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9 山羊と水瓶
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何度も何度も、耳元で好きだと囁く。馬鹿みたいに必死で、馬鹿みたいに愛しい。
震える目から涙が落ちて、軽く指先で拭った。そんなわずかな動きにも、ぴくりと跳ねる。
「大丈夫か?」
「う、うん、っ……で、も、えっと、まだ」
「ああ、慣れるまでこのままな。ゆっくり息して」
受け入れてくれたとはいえ、どう考えても苦しいはずだ。はふ、と呼吸を繰り返し、落ち着くのを待った。
頭や頬を撫でたり、軽く唇で啄んでみたり。俺のそんな動きに、安心したように微笑む。
何度となく合わせた唇をもう一度重ね、舌を差し入れれば応えてくれて。ただ、それが嬉しい。
「んっ……」
緩く腰を動かしてみる。最初よりも抵抗はなく、それにミスト自身も小さく頷いた。
「も、だいじょ、ぶ」
「……無理、すんなよ」
「してない……から、動いて」
両足が柔く俺の体に絡んで、強請るように腰が浮く。きゅう、と優しく締め付けてくる内壁をダイレクトに感じてしまって、うっかり果てそうになるのをなんとか堪えた。
まったく、と笑う。そんなとこでまで、俺を虜にしなくったっていいだろうに。
それでも、もう一度いいんだなと確認をしてから、ゆっくりと抽挿を始めた。
「っ、ん、ぅ、はぁ、あ」
口を塞ごうと手を持っていくから、その手首を掴んで止めさせる。
「や、な、なに、っ」
「声、聞きたい。言ったじゃん、ちゃんと聞かせろって」
ぶわ、とミストの顔が赤く染まって。
いやいやと首を横に振るけれど、掴んだ腕を離してやる気はない。
「は、はずか、しいって」
「いまさら何言ってんだ。こんな、体の中まで明け渡しといて」
「そう、いうもんだい、じゃ――っあ?!」
往生際が悪いミストの足が、不満を表すようにじたばたと動いた。
「こら、暴れんなって」
「っ、ち、ちが、いま、っ」
今にも泣き出しそうな声と表情に、俺の口角が上がる。
「なるほど?」
「ひっ、うあっ!や、やぁ、それだめ、っ」
「いい、の間違いだろ」
ぐ、と腰を押し込むように動いて。
落ちる涙を拭ってやれば、それにすら感じるらしく体の内側がきゅうきゅうと締め付けた。
あられもない声を上げ、掴んだシーツが皺を作る。
「手、こっち」
そんな手を撫でて解かせ、俺の背中へと誘導した。縋りつくように、必死に立てた爪が皮膚を引っ掻く。
わずかな痛みに眉を顰めるけれど、それだけだ。むしろミストがつけてくれる小さな傷が嬉しくて、体中抱きしめると律動を速めた。
「あ、おい」
震える手が俺の頬に触れる。どうかしたのかと少しだけ体を離すと、涙の張った目がとろけた。
ゆっくり、撫でるように。頬に触れた手は動いて、耳からその上へと移動していく。
「つ、の」
「……ああ、出てたか」
「さわって、いい……?」
伺うような言葉に頷いた。するとミストは嬉しそうに微笑むから、軽く屈んでやる。
忌々しさの象徴でしかなかったそれを、ミストの指先が撫でていった。
別に何が変わったわけでもない。だけど、ただそれだけで。俺の頭に生えているそれが、価値のあるものに思えてくる。
「……す、き」
「ああ、俺も」
微笑んだ唇が嬉しそうに言って。反射的に言葉を発し、お返しのように唇を落とした。
もぞもぞと布団の中で体が動く。苦笑しつつはみ出た頭を軽く撫でて、まだ寝てていいぞと声をかけた。
「んー……あおい……?」
「おう。寝ぼけてんな?」
「んーん……だいじょぶ……おきるぅ」
