されど、愛を唄う

あきら

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 やっぱり嘘つきじゃん、なんてあいつが笑う。
 嘘じゃない、なんて俺が返せば、今度は何故か誇らしげに胸を張った。
 首から下げたカメラ。俺が、あの町のあの家から持ってきたものはこのカメラと、現像する道具と。それから、わずかな着替えだけだ。

「なぁシグルド。どっか行きたいとこある?」

 屈託のない笑みで言うこいつを、誰が悪魔だと思うだろう。実際、今まで立ち寄った町でも、何かを言われることはなくて。
 不審がる俺にエディはただ、気にすんなよと笑うばかりだ。

「どこでもいいよ。どっかある?」
「……そう、だな」

 とりあえず暮らしていた町を出なければならなくなって、そうなれば俺に行くあてなどあるはずもない。
 そうなってしまえば、エディが俺から離れるわけもなく。結局のところ、俺はこいつと一緒にいる。

「そうだ、お前海見たことある?」
「……写真、だけなら」
「だよなぁ。よし、海行こう海。決定」「おい、俺は何も」
「たぶんお前好きだと思うんだよ海。ちょっとだけでいいからさ」

 人の意見を聞いているようで聞いていない。楽しそうに笑ったエディが、おもむろに俺の手を取った。

「ちょっとだけ、って、こっから海が見えるまでどんだけの距離あると思ってんだよ」
「大した距離じゃねぇって。ほら、行こう」
「大した距離だっての」

 今いる場所や、俺の暮らしていた町は大陸の中でも内陸にある。だから、海なんか見たことないのは当然だ。
 そんな場所まで移動するには、大陸を横断する列車に乗っても丸二日ほどかかる。
 ただ、先を急ぐ目的があるわけじゃない。だから、二日かけての移動も別に構わなかった。

「……は?!」

 構わなかった、のに。俺のそんな思惑は、ほんの数分後に裏切られる。
 こっち、と誘導されるがままにエディについて行き、路地裏の小さな家の扉を無造作に開けるのを眺め――促されるままその扉をくぐった先には、見慣れない街並みと海が広がっていたのだから。

「どうよ!」
「いや、え、ちょ、何が起きた?!」

 ふふん、と得意げに笑うエディ。いったい何をしたのかと問う俺に、そのままの表情で答えた。

「忘れたのかよ?俺様は悪魔だぜ」

 一軒一軒、壁の色が違うカラフルな町。その向こうに広がるのは、透き通った青色。
 どうやら、列車で丸二日の距離を思い切りショートカットしたらしい。エディの顔と、真っ青な海を見比べて、戸惑う頭にそんな結論を出した。
 これだけ人に見えたって、エディは人ではないということ。今更ながら、悪魔という存在が現実であるということを改めて感じる。
 ――だけど、それ以上に。

「な?!すごいだろ!ここはさぁ、前に俺も一回来たことがあって。あんまり綺麗だったから、そのまま違うとこ行ったんだよ」

 きらきらとした表情で、そんなことを言うその存在が眩しく思えてきて。

「ほんと、何も歌わなくてよかったぁ。こうしてお前に、俺が綺麗だって思った景色見てもらえんだもん」
「……エディ」

 景色を眺めていたエディが、なに、と振り返った瞬間をカメラに収めた。

「な、もう!撮るなら撮るって言えって言ってんだろ?!」
「なんでそこは許可制なんだよ。いいだろ別に」
「よくない、俺の心持ちが全然違う」

 軽く頬を膨らませて拗ねた顔をするから、それも撮るぞと脅してみる。
 やめろよと小突かれて、俺も笑いを返した。

「……お前がそんなふうに笑うの、初めて見た気がする」
「そりゃ、まあ、そうだろ。お前、自分が何者で何してきたか忘れたのかよ」

 苦笑に変わった笑みを乗せたまま、柔らかな髪をくしゃりと撫でる。

「なぁ、まだ、俺のになんない?」
「……もう少し、かもな」

 こいつとこんな冗談が言い合えるようになる程度には、俺もエディに気を許していて。
 だけどそれを悟られてしまうのも、若干の気恥ずかしさがあったのは事実だ。だから、あまりエディの前では笑っていなかったのかもしれない。
 
「せっかくだから、ちょっといいとこ泊まるか」
「無職なんだからもう少し節制しろよ」
「……お前に言われたくないんだけど」
「俺はぁ、仕事してんもん。まぁ今はお前といるから休業中だけど」
「じゃあ俺も似たようなもんだろ」

