されど、愛を唄う

あきら

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 歌が、聞こえる。
 それが自分自身の声だと気づくには、少しの時間が必要だった。
 はっとして、足と歌を止めて周囲を見る。どんよりとした空気と、塵と砂と、後は空から降り注ぐ雨。
 次第に雨は止んで、晴れ間が差して。だけど、周囲には何もなく、灰色の世界が広がっているだけだ。

 何もない。海もなければ、山もない。人もいない、人が作ったものもない。動物すら、存在しない。
 そんな世界にたたずむ俺は、小さく息を吐いて。また覚えのある歌を口ずさみながら、止まっていた足を進めた。
 どこに行っても変わらない景色。俺が目にした綺麗なものは、俺のどこに眠っているのだろうか。
 確かに、俺は。壊したくないと、消したくないと、そう思った世界があったはずなのに。

 不意に声が聞こえた気がして、首を回す。歌を止めて耳を澄ませる。
 かすかな、泣いているような。そんな声が聞こえた気がした。

「――誰?」

 問いかけなくったって、わかっているけれど。
 それでも、確かめずにはいられない。俺を呼んでくれる声が、俺を求めてくれる腕が、あいつのものであることを。
 エディ、と声が言う。
 名前のなかった俺に、お前がくれたその音は。まるで突如降って湧いた恵みのように、俺の足元に落ちた。

 瞬間、灰色だった世界が色づく。
 何もなかった向こうには青い海が広がり、反対側には雪の冠を頂く山が隆起して。足元は緑の絨毯で覆われ、ところどころに可憐な花がその顔を覗かせた。
 また声が聞こえる。それはあいつのものではなく、いろんな人たちの楽しそうなそれだ。
 子供の声、それをたしなめる母親の声。楽しそうに笑う恋人たち、それから穏やかに話す老夫婦。仕事をこなす若い男女に、青春を具現化したような笑い声。
 突然の音の洪水に飲み込まれて、俺の口角が上がった。

 だけど、歌えない。歌っちゃ、いけない。
 どんなに俺が歌いたくても、人と共にいたいと願った以上、俺は。

『歌って』

 強請るような声はすぐ側でした。小さく首を横に振る俺の、その体を優しく抱きしめる感触がある。
 大丈夫だと安心させるように背中を撫でられて、嘘だと返すことはできなくて。
 あの灰色の世界に戻りたくない。お前が見せてくれた、教えてくれた、気づかせてくれた鮮やかな世界にずっといたい。
 ぼろりと涙が落ちて、頬を伝った。

『大丈夫』
「っ、で、も」
『俺がいる。いつだってお前をこっちに引き戻してやるし、もしも戻れなくなったときは俺が一緒にそっちへ行ってやるから』

 ばか、と震えた唇が、涙をぬぐった指に触れられて。
 


 
「――ん」

 身じろぎをして、目を開ける。
 視界に広がるのはシーツと、その向こうの窓。ふわりとカーテンが揺れて、外からの風の匂いを嗅いだ。
 ああ、いつものそれだ。

「おはよ」
「ん、う」

 扉から何かを持って顔を出したシグに、おはようと返そうとして声が出なくて。んん、と咳払いを何回かしていると、苦笑しつつサイドテーブルにトレイを置く。

「起きられる?」
「……」

 自力では厳しそうだったので、手を伸ばして起こしてくれるように強請った。かわいい、という余計なひと言付きで、ベッドに腰掛けたシグが俺の体を起こしてくれる。
 ほら、と言って。トレイの上にあったカップを渡され、一口飲んだ。優しい甘さが舌の上に広がって、ふう、と息を吐く。

「はちみつ?」
「そう。紅茶に入れると美味いってアレクが言ってた」
「ん……おいし」

 こくこくと、ちょうどいい温かさのそれを飲んだ。喘ぎ続けて枯れた喉がだいぶ楽になったぐらいに、カップが空になる。

「エディ、手貸して」
「うん」

 カップをシグに戻し、そのまま両手を差し出す。確かめるように包んでさすって、その体温を確認して。心から安心したように、深く息を吐いた。
 足は、と聞かれるので、かかっていたタオルケットを避けてもらって膝を曲げる。
 まるで壊れ物でも扱うように、そっと触れる手が好きだ。
 指先から、ゆっくり手のひらが覆うように俺に触って。