起きる、と言いつつどう考えても寝ぼけた声と顔で、芋虫のように動いて。
普通に布団から抜け出そうとしたのだろうけれど、ある程度動いたところでぴたりと止まった。
「大丈夫か?」
「……あんまり、だいじょばない」
しょん、とうなだれて。手を貸せと強請られたので、苦笑しつつ起こしてやる。
痛みとかはないようで、そのことに安堵した。
俺の手を借りて、ベッドに座る姿を眺める。足を下したところで安定するように、枕とクッションを背中側に入れてやった。
「水でいいか?」
「ん、ありがと」
「飲みかけで悪いけど」
「何も悪いこともないって」
冗談めかした俺の一言に笑って返す。
こくこくと喉に水を流し込むのを見守って、一息つくとペットボトルが戻ってきた。
立とうとするとふらつくようで、軽く支えてやって。湯を張ってあった風呂に誘導してやると、鏡に映る自分の姿を見て顔を赤くした。
「別にいまさら恥ずかしがるなって」
「む、むり、いうなよ……」
口元まで湯に浸かって、ぶくぶくと空気を吐き出しながらぼやく。そんなのもかわいく映るのだから本当に恋なんてものは盲目だ。
「あ、あと、つけすぎだから」
「そうか?」
「……服、貸して」
「喜んで」
他愛のない会話すら嬉しい。
浴室にミストを残し、シーツだのなんだのを洗うために寝室へ戻った。全部まとめて洗濯機に放り込み、稼働を始める。
着替えを一式運んでやって、リビングに戻った。食事をどうするかなと思いながら冷蔵庫を開けて中を見る。綺麗に整えられたそこに、勝手に口元がほころんだ。
ミストと出会うまでは、碌なものが入っていなかったのに。
「――どした?」
冷蔵庫を開けたままの俺の背中に、不思議そうな声がかけられる。
「なんかあるかと思って」
「そしたら作り置きの」
「今それ見てた。お前も食うだろ?」
「うん」
整然と並んだいくつかのタッパーを選んで取り出し、電子レンジで温め始めた。
見ればまだミストの髪は濡れていたので、ドライヤーを持ってくることにする。
「髪、やらして」
「……いいけど、お前好きだな」
「お前の髪は俺のよか柔らかくて手触りがいいからさ」
笑いながら言って、ソファーに座ったミストの髪を乾かし始めた。
俺の固い髪とは違い、さらさらと流れる髪は指先に絡むこともなく落ちていく。
電子レンジが鳴って、それに合わせるようにドライヤーの風を止めて。
ありがと、と笑うミストにどういたしましてと返し、食事をとることにした。
ひとしきり片づけ終わって、ふう、とミストが息を吐く。
視線はキッチンのカウンター。その上に並べられた、二つの指輪だ。
片方には左右対称の山羊が、もう片方には上下対称の水甕が彫られていた。装飾としてはどちらも星座をモチーフにしているのか、大小いくつものそれがちりばめられている。
不意に、智也の言葉が頭をよぎっていって、ミストの方を見た。おそらく同じことを考えたのだろう、ミストも俺を見る。
「――どうする?」
「それ、俺に言わせるの?葵はどうしたいんだよ」
「そうだな、悪い」
つるりと口から出た言葉に口を尖らせて言われ、それもそうかと頬を掻いた。
それから、また視線を指輪の方へ注ぐ。いくら考えても、結論は変わりはしない。
だけど、それにミストを付きあわせていいのだろうかという疑問が離れてくれなかった。
迷う俺に何を思ったのか、ぼそりとミストが言葉を落とす。
「俺は……受け入れるよ」
「ミスト」
「だって、もう、怖いものなんかない。お前といられない世界なんていらない」
伸びてきた両手が、緩く俺を抱きしめた。
「俺のことを葵がいらなくなったら、俺は存在する理由がない。だったら、俺は」