 じ、と睨み合って。
 少しの間の後、同時に笑う。

「ほんとさぁ、お前何の意地なの?もう俺のでよくない?」
「聞こえないな」
「ったく、俺のことけっこう好きになってるくせに」
「どっからくるんだその自信は」

 くだらないことを言い合いながら、宿を探すことにした。
 


 なんだかんだ、この旅路を楽しく思っている自分もいる。
 碌に趣味も放り出していたせいで、数年分の給料もほとんどそのまま残っていたのが幸いした。エディのおかげで移動には使わなくても良さそうだし、しばらく所持金のことを気にしなくても大丈夫だろう。
 見つけた良さそうな宿に、少しばかりの荷物を置いてまた外へ出る。何しろ内陸育ちの俺にとって、この海辺の町は新鮮すぎた。

「なぁなぁ、向こうの方なら下まで行けんじゃね?」
「おう、行ってみるか。なあ、お前は来たことあるんだろ?」

 エディに問いかければ、頷きが返ってくる。

「……海の水って、塩辛いって本当なのか?」
「試してみりゃいーじゃん」

 楽しそうにくすくすと笑いながら、その白い指は海を示した。さっき彼が言った通り、少し下りれば砂浜に出られそうだ。
 太陽が嫌いなのか、日焼けするのが嫌なのか。薄手の長袖を羽織ったエディは、海風に目を細めている。

「行こうぜ。付き合ってくれんだろ?」
「もちろん」

 何度見ても、人にしか見えない顔で笑った。ほんの少し、心臓が痛くなる。
 だけど自分の複雑な気持ちには蓋をすることにして、エディの手を掴むとゆっくり下へと向かった。
 俺のその行動に少し驚いたらしい。どしたよ、なんて言うけれど、その表情は楽しそうでほっとする。

「危ないからさ」
「お前が、だろ?」
「否定できない」
「しろよ」

 何しろ、運動はいまいちな俺だ。慣れない足場に転ばないとも限らない。

「ったくほら、シグルドこっち。こっちからの方が緩やかになってるじゃん」
「サンキュ」

 言いながら、下の砂浜までたどり着く。夕日が沈み始めた海は、昼間の青とは趣が異なっていて。
 水面をオレンジ色に染めていく、そのわずかな時間を堪能し、夢中でシャッターを切った。

「……全部、沈んじゃったな」
「ああ。でも、綺麗に撮れた……ホテルで現像するわ」

 楽しみにしてる、と笑ったエディが波打ち際へと近づいていく。静かにしゃがみ込み、振り向いて手招きするから俺もすぐそばまで近寄った。

「舐めてみる?」
「……ん」

 海に浸した指を、からかうように見せつけてくるから。その手首をつかみ、濡れた指先を軽く食んだ。

「え、ちょっ」
「なんだよ」
「……本当にすると思わなかった……ってか自分の指でやりゃいいじゃん」

 薄暗くなり始めた中でもはっきりと解るぐらいには顔を赤くして言うから、思わず笑いが零れる。
 さんざん人の上に跨ってくるくせに、それは照れるのかと思えば、目の前のエディがやたらとかわいらしく見えた。

「……冷える前に、戻るか」
「うん」

 だけども、俺のその思考回路はよくないものだとこれも追いやることにする。立ち上がるエディの手を引いて、これぐらいはいいだろう、と自分に言い訳を重ねることしかできなくなっていた。



 綺麗にライトアップされた、海辺にほど近いレストランで食事を済ませる。

「美味しかったぁ。やっぱりこう、料理ってすごいよな」

 どういうことかと首を傾げた。口元を丁寧にぬぐう仕草を眺めながら、食後にと出されたワインを一口飲む。

「人間の作り出した英知の極みって感じ」
「……飯が?」
「飯じゃなくて、料理。飯だったら、生か焼くだけ煮るだけでいいじゃん。そうじゃなくて、こう技術の結晶っていうか」

 言いたいことはわかるような気がした。確かにここの料理は美味かったので、頷きを返す。

「あと、酒もね。最初に発明した人を称えたい」

 悪魔に称えられる人間っていったいなんなんだ、と思ってしまったせいで妙な咳が出た。
 そんな俺を柔らかい眼差しで見つめている当の悪魔は、ずいぶん楽しそうだ。

「こういうところで、人間は愛を囁いたりすんのかな?」
「……それは知らないな」
「な、まだ俺のになんない?」
「今日何回目だよそれ」
「何回も聞けば、気が変わるんじゃないかと思って」
「一日の間でそうホイホイ変わってたまるか」

