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はあ、と口からため息が零れる。
とはいえ、それで解決するわけでもない。問題を先送りにしている自覚はあって、そしてそれを黙っていることで自分をより追い詰めているような気はしていた。
「飯できたよ」
「お、サンキュ。今日何?」
「魚」
「アバウトすぎね?」
幸い、俺の辛気臭いため息は恋人の耳に届かなかったようだ。それにほっとしながら、いい匂いの元を探しに行く。
「……煮魚?」
「うん。さばみそ」
「うまそう。何手伝えばいい?」
勝手知ったる俺の家のキッチンで料理をしている姿が愛しい。
じゃあお皿とお箸出して、なんて言うその声も言葉も、何もかもが好きで。俺の好きだという気持ちが具現化しているような気すらしてくる。
言われた通りに茶碗と箸を用意し、出来上がりを告げた炊飯器から二人分の飯を盛った。テーブルに配置すれば、それに合わせるように魚が鎮座した皿も置かれる。
「あと冷蔵庫にポテトサラダあるよ」
「昨日のやつ?食うわ」
「……お前って、残り物とか作り置きとかも綺麗に食ってくれるよなぁ」
「樹の作ったもん、捨てるなんて勿体なさすぎるからな。うまいし」
「あ、ありがと」
褒めれば顔を赤く染めて。照れながら、食べよ、と俺の横に座った。
一緒に皿の上を空にすれば、片づけは俺の仕事だ。皿を洗って片づけている間に樹がコーヒーメーカーのスイッチを押した。
ほどなくして香ばしい匂いがして、それがマグカップに注がれる。
「終わった?」
「ああ」
ちょっとした籠に入っている、スティックシュガーとポーションミルクも一緒にテーブルへと移動させるから、俺は俺で小さなスプーンを二本出した。
コーヒーを傾けている、その俺の頬に視線を感じてそちらを向く。
「どうした?」
「こっちの台詞」
前言撤回。ため息は聞こえていたらしい。
「なんかあったのかよ?俺でよければ、話くらい聞くけど」
「あー……うん、悪い」
「謝ってほしいわけじゃねぇって。ただ、なんか心ここに非ずって感じだからさ……俺に、できることなら、その、何とかしてやりたいし」
言いながら、自分の言葉にたぶん少し恥ずかしくなって。緑色のマグカップを両手で抱えるみたいに持って、もごもごと樹は言った。
そんな様子もとにかくかわいい。嬉しさがこみあげてきて、さらりと流れる髪を軽く撫でる。
「ちょっと、頼んでもいいか?」
「え、えっと、何を?」
実は、とことの次第話し出した俺を驚いた目が見た。
明らかに戸惑う姿に、言わないほうがよかったかとほんの少しの後悔がこみあげる。
「そ、それは、俺が行っていいもんなの?」
「俺はお前以外連れて行きたくない。だから――もう一年か?ずっと断り続けてきたんだけど」
「そ、っか……」
「いい加減顔を出せって親父にせっつかれてんだよ。付き合ってる恋人がいるってのは知ってるし」
「う、うん」
かあ、と音がするんじゃないかと思うほど顔が一瞬で赤くなる。
「で、でも、相手が、その」
「まあなあ。さすがに男だってことは言ってねーから」
「それで、その、俺がお前の、その、こい、びととして、行くのって、ハードル高くね……?」
「でも俺一人で行って何かあっても嫌だし」
なんかってなんだよ、と眉をひそめる。言っていいものか迷って結局言うのはやめておこうと思い直し、適当に誤魔化した。無駄に不安にさせたくはない。
「お前が嫌なら無理強いはしねェよ」
「っ、で、でも、圭人のお父さんは」
「言わせときゃいいって。少なくとも俺は、今それよりもお前の方が大事だし」
「……けど、お前、さぁ。いつかは、会社、継ぐんだろ?」
それはまあ、そのつもりではあるのだけれど。
正直なところ、勘当されたとしても俺は樹を選びたいぐらいの気持ちはある。
とはいえ、それを樹本人がけして良しとしないのも嫌というほどわかっていた。俺の将来とこいつを天秤にかけて、結果樹を優先しようものならきっと黙って俺の目の前から消えてしまうだろう。
隣にいてくれる恋人がそういう性格というか性分なのも、またよく理解していた。
「そりゃいつかは継ぐだろうけど、今すぐって話でもねーし」