「――ごめん」
「葵?」
弱いのは俺だ。いつもそうだ、故郷を捨てて逃げたときも。今も、こうしてミストの強さに甘え続けている。
応えるように細い体を抱きしめ返し、俺もだと声に出した。
「俺も、ミストがいない世界で生きていきたいなんて思えない」
「……本当に?」
「嘘に聞こえるか?」
ううん、と首を横に振る。
「嬉しい。ありがとう」
「俺の台詞だ」
「そっか」
笑って言い合って、体を離して。二人で指輪を手に取り、同時に頷いた。
智也が俺たちに伝えた『弊害』。それは、この指輪を俺たちが共にある証明とすることによって、俺たちが生きている限り次世代の山羊の王と星の子が生まれなくなることだった。
それは一族の平穏を意味するとともに、俺たち個人にとっては呪いを表す。
つまり俺たちは、俺たちが自身の証明を放棄しない限り、永遠を生き続けることになるのだと。
苦々しい顔をしたアクアを思い出し、でもまぁ、と笑った智也も思い出した。
「一生を通り越して、永遠を共に過ごせるなら確かに悪かないな」
「……その代り、嫌になったらすぐ言えよな」
「それも、俺の台詞だな」
先ほどと同じ言葉を繰り返せば、なんでだよと笑う。
きっと、もしも記憶が戻らなかったとても。今とは逆に俺のことを忘れたとしても。それでも、その顔が曇って欲しくないと思うのは本当のことだし、何も変わりはしないんだろう。
「――ミスト」
「ん、なに?」
「ありがとう」
「……それは、俺の台詞かな?」
くす、と。楽しそうな笑顔のまま、一歩俺に近づく。
「葵があの日、俺を見つけてくれて、家にいていいよって言ってくれなかったら、俺どうなってたかわかんねぇもん」
「それもそうかもな」
「誰かを好きになって、好きになってもらえて、そんなの一生縁がなかったよ」
それはどうなんだろうかと苦笑する。案外、俺じゃない誰かを好きになってたんじゃないかと。
そんなことを考えたのをおそらく見透かしたんだろう、軽く足を踏まれた。
「痛い」
「なんか変なこと考えてる顔してたから?」
「だからって踏むなっつの」
馬鹿馬鹿しいじゃれ合いだって、なんてことのない会話だって、ミストとなら楽しくて。
それを伝えたくなって、だけどうまい言葉も出てきてはくれず、またありがとう、と繰り返した。
「で、どーすんだっけ」
礼を譲らない俺に呆れたように背を向けて、カウンターへと向かう。
渡された山羊の指輪を受け取って、智也から聞かされた儀式の手順を思い出した。
とはいえ、細かいところは覚えていなかったので、携帯電話に残したメモを呼び出す。
「けっこう面倒だな」
「いいよ、やろ。どうせ今日の予定があるわけじゃないんだしさ」
「そうだな」
実際、ミストの言うとおりだ。
情けない俺の背中を押してくれる笑顔と言葉に頷いて、メモした手順に沿って作業をすることにした。
不可思議な文様を見様見真似で描き、二つの指輪を乗せて、なんだか理解の及ばない言葉の羅列をなぞる。
「……何がどうなってこうなるんだ?」
「さあ。細かく考え出すとキリないしな」
「俺、割と常識人だったんだなって今思ってる」
「お前の目の前にいんのは角生えた悪魔ですけど」
「それ言ったら」
わずかな発光が緩やかに収まったそれを苦笑いと共に眺めながら、おもむろにミストがひとつ手に取った。くるくるといろんな角度からその指輪を見つつ、首を傾げる。
「内側に――」
「山羊」
「んで、こっちは水瓶か」
笑いながら、水瓶の方を自分の指にはめようとするから慌てて止めた。なんでだよと言うその手を捕まえて、ついでに持っている指輪も取り上げる。
