それをさだめと呼ぶのなら

あきら

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1 ミスト

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 ふあ、と口から欠伸が零れる。

 大きく伸びをしてからベッドを抜け出し歯を磨いて、確か冷凍庫にまだパンが残っていたなと思い出しつつ顔を洗った。
 着替えるのはいつもの動きやすいジャージとTシャツ。黒に青のラインが入ったそれを身に着けて、家の中で軽い準備運動を済ませる。
 水を飲んで、イヤホンをして。携帯電話に繋いだそれから流れるのは、最近の流行の曲だ。

「よし、行くか」

 独り言もルーティーンのうち。ランニング用の靴を履いて、玄関の扉を開けた。
 マンションから外に出る。日差しはそれほど強くない。夏が終わって、もうすぐ秋の空気が少し冷たさを孕んで頬に当たった。
 綺麗に整えられた街路樹を眺めながら、毎朝日課になっているコースを走る。
 すれ違う人は同じようにジョギングしていたり、犬の散歩をしていたり様々だけれど、だいたいは顔見知りだ。

 軽く会釈をしつつ、道を進む。折り返し地点まで来たところで、不意に花の香りがした。
 少し甘いようなそれは、秋の空気に似つかわしくないように思えて首を傾げる。
 確かこのすぐ近くには公園があったはずだ。そこで何か花が咲いたのだろう、普通に考えれば。
 別にそれがおかしなことでもない。夏から秋にかけて咲く花なんて、当たり前にあるものだ。

 けれど、一度気になってしまえば意識がそちらへと向いてしまう。普段通らない方向へ体を向け、俺は結局その公園へと向かった。
 そこそこ広いその公園には植え込みがいくつもあって、もちろん花をつけているものもあるし、なんなら綺麗に整えられた花壇だってある。

「……ま、そりゃそっか」

 別段変わったところがあるわけでもない。どうせなら一周して帰ろうと思い、植え込みに沿うようにして走った。
 ちょうど入り口と反対側に来たときだ。さっきから香っている花のそれが、一段と強くなった気がした。
 足を止め、ぐるりと視界を回す。だけどそんなことをしているのは俺だけで、漂っている甘い香りには誰も気づいていないのかと不安になった。
 同時に香りの元を知りたくなって、植え込みの中を覗いてみる。俺の想像とは異なり、それはすぐに見つかった。

「――は?」

 ただ、自分が目にしたことが即座には信じられず、妙な声が出る。
 何しろそこで丸まるようにして眠っているのは、野良猫でもなんでもなく、頭から血を流したぼろぼろの人間だったのだから。




「――わかんない」

 俺の家のソファーの上で、そいつはきょとんと首を傾げる。
 頭には真新しい包帯。俺が巻いてやったやつだが、気になるのか指先で軽く弄っていた。
 着ている服も俺の物だ。地面の上に直接横たわっていたこともあって、汚れていた服は泥抜きの後、我が家の洗濯機で回っている。

「何かひとつでも、わかることないのかよ。名前とか、どっからきたのかとか」
「……ごめん、わかんない」

 再度同じことを聞いてみるも、返ってくるのは申し訳なさそうな表情と、同じセリフだ。
 軽く息を吐く。びく、と目の前の体が震えるから、怒っているわけじゃないと軽く手を振った。

 改めて、目の前の姿を観察してみる。
 年はおそらく俺と同じぐらいだろう。身長もほとんど変わらない。体重はたぶん、こいつの方が軽いと思わせるぐらいには細かった。腕も足も、骨と皮しかないみたいに見える。
 鼻筋の通った顔立ちに、切れ長の目。剛毛の俺とは違う、さらさらの猫っ毛が何か話すたびに揺れている。

 公園で倒れていたこいつが目を覚ました瞬間に立ち会ってしまったのが、不幸な偶然と言うほかない。
 いったいなんなんだと思う俺に、彼は、ここはどこだと言ったのだ。

「……俺のお人好し……」

 自虐的なひと言は、幸い耳に届かなかったらしい。
 少し眉を寄せ、困ったような心細そうな表情で、部屋を見回している。

「本当に何もわからないのかよ」
「……ごめん。迷惑だよな」
「そりゃまあ、そう言われりゃそうだけど。俺が迷惑だからっつって追い出したら行く当てあんの?」

 俺の部屋を見回していた視線がぴたりと止まって、床に落ちた。眉が寄って、泣き出しそうに見えて、余計なことを言ってしまったと後悔が押し寄せてくる。

「たぶん……ない」
「帰るとこは」
「ない」

 少しだけ口調が違う気がして、首を傾げた。
 ぎゅ、と握った拳を膝の上に置き、俯いている後頭部を見つめる。顔を上げることはなく、もう一度はっきりと、ない、と繰り返した。

