような、でも優しい顔で。

「今、俺たちの数はどんどん少なくなってるんだ。クルースニクとして、東京の支部にいんのも6人しかいない」
「……それは確かに、少ないけど」
「ついでに、日本全体で考えると30人いるかいないかだ。だから俺がこれだけ西の方で討伐しても、何も言われない」

 あまりのその少なさに、正直驚いた。
 吸血鬼の討伐を生業にするのがクルースニクだが、少なくとも俺の覚えている限りはもっと多かったはずだ。
 まぁ、俺の記憶なんてこれっぽっちも当てにはならないのだけれども。

「俺たち人間は、特殊な道具と訓練を積まなければ吸血鬼と戦えない。でも、吸血鬼同士なら話は別だろ」
「……それも、そうだけど」
「頼む。お前が俺と一緒に行動して、協力してくれんなら、俺はお前のことを他の奴らに絶対漏らさない」

 なんでそんな、と。
 そんな、捨てられる子供のような、不安そうな顔をするのかと。
 聞きたくて、けれども聞いてはいけないことのような気もして。
 逡巡する頭の中を、血の匂いが邪魔をする。

「……知られたく、ないんだろ?たとえそれが、俺たちクルースニクでも」
「脅し、かよ」
「どう取ってもらっても構わない。ほら、契約だ。飲めよ」

 腕を掴まれ、引き寄せられた。ぼすん、と上半身が男の上に乗っかる形になって、また俺の喉は鳴る。
 嫌になるほど、本能に従順すぎる体に、我ながら舌打ちを溢した。


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