我ながら女々しい気持ちはありつつも、左の手を出してくれと頼んだ。
「こう?」
「……どうせなら、こうさせろよ」
きょとんとした表情で差し出された左手を取って、薬指に取り上げた指輪を入れていく。
それが何を意味するのかわからないほど世間知らずというわけもなく。一瞬の後、かあっと一瞬で顔を赤く染めた。
「お、おれ、もっ」
「あ」
真っ赤な顔をしたまま、ばっともうひとつの指輪を取って。
笑いながら左手を出してやれば、その薬指に山羊の指輪が収められていく。
赤い顔を見たくて視線を指から上げると尖らせた下唇が目に入ったので、ちょん、と自分のそれで触れた。
好きだなんて、何回考えたかわからないことをまた考えて。
本当は、俺に付き合わせて終わらない一生を続けさせてしまうことに、罪悪感がないわけがない。
だけどお前は、そんなことすら小さなことだと笑うんだ。
「――ミスト」
「ん?なに」
「前言撤回するわ。俺に飽きても、俺の側にいて」
独りよがりな告白に、赤い顔きょとんとした驚きの表情になった。
だけれどもそれは一瞬で、すぐに破顔し面白くて仕方がないとでもいうように体を曲げて笑いだす。ひとしきり笑いが収まってから、軽く目尻を拭って。
「はー、お前本当に面白いな」
「何とでも言え」
「なに拗ねてんだか。そういうとこが好きだからいいんだよ」
さらりと言った台詞に、そりゃどーもと茶化して答えた。
「いいよ」
「本当かよ」
「嘘なんかつかねぇよ。でも、俺も一個だけ条件がある」
すっと目の前に立てられる指を見つめる。
「俺のこと好きじゃなくなっても、俺の歌だけは好きでいて。そんで褒めて」
それは俺にとってあまりに当然のこと過ぎて、思わず笑いが零れた。
そんな俺に、ミストはこれじゃ二つかと照れくさそうに頬を掻く。
「約束する。それだけは絶対、ミストの希望を裏切らない」
「――ありがと」
笑うお前に、俺は自分の言葉を証明するように。一曲歌ってくれよと強請った。
震える目から涙が落ちて、軽く指先で拭った。そんなわずかな動きにも、ぴくりと跳ねる。
「大丈夫か?」
「う、うん、っ……で、も、えっと、まだ」
「ああ、慣れるまでこのままな。ゆっくり息して」
受け入れてくれたとはいえ、どう考えても苦しいはずだ。はふ、と呼吸を繰り返し、落ち着くのを待った。
頭や頬を撫でたり、軽く唇で啄んでみたり。俺のそんな動きに、安心したように微笑む。
何度となく合わせた唇をもう一度重ね、舌を差し入れれば応えてくれて。ただ、それが嬉しい。
「んっ……」
緩く腰を動かしてみる。最初よりも抵抗はなく、それにミスト自身も小さく頷いた。
「も、だいじょ、ぶ」
「……無理、すんなよ」
「してない……から、動いて」
両足が柔く俺の体に絡んで、強請るように腰が浮く。きゅう、と優しく締め付けてくる内壁をダイレクトに感じてしまって、うっかり果てそうになるのをなんとか堪えた。
まったく、と笑う。そんなとこでまで、俺を虜にしなくったっていいだろうに。
それでも、もう一度いいんだなと確認をしてから、ゆっくりと抽挿を始めた。
「っ、ん、ぅ、はぁ、あ」
口を塞ごうと手を持っていくから、その手首を掴んで止めさせる。
「や、な、なに、っ」
「声、聞きたい。言ったじゃん、ちゃんと聞かせろって」
ぶわ、とミストの顔が赤く染まって。
いやいやと首を横に振るけれど、掴んだ腕を離してやる気はない。
「は、はずか、しいって」
「いまさら何言ってんだ。こんな、体の中まで明け渡しといて」
「そう、いうもんだい、じゃ――っあ?!」
往生際が悪いミストの足が、不満を表すようにじたばたと動いた。
「こら、暴れんなって」
「っ、ち、ちが、いま、っ」