「どっから来た、とかは?」
「……薄ぼんやり、覚えてる気はする。家族とかも、一緒にいたような……でも、なんていうか、違う場所っていうか」
「この周辺に住んでたってわけじゃないってことか」
「ん……はっきりは、わかんないんだけど。けっこう、ずっと、遠く……遠くから、きた、気はする」

 ゆっくり上げた顔が天井を眺めて息を吐く。
 なんかすごく疲れた、とその姿勢のままつぶやくから、多少の躊躇いはありつつも、仕方がないかと腹を決めることにした。

「とりあえず、しばらくならいてもいい」
「ほんと?!」
「ま、俺は自由業みたいなもんだから。もしお前ができるならだけど、家のこととかちょっとやってもらえると助かるって下心つき」
「家のこと、って」

 綺麗じゃん、と薄い唇が言う。

「掃除はまあ、半分趣味だし。どっちかっつーと飯とか洗濯とか」
「あんま期待されても困るんだけど」
「プロばりにやれとは言わないって」

 ぱあ、と明るくなった顔が少し自信なさげに曇るから、苦笑が零れた。
 



 期待されても困る、なんて言ってはいたが。結論から言えば、俺の期待以上ではあった。
 掃除はともかく、頼んだ時間に頼んだ予算で食事を作ってくれること。常に綺麗な服やシーツが用意されること。
 もちろん、都度指示することもあるけれど、それをわかったと快く頷いて引き受けてくれること。
 そんなある種当たり前のことが、俺にとってはありがたい。

「なぁ今日何食いたい?」
「昨日魚だったよな、今日は肉の気分」
「おっけ。そしたら――うん、ハンバーグかミートソースかあとは餃子とかかな」
「挽肉残ってんなさては」
「ばれた」

 話してみれば妙にウマが合って、知り合ってほんの数日しか経っていないのにずっと一緒にいたような気すらしてくる。
 俺はずっと独りだったから、この部屋に誰かがいる日常がくるなんてこと想像もしていなかったけれど、こいつとの生活は悪くなかった。
 炊事洗濯もだけれど、何より。

「――もうすぐ飯か」

 今日の仕事を一区切りつけて、大きく伸びをする。ぎし、と座っている椅子が軋んだ。
 扉の隙間から漂ってくる匂いで、食事の用意が進められていることはわかったが一応時計を確認しておく。
 よし、と独り言をつぶやいて部屋から出た。鼻をくすぐる香ばしい匂いに目を細め、キッチンへと近づいていく。

「お、お疲れ」
「おう。良い匂い」
「もうすぐ焼けるよ」

 結局、挽肉の行方は餃子になったらしい。フライパンの上で皮が焼ける音と匂いに、腹の虫が音を立てた。

「ミスト、なんか手伝う?」
「ん、じゃあ皿お願い」
「飲み物は?」
「餃子と言ったら?」
「ビールだよなやっぱり」

 俺の言葉に、賛成と言いながらけらけらと『ミスト』は笑う。
 何も思い出せなかったこいつが、唯一覚えていた『ミスト』という名前。いったいどこからきた響きなのか、由来はなんなのか、聞いてはみたものの返ってきたのは『なんとなく』という言葉だ。
 それが本当なのか嘘なのかを見抜ける技量は俺にはなく仕方なしに頷いて、彼をミストと呼んでいる。


 食事を終え、食器を洗う。なんとなくこの分担になっているが、別段不満があるわけでもない。
 いや、不満どころか。

「コーヒー淹れる?」
「頼むわ」
「はぁい」

 笑って答えて、いそいそとコーヒーの準備をする姿を眺めた。
 カウンターキッチンの後ろへと回り込み、食器棚からマグカップを取り出す気配を背中に感じる。そして、耳に流れてくるのは小さな歌声だ。
 口ずさむ歌声に、食器を洗う手が止まる。引き寄せられるように、吸い込まれるように、意識がそちらへ向いてしまう。
 一日の中で時折聞こえてくるそれに、俺は夢中だった。