 ちぇ、なんて言いながらグラスを傾ける姿を見る。しなやかで艶やかな動きは堂に入っていて、重ねた歳月の差を感じた。

「まぁ、気長に口説くことにするよ」
「ぜひそうしてくれ」
「でもやることはやりたがるよなお前」

 今度は我慢しきれず、ワイングラスの中に軽く吹き出す。危ない。

「お、まえ、な!」
「だってそうじゃん?シグルドからってのはねぇけど、俺が誘っても完全な拒否はしないし」
「……頼むからこんなとこでんな話すんな」
「はぁい」

 完全にからかわれている。息を吐いて、改めてグラスの中身を飲み干した。
 レストランを出て、夜の海風を感じながら歩く。エディの足取りは揺れていて、控えめに見繕っても酔っていた。

「……悪魔も酒に酔うんだな」
「俺?なんか、弱いらしい。たぶん。お前よか飲めないぃ」

 ふにゃふにゃした声音で左右に揺れながら言う。顔はやっぱり赤く染まって、至近距離の両目は薄く潤んでいた。

「……なんか、少しばかり馬鹿馬鹿しくなってくるな」
「何の、はなしぃ?」
「こっちの話。ほらもっと寄れ、他の人にぶつかんだろ」

 はぁい、と笑って。俺の片腕にしがみつくようにくっついてくるから、その頭を軽く撫でる。
 悪魔だなんて、この期に及んでも嘘なんじゃないかと思えてきて。甘える猫みたいなエディの、上気した頬に触れたくなった。

「あれ?」

 不意に反対側から聞こえた声に足を止める。
 あまり上等とはいえない表情の男が俺を見ていた。記憶にあるようなないような、そんな気がしつつも軽く会釈をして離れようと試みる。

「え、ちょ、マジ?お前、シグルドか」

 半笑いの声と表情。それを目にした瞬間、昔の記憶が一気に呼びさまされる。
 男の視線が動いて、エディを見た。相変わらず人を馬鹿にした顔で、男は言う。

「まさかこんなとこで会うとは思わなかったわー。え、何してんの?男二人で腕なんか組んじゃってさぁ」
「……関係、ないだろ」
「冷たいねぇ、小さいころはあんなに遊んでやったじゃん?いろいろ教えてやって」
「やめろ!」

 思わず大きな声が出た。ぴく、とエディの指先が動く。

「あれぇ、もしかして怒った?お前が?俺に対して?」
「……っ」

 胸ぐらを掴まれ、厭らしく細めた目が近づいた。

「ねえ」

 するりと俺の腕を離したエディが言う。その声に、男は俺から視線を外すと、そのままの顔で上から下まで彼を見た。

「なかなかじゃん。男でもありかもな」
「……俺のこと?」
「こんなやつやめて俺にしとけよ、なぁ?」

 男の手が離れ、エディに伸びる。やめろ、と止めようとした俺の努力は、けれども何の意味もなかった。色んな意味で。

「童貞がイキがっちゃって面白いねぇ。俺を口説きたいならせめてオトナになってからにしたら?」
「っ、な」

 笑っている場合ではない。ないが、思わず吹き出してしまう。

「シグは俺のなんだから勝手に触るなよ。今なら見なかったことにしてやるけど?」
「っ、な、なんだ、おま、えっ」
「聞いてんのは俺。どーすんの?さっさと消えてくんね?」

 エディに気圧されたのか、男は数歩後ずさった。ただ、俺の前だということを思い出したのだろう、その数歩を持ち直し、その肩に手を置く。
 正直、自分が馬鹿にされるよりも、ざわりと心が動いた。

「なに?」
「シグルドじゃなく、お前に触るんなら文句ねぇだろ?」

 そのまま肩を抱こうとする。
 止めようとして、間に合わなかった。ため息をついたエディの唇が僅かに動いて。
 どさりと音がしたかと思うと、男はその場に崩れ落ちる。

「……行こ。そのうち誰かくるから」

 エディを止められなかったことに、呆然とする俺を。その当人が、引きずるようにしてホテルまで連れ帰った。
 
 思い知る。どれだけ屈託なく笑っていても。
 どれだけ、俺のことが好きだと言ってくれていても。
 目の前で俺の手を引くこいつは、悪魔なのだと。
 唇から紡ぐものだけで人を殺せてしまう、悪魔なのだと。

 足元から這い寄ってくるような寒気に身を震わせたけれど、その正体はエディじゃない。
 あの男が死んだかもしれないことに、歓喜している自分だ。

 「っ、エディ」
 「……大丈夫だから。とにかく戻ろう、な」

 俺を気遣う声に、返事はできなくて。
 手を引かれたまま、頷くのが精一杯だった。


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