「だ、だからって、さぁ」
「またなんか変な引け目感じてんの?」
「引け目、っていう、か……その、もし、もしな?お前が、会社継いで……その、一族経営、だったら、さぁ」
ぼそぼそとマグカップの中に落とす言葉を聞きとって、やっぱりと納得してしまう。
「なんの心配してんだよ」
「だ、って、だって」
「親父はたたき上げの人間だし、会社だって一族経営ってわけじゃねェから安心しろって。それでも血縁どうこう言うなら弟がいるしな」
「……ごめん」
「さすがにいまどき政略結婚もないだろ。そんなんしなきゃ維持できない会社なら、親父のことだからとっとと潰すって」
安心させるように笑ってみせると、やっと樹の肩から力が抜けた。
話が逸れたな、と、そもそも俺が樹に頼んだことを思い出す。
「で、きてくれんの?」
嫌だというなら、もうこれ以上この話はしないと決めて問いかけた。
すると、少し考える素振りをする。それからこくこくとマグカップの中身を飲み干し、首を傾げて俺を見て言った。
「楓と、智にぃも、連れてっていい?」
面倒な格好に着替えている間にも、頭に浮かぶのは樹のことばかりだ。
楓と智にぃを連れてきたがったのは、おそらく自分の安心できるテリトリーを作りたかったんだろう。猫みたいだな、なんて思う。
まあ、俺としても気を使うばかりの場所に彼らがいてくれることは嬉しくもあった。
髪を整えて、ジャケットを羽織る。俺ですらあまり慣れない、というか好んでしない恰好なだけに、着飾られているだろう三人がどうしているのか少し気になった。
「入るぞー」
三人に使うように言った部屋のドアを軽くノックし、答えは待たずに開ける。案の定、返事ぐらい待てよという楓の声が飛んできた。
「別にいいだろ。で、どうよ……おーい何隠れてんだお前ら」
「恥ずかしいんだってさ」
「さすが智にぃは慣れてんな」
「うるさいよ。君ほどじゃないし」
「俺は別に着させられてるだけなんで?」
彼のバイト遍歴を思い出しつつ言うと反撃を食らう。茶化して返すと、呆れの苦笑が聞こえた。
「僕が着てるのは所詮量販だし?圭人くんのそれはオーダーメイドでしょうに」
「わかるもんだな。さすが」
「いいからそういうの。楓、樹、おいで」
『うううう』
続き部屋に引っ込んでいるらしい双子に智にぃが声をかけると、二重の唸り声が響く。
着るものは好きに選んでくれと言っておいたから、そんなに妙なものはないはずだけれどと首を傾げた。
実際、智にぃが着ているのは暗い青のドレススーツだ。少しの遊び心なのか、夜空を思わせるようなラメが小さく入っているけれどそんなに派手さはない。いつぞやホストごっこをしたときのほうがよっぽど派手だ。
形もごくごく普通のフォーマルなもので、それを嫌味なく着こなしている。
「そんなにアレな服じゃねーだろ?」
「まぁね。ただ、僕はまだいいんだけど二人にちょうどいいのが――あ、きたきた」
その声につられ、智にぃの視線を追った。
続き部屋の扉からまず楓が顔だけを覗かせている。いつもより少しだけ、しっかりとメイクしているように見えた。
「お、いいじゃん」
「ほんとかよ……」
率直な俺の感想を疑うような表情で見る。だからちらりと智にぃのほうに目をやると、彼は満面の笑みで頷いた。
それでやっとほっとしたのか、楓にしては珍しくおずおずと姿を現す。
白いように見えるスーツは、よく見るとほんの少し薄い赤色が乗っていて。だけれど綺麗な色合いのその胸元は、なぜだか繊細なレースで彩られていた。
「あれ、ドレスシャツなかったか?」
「でかいんだよ……俺らとお前と身長大して変わらねぇから大丈夫だと思ったのに……」
「厚みがちょっとねぇ。違ったんだよね」
なるほど、と納得しつつ。よく今着ているそれがあったなと思う。
「それでちょっと困ってたら、えーと、執事さん?がいろいろ持ってきてくれて、ね」
「あとで礼言っとくわ。俺ので大丈夫かと思って油断した」
「おい樹!早く出てこいっつの!」
「うううう」
楓はもう吹っ切れたらしいが、まだ樹は隣の部屋でうなっている。
呆れた息を吐いて、すたすたと楓がそちらへ向かった。少しの時間のあと、引きずられるように樹が出てくる。
「似合ってんじゃん」