「……なんか、まだ冷たい気がする」
「さすがに気のせいだろとしか言えねぇよ」
「んー?俺の手が熱いのか?」

 不思議そうに首を傾げるから、シグの手を取って、両手で握ってみる。確かに、俺より体温は高そうだ。

「だるさは?」
「いやそりゃお前、だるいよ?何言ってんの?」
「……えっと、その」

 わかっているけれど、昨夜散々泣かされたのが悔しかったので軽くからかってやった。
 嘘、と笑って、その手を握ったまま続ける。

「昨日までみたいなだるさはないよ。寒気とかもしないし、手も足も普通」
「なんで言いきれんの」
「だって、夢が変わったし」
「夢?」

 顔中に疑問符を浮かべ、さらに聞いてくるから。
 えっと、と少し考えた。

「ちょっと説明すんのが難しいんだけど」

 いいよ、なんて優しく言われるから。これはちゃんと話すべきかなぁ、なんて思う。別に話すことが嫌なわけじゃないけれど、言語化するのが難しい。

「昨日までは……昔の夢、見てた。でも、今朝は今の夢見れた。そんだけ」
「夢、なあ」
「本当に、もう大丈夫だからさ。それでもまだ心配だって言うなら――」

 口元に、挑発的な笑みを浮かべて。

「また、する?」

 そんなふうに聞いてみれば、俺の足の上にあった手がぴく、と動いた。
 まだ、あの薬の効き目が少し残っているのかもしれない。都合のいいことを頭に浮かべながら、ちらりとシグを見る。

「エディ」
「ん、なに」
「それは誘ってるのか?」
「全部言わせるなんて野暮なことさせんなよ」

 笑う俺の声にかぶせて、あーだとかうーだとかいううなり声を発した。珍しいこともあるもんだとその顔を覗き込む。

「したいのはやまやまだけど」
「やまやまなのかよこの絶倫」
「お前なぁ、自分で誘っといてそれ言うか?」

 眉尻が下がって、呆れた笑い顔になった。その顔も、俺の好きな顔だ。

「お前が大丈夫なんだったらさ、ちょっと外に行かないか?」
「外?買い物とか?」
「それでもいいし、少し散歩っていうか……エディと歩きたいなと思って」

 今度は俺が首を傾げる。
 だけど、断る理由もない。いいよ、と返事をして、その前にシャワーかなと立ち上がった。



 着替えて外に出る。家の鍵を締めるシグを待って、海からの風に目を細めた。

「寒いか?」
「大丈夫。シグは?」
「平気」

 時刻はもう、夕方で。あと三十分もすれば、日が沈み始めてしまうだろう。

「起こしてくれてよかったのに」
「具合悪いとき、うなされてただろ。今日は静かだったから、気のすむまで寝かしてやろうと思って」
「……まぁ、寝たの朝方だったしな……」
「昼夜逆転しないようにしないとな」

 笑いながら、大通りに出る。坂道を下れば、いつも俺が買い物をする市場が見えた。

「元気になったのかい?」
「おかげさまで」

 市場の一角を切り盛りする女性に声をかけられ、軽く会釈して答える。
 シグに湯たんぽなるものをくれた彼女は、よかったねぇと豪快に笑った。

「次にあんたがきたらこれ渡そうと思ってたんだけど」
「なんですか?」

 差し出された、そこそこ太い瓶。それを見てシグが尋ねると、女性はレモンのはちみつ漬けだよと答える。

「喉にいいんだよ。元気になったんだったら、お茶の供にでもしてやんな」
「え、あ、いいんですか」
「いいも何も、あんたたちのために作っておいたんだからさ、持ってっておくれよ」
「……えっと、じゃあ……そっちのオレンジとブドウください。あとカシスあります?」

 俺と女性のやりとりを、瓶を受け取ったシグが一歩後ろで見守っていてくれて。
 さすがにもらってばかりじゃ、とフルーツをいくつか買った俺から、紙袋を奪い取っていった。
 それじゃ、と二人で礼を言って市場を後にする。

「心配してくれてたから」
「ん。顔出せてよかった……外行こうって、もしかしてそのため?」
「半分は」

 じゃああと半分はなんなんだよ、と思いながら少し先を行くシグを追いかけて歩く。
 誘導されるままについて行くと、到着したのは海のすぐ近くの場所で。砂浜まで下りられるようになっているからと、手を引いてくれた。