今にも泣き出しそうな声と表情に、俺の口角が上がる。
「なるほど?」
「ひっ、うあっ!や、やぁ、それだめ、っ」
「いい、の間違いだろ」
ぐ、と腰を押し込むように動いて。
落ちる涙を拭ってやれば、それにすら感じるらしく体の内側がきゅうきゅうと締め付けた。
あられもない声を上げ、掴んだシーツが皺を作る。
「手、こっち」
そんな手を撫でて解かせ、俺の背中へと誘導した。縋りつくように、必死に立てた爪が皮膚を引っ掻く。
わずかな痛みに眉を顰めるけれど、それだけだ。むしろミストがつけてくれる小さな傷が嬉しくて、体中抱きしめると律動を速めた。
「あ、おい」
震える手が俺の頬に触れる。どうかしたのかと少しだけ体を離すと、涙の張った目がとろけた。
ゆっくり、撫でるように。頬に触れた手は動いて、耳からその上へと移動していく。
「つ、の」
「……ああ、出てたか」
「さわって、いい……?」
伺うような言葉に頷いた。するとミストは嬉しそうに微笑むから、軽く屈んでやる。
忌々しさの象徴でしかなかったそれを、ミストの指先が撫でていった。
別に何が変わったわけでもない。だけど、ただそれだけで。俺の頭に生えているそれが、価値のあるものに思えてくる。
「……す、き」
「ああ、俺も」
微笑んだ唇が嬉しそうに言って。反射的に言葉を発し、お返しのように唇を落とした。
もぞもぞと布団の中で体が動く。苦笑しつつはみ出た頭を軽く撫でて、まだ寝てていいぞと声をかけた。
「んー……あおい……?」
「おう。寝ぼけてんな?」
「んーん……だいじょぶ……おきるぅ」
起きる、と言いつつどう考えても寝ぼけた声と顔で、芋虫のように動いて。
普通に布団から抜け出そうとしたのだろうけれど、ある程度動いたところでぴたりと止まった。
「大丈夫か?」
「……あんまり、だいじょばない」
しょん、とうなだれて。手を貸せと強請られたので、苦笑しつつ起こしてやる。
痛みとかはないようで、そのことに安堵した。
俺の手を借りて、ベッドに座る姿を眺める。足を下したところで安定するように、枕とクッションを背中側に入れてやった。
「水でいいか?」
「ん、ありがと」
「飲みかけで悪いけど」
「何も悪いこともないって」
冗談めかした俺の一言に笑って返す。
こくこくと喉に水を流し込むのを見守って、一息つくとペットボトルが戻ってきた。
立とうとするとふらつくようで、軽く支えてやって。湯を張ってあった風呂に誘導してやると、鏡に映る自分の姿を見て顔を赤くした。
「別にいまさら恥ずかしがるなって」
「む、むり、いうなよ……」
口元まで湯に浸かって、ぶくぶくと空気を吐き出しながらぼやく。そんなのもかわいく映るのだから本当に恋なんてものは盲目だ。
「あ、あと、つけすぎだから」
「そうか?」
「……服、貸して」
「喜んで」
他愛のない会話すら嬉しい。
浴室にミストを残し、シーツだのなんだのを洗うために寝室へ戻った。全部まとめて洗濯機に放り込み、稼働を始める。
着替えを一式運んでやって、リビングに戻った。食事をどうするかなと思いながら冷蔵庫を開けて中を見る。綺麗に整えられたそこに、勝手に口元がほころんだ。
ミストと出会うまでは、碌なものが入っていなかったのに。
「――どした?」
冷蔵庫を開けたままの俺の背中に、不思議そうな声がかけられる。
「なんかあるかと思って」
「そしたら作り置きの」
「今それ見てた。お前も食うだろ?」
「うん」
整然と並んだいくつかのタッパーを選んで取り出し、電子レンジで温め始めた。
見ればまだミストの髪は濡れていたので、ドライヤーを持ってくることにする。
「髪、やらして」