「それ、何の歌?」
「んと、こないだテレビで流れてたやつ」
「タイトルわかる?」
「わかんない。歌う?」
「おう」

 えーと、と思い出す素振りをして。メロディの見当がついたのか、開いた口から聞き覚えのある音楽が溢れ出す。
 食器を洗う音も、水が落ちる音すらも邪魔に感じて。本末転倒と言われればそれまでだが、ぴたりと水道を止めた。
 ワンコーラス歌いきったころに、コーヒーマシンが出来上がりを告げる。
 集中して歌っていたからか、機械的な音に跳ぶようにして驚いた姿がかわいらしく映った。

「び、っくりした」
「集中し過ぎ。コーヒーくれ」
「……人のこと言えないくせに」

 笑って言った俺に唇を尖らせて返し、二つのマグカップにコーヒーを注ぐ。
 俺は俺で、すっかり洗い物をする手が止まっていたのを再開した。
 すべて乾燥機に放り込んでスイッチを押してから、カウンターに置かれた青いマグカップを手に取る。

「この曲かも」
「どれ?」

 コーヒーを飲みながら、携帯で検索した結果を見せる。そのまま曲を流してやると、そうこれ、と笑った。
 テレビから聞こえてきたというその曲は、おそらく何かのCMの曲だ。それを聞いただけで覚えてしまうという、ある種特技と言ってもいいそれに驚いたのも、最初の数回だった。

「覚えた?」
「うん」
「歌ってくれる?」
「……うん」

 フルコーラスを数回流し、こくりと頷く。
 本人は気づいていないようだったけれど、そういう瞬間のミストの表情はひどく真剣で。まるで獲物をしとめるときのような鋭いそれから、目が離せなくなった。
 すう、と息を吸い込む仕草も、力強い声も。癖なのか、その声を表現するように動く手も、揺れる体も。
 何もかもから目が離せなくなっているくせに、それを気のせいだと放り投げた。

「――お粗末様でした」
「さすが」

 心からの賞賛をこめた拍手を送る。これだけは、惜しみない俺の正直な気持ちだ。
 ありがと、と少し上気した顔ではにかむ。本当に歌が、歌うことが好きなんだなと何度だって思った。

「冷たいの飲みたいかも」
「冷蔵庫の中身好きに飲めよ。マグカップ空?洗うから寄越せ」

 自分の分もまとめて流しに持っていき、中を洗う。冷蔵庫が開いて閉まる音がして、数秒のあと背中に体温が触れた。
 どうした、と問いかけてみる。うん、とか、ううん、とか、取り留めのない返事が聞こえた。

「ごめんな。もう二週間?世話になってる」
「もうそんなに経つっけか」
「そうだよ。なのに、何にも思い出せねぇし」

 振り向くことを阻止するように、触れている背中に体重がかけられる。

「……葵は、優しいし」
「んなこともないと思うけど」
「優しいよ。家事だってさ、結局分担して。俺何もしてない」
「してるよ」

 なんだかずいぶんと声音が低く暗い。俺はといえば、そんな声を出して欲しくはなくて。
 好きに歌っているときのように、綺麗な声を聞きたくて、何度か否定を返した。

「歌ってくれる」
「っ、それ、は、俺が好きなだけで」
「それでも、俺はお前の歌が聴けるのが嬉しい」

 ぐす、と鼻をすする音が聞こえた。
 抱きしめて撫でてやりたくなって、どうにか体を反対に向かせられないかと思案する。
 けれど、見るなというように。俺の背中には、さらに力がかけられた。

「重たいよ」

 嘘だ。これっぽっちも、重さなんて感じない。
 見た目が細いこともさることながら、まるで体重なんてないみたいな。時折、こうして俺に寄りかかるミストに、そんなふうに思うことがある。
 まるで、その名の通り霧のようにそのまま掻き消えてしまうんじゃないかと思うほどに。

「あおい?」

 ああ、声がする。こいつはまだ、ここにいる。
 ほっとして息を吐いて、体の位置を入れ替えた。きょとん、とした目が俺を見ている。
 さっきの俺と同じように、どうしたと問いかけてくる唇。目を離せなくなりそうで、横を向き誤魔化した。

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