「……綺麗」
「なあ、覚えてるか?」

 夕日がゆっくりと傾いていくのを眺める俺に、彼は小さくつぶやくように言う。

「海なんか見たことなかった俺を、お前が……ここに連れてきてくれたこと」
「……忘れるわけ、ないだろ」

 二人、手を繋いで。
 あの日シグが夢中になってシャッターを切っていた夕日を、並んで見つめた。
 持っていた、フルーツの詰め込まれた紙袋を足元に置いて、繋いでいる手はそのままに、空いたほうの手でジャケットのポケットを探る。
 何か探してるなら、と手を離そうとするけれど、他ならぬシグによってそれは阻止された。

「エディ。これ、もらって」
「なに……?」

 手が持ち上げられて、ひっくり返されて。俺の手のひらの上に、小さな箱が乗る。

「お前と離れて仕事してるとき、思った。帰る場所があるって、ものすごく特別で、贅沢だって」
「それ、は……俺が、そうしてやりたいからで」
「エディがそう思ってくれること自体が、特別なんだ。でもお前、帰ってきたらあんなだし……正直、心配すぎて心臓止まるかと思った」
「……馬鹿」

 たとえ俺が死んだって、俺はお前に生きてて欲しいし、幸せでいて欲しいのに。

「本当は、帰ってきてすぐに渡そうと思ってたんだ。そんで、ずっと俺の帰る場所でいて欲しいって、そう言おうと思ってた。だけど」

 シグの手が伸びてきて、小さな箱を開けた。
 中には、小さな銀色の輪が二つ、収まっている。

「それは俺のエゴでしかないって、気付かされた。だから……エディ」
「は、はいっ」

 その声も表情も目も、全部が、真剣で。
 上擦った声が出てしまった俺を笑うこともなく、じっと見つめてシグは言った。

「俺がどこへ行っても、ついてきてくれないか」
「……どこ、へ?」
「今回みたいに、仕事だろうとなんだろうと離れたくない。俺がお前のところへ帰りたいって思うように、お前に俺のそばにいたいって思って欲しい」

 なんて言う言葉を返していいかわからなくて、戸惑ったままシグと手の中の物を交互に見る。
 その代わり、と。銀色の輪をひとつ手に取って、シグが続けた。

「もしもまた、お前が悪魔に戻りそうになってもいつでも俺が引き戻してやるから」
「……あ」
「それでも、俺でも引き戻すことができないのなら、俺もそっちに連れてってくれよ。地獄でも冥界でも、どこでもエディのいるところに行くから」

 俺の左手を優しく取って、その薬指に銀色の輪がはめられるのをじっと見つめる。

「人間は、結婚――一生一緒にいるっていう約束をする時に、同じ指輪を同じ指にするんだ」
「そう、なの?」
「ああ。だから、これは俺とお前がどんなときでもずっと一緒に、そばにいるっていう約束。もう一個、俺の指に入れてくれる?」

 正直、俺にはいまだに人間のことがよくわからない。
 今シグがしてることが、どれほどの意味を持つのかもわからない。
 だけど、シグが。そんな俺に、まるで夢で見たそのままの言葉をくれるから。

「……手、貸して」

 見様見真似で、シグがそうしてくれたように。箱の中からその輪を取り出して、差し出された左手の薬指にそっと、それを収めた。

「ありがとうな」
「おれの、せりふ」
「……なくなよ、ほら」

 光る銀色をつけた手が、俺の頭を優しく撫でる。
 だから、両腕を回してぎゅう、と抱きついて、シグの肩越しに沈んでいく夕日を、ぼやけた視界で見つめていた。

 
 夜の帳が下りて、俺の涙もやっと止まって。
 沈んじゃったな、と呟く俺に、また明日も見られるさとお前は笑う。
 片手に果物の入った紙袋、もう片方の手は俺の手を緩く掴んで。

「飯、どうしよっか」
「あるもんで俺がなんか作るよ。久しぶりに」
「ポトフまだ残ってるぞ?」
「ん、あっため直して食べよ」

 ところで、とシグが言った。

「この果物どーすんの?」
「あー、サングリア作ろっかなって。明日あたり、アレクたちも呼んでさ」
「いいな、それ」

 横を歩く彼の顔を盗み見ながら思う。
 こうして、何気なく明日の話ができることが、どれだけ幸せなことか、と。

「シグルド」
「どうした?」

 だから、俺は。
 
「……帰ったら、歌ってもいいかな」

 当たり前だ、と笑って頷くお前に。
 言葉じゃ伝えきれない愛してるを乗せて、何度だって歌うんだ。
 
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