「……いいけど、お前好きだな」
「お前の髪は俺のよか柔らかくて手触りがいいからさ」
笑いながら言って、ソファーに座ったミストの髪を乾かし始めた。
俺の固い髪とは違い、さらさらと流れる髪は指先に絡むこともなく落ちていく。
電子レンジが鳴って、それに合わせるようにドライヤーの風を止めて。
ありがと、と笑うミストにどういたしましてと返し、食事をとることにした。
ひとしきり片づけ終わって、ふう、とミストが息を吐く。
視線はキッチンのカウンター。その上に並べられた、二つの指輪だ。
片方には左右対称の山羊が、もう片方には上下対称の水甕が彫られていた。装飾としてはどちらも星座をモチーフにしているのか、大小いくつものそれがちりばめられている。
不意に、智也の言葉が頭をよぎっていって、ミストの方を見た。おそらく同じことを考えたのだろう、ミストも俺を見る。
「――どうする?」
「それ、俺に言わせるの?葵はどうしたいんだよ」
「そうだな、悪い」
つるりと口から出た言葉に口を尖らせて言われ、それもそうかと頬を掻いた。
それから、また視線を指輪の方へ注ぐ。いくら考えても、結論は変わりはしない。
だけど、それにミストを付きあわせていいのだろうかという疑問が離れてくれなかった。
迷う俺に何を思ったのか、ぼそりとミストが言葉を落とす。
「俺は……受け入れるよ」
「ミスト」
「だって、もう、怖いものなんかない。お前といられない世界なんていらない」
伸びてきた両手が、緩く俺を抱きしめた。
「俺のことを葵がいらなくなったら、俺は存在する理由がない。だったら、俺は」
「――ごめん」
「葵?」
弱いのは俺だ。いつもそうだ、故郷を捨てて逃げたときも。今も、こうしてミストの強さに甘え続けている。
応えるように細い体を抱きしめ返し、俺もだと声に出した。
「俺も、ミストがいない世界で生きていきたいなんて思えない」
「……本当に?」
「嘘に聞こえるか?」
ううん、と首を横に振る。
「嬉しい。ありがとう」
「俺の台詞だ」
「そっか」
笑って言い合って、体を離して。二人で指輪を手に取り、同時に頷いた。
智也が俺たちに伝えた『弊害』。それは、この指輪を俺たちが共にある証明とすることによって、俺たちが生きている限り次世代の山羊の王と星の子が生まれなくなることだった。
それは一族の平穏を意味するとともに、俺たち個人にとっては呪いを表す。
つまり俺たちは、俺たちが自身の証明を放棄しない限り、永遠を生き続けることになるのだと。
苦々しい顔をしたアクアを思い出し、でもまぁ、と笑った智也も思い出した。
「一生を通り越して、永遠を共に過ごせるなら確かに悪かないな」
「……その代り、嫌になったらすぐ言えよな」
「それも、俺の台詞だな」
先ほどと同じ言葉を繰り返せば、なんでだよと笑う。
きっと、もしも記憶が戻らなかったとても。今とは逆に俺のことを忘れたとしても。それでも、その顔が曇って欲しくないと思うのは本当のことだし、何も変わりはしないんだろう。
「――ミスト」
「ん、なに?」
「ありがとう」
「……それは、俺の台詞かな?」
くす、と。楽しそうな笑顔のまま、一歩俺に近づく。
「葵があの日、俺を見つけてくれて、家にいていいよって言ってくれなかったら、俺どうなってたかわかんねぇもん」
「それもそうかもな」
「誰かを好きになって、好きになってもらえて、そんなの一生縁がなかったよ」
それはどうなんだろうかと苦笑する。案外、俺じゃない誰かを好きになってたんじゃないかと。
そんなことを考えたのをおそらく見透かしたんだろう、軽く足を踏まれた。
「痛い」
「なんか変なこと考えてる顔してたから?」
「だからって踏むなっつの」
馬鹿馬鹿しいじゃれ合いだって、なんてことのない会話だって、ミストとなら楽しくて。
それを伝えたくなって、だけどうまい言葉も出てきてはくれず、またありがとう、と繰り返した。
「で、どーすんだっけ」
礼を譲らない俺に呆れたように背を向けて、カウンターへと向かう。
渡された山羊の指輪を受け取って、智也から聞かされた儀式の手順を思い出した。
とはいえ、細かいところは覚えていなかったので、携帯電話に残したメモを呼び出す。
「けっこう面倒だな」
「いいよ、やろ。どうせ今日の予定があるわけじゃないんだしさ」
「そうだな」
実際、ミストの言うとおりだ。
情けない俺の背中を押してくれる笑顔と言葉に頷いて、メモした手順に沿って作業をすることにした。
不可思議な文様を見様見真似で描き、二つの指輪を乗せて、なんだか理解の及ばない言葉の羅列をなぞる。
「……何がどうなってこうなるんだ?」
「さあ。細かく考え出すとキリないしな」
「俺、割と常識人だったんだなって今思ってる」
「お前の目の前にいんのは角生えた悪魔ですけど」
「それ言ったら」
わずかな発光が緩やかに収まったそれを苦笑いと共に眺めながら、おもむろにミストがひとつ手に取った。くるくるといろんな角度からその指輪を見つつ、首を傾げる。
「内側に――」
「山羊」
「んで、こっちは水瓶か」
笑いながら、水瓶の方を自分の指にはめようとするから慌てて止めた。なんでだよと言うその手を捕まえて、ついでに持っている指輪も取り上げる。
我ながら女々しい気持ちはありつつも、左の手を出してくれと頼んだ。
「こう?」
「……どうせなら、こうさせろよ」
きょとんとした表情で差し出された左手を取って、薬指に取り上げた指輪を入れていく。
それが何を意味するのかわからないほど世間知らずというわけもなく。一瞬の後、かあっと一瞬で顔を赤く染めた。
「お、おれ、もっ」
「あ」
真っ赤な顔をしたまま、ばっともうひとつの指輪を取って。
笑いながら左手を出してやれば、その薬指に山羊の指輪が収められていく。
赤い顔を見たくて視線を指から上げると尖らせた下唇が目に入ったので、ちょん、と自分のそれで触れた。
好きだなんて、何回考えたかわからないことをまた考えて。
本当は、俺に付き合わせて終わらない一生を続けさせてしまうことに、罪悪感がないわけがない。
だけどお前は、そんなことすら小さなことだと笑うんだ。
「――ミスト」
「ん?なに」
「前言撤回するわ。俺に飽きても、俺の側にいて」
独りよがりな告白に、赤い顔きょとんとした驚きの表情になった。
だけれどもそれは一瞬で、すぐに破顔し面白くて仕方がないとでもいうように体を曲げて笑いだす。ひとしきり笑いが収まってから、軽く目尻を拭って。
「はー、お前本当に面白いな」
「何とでも言え」
「なに拗ねてんだか。そういうとこが好きだからいいんだよ」
さらりと言った台詞に、そりゃどーもと茶化して答えた。
「いいよ」
「本当かよ」
「嘘なんかつかねぇよ。でも、俺も一個だけ条件がある」
すっと目の前に立てられる指を見つめる。
「俺のこと好きじゃなくなっても、俺の歌だけは好きでいて。そんで褒めて」
それは俺にとってあまりに当然のこと過ぎて、思わず笑いが零れた。
そんな俺に、ミストはこれじゃ二つかと照れくさそうに頬を掻く。
「約束する。それだけは絶対、ミストの希望を裏切らない」
「――ありがと」
笑うお前に、俺は自分の言葉を証明するように。一曲歌ってくれよと強請った。
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