「うう……お前、サイズ確認くらいしとけよ……」
唇を尖らせ、楓の後ろから俺を睨みつけてくるけれど何も怖くない。むしろかわいい。
「悪かったって。でも結果オーライだろ?普通のスーツよりそっちのほうが似合ってる」
「……ほんと?」
おそるおそる、といった様子で。苦笑する楓から少しずつ離れ、俺の前に立ってくれた。
淡い緑色の、光沢の入った生地。楓のそれと同じように、繊細で華奢な同じ色のレースが胸元から袖に向かって覆っている。たっぷりのドレープが施された足のほうはパッと見スカートに見えなくもないけれど、しっかりとパンツだ。
「うん、かわいい」
「か、かわいい、って、お前なぁ……ジャケット的なのない?落ち着かない、この腕のあたりとか」
「楓が着てるようなのならありそうだけど……ちょっとクローゼット探してみるか」
その場に智にぃと楓を残し、樹を連れて奥の部屋に向かう。
双子が隠れていたその部屋にあるクローゼットを開けて、樹が羽織れそうなものを探してみるけれど、生憎ちょうどいいジャケットは見当たらなかった。
「うーん……ねーな……そのままでもいいと思うけど」
「本当に何もない?なんだったらもうストールとかでもいい」
「ああ、それなら」
奥の方に手を伸ばしてみる。
俺が手に取ったそれを手渡すと、首を傾げた樹が軽く広げた。向こうが透ける素材の、深い青色をした生地にスパンコールが品よくちりばめられているそれを、渋々といった様子で肩から羽織る。
「……心もとないけど、ないよりマシかな……」
「似合う似合う」
ほんとかよ、とまた疑うように言うから、その細い腰に手を回して引き寄せた。
「っ、ちょ」
「あんまり疑ってるとこの場で押し倒すぞ?」
「な、なな、なに、や、ちょっと、近い」
「いつもと同じだろ?」
至近距離で目を合わせ、小さく笑う。
数秒固まったかと思うと、レース越しでもわかるぐらいに肌が赤く染まった。
「ち、ちがう、違うって」
「何が」
「お、おまえ、の、その恰好とか、髪型、とか!ずるい!」
「あ」
ぐい、と胸を押されて。真っ赤になったまま、俺の手が緩んだ瞬間に抜け出した樹は小走りで向こうの部屋へ戻ってしまう。
あーあ、なんて口から零しつつ俺もその後を追うと、案の定目を三角にした楓に何してんだよと怒鳴られた。
目の前に広がる煌びやかな光景を、右から左へと受け流す。
何しろ、俺の頭の中はそんなことどうでもよくて。三人で固まっているのを視界の端に見つけ、群がってくる相手に軽く会釈をするとその場から離れた。
「食ってる?」
「あ、圭人」
「向こうはもういいの?」
くる、と振り返った楓と智にぃが言う。大丈夫と返せば、樹の手からグラスが回ってきた。
「悪いな、こんな場所に連れ出してさ」
「今かよ」
「そう言うなって、楓。あとでみんな親父にも紹介するから、もうしばらく好きに飯でも食ってて」
「……圭人」
軽く、服の袖を引かれる。受け取ったグラスを反対側の手に持ち直してから、どうしたと問いかけた。
じっと俺を見る両目には、たぶんだけれど気遣いの色が浮かんでいる。
「大丈夫だって。お前のほうが心配」
「俺は、楓と智にぃといるから大丈夫だよ」
「変なのに声かけられてもついてくなよ?」
周りからは見えないよう、ほんの少しだけ耳元に唇で触れて笑えばまた顔を赤くして。
「ほら、そういうのが心配。かわいいから」
「ば、馬鹿、いうな、って」
「はいはい、二人とも。公衆の面前」
「ったく何してんだよ。ほら樹あっち見てみよ美味そう」
呆れた楓と智にぃに引きはがされ、苦笑して軽く手を振った。頼むな、という意味がこめられたそれに気づいてか、二人が頷く。
「ったく、本当に窮屈でしかねーわ」
そんな悪態を漏らしつつ、俺は俺で、手にしていたグラスを軽く煽って空にして。指定のテーブルに戻すと、諦めのため息とともに壁のほうへと戻った。
視線を巡らせ、父親の姿を探す。見つからない。
壁に寄りかかってぼうっとしていると、すぐに数人が話しかけてくる。彼らの目的は、俺ではなく俺の探している父親だ。
「大学に編入なされたの?」
「さすが、ご優秀で。弟様も日本に戻られていらっしゃるとのことで、いや楽しみですな」
「あら、将来はやはり……」
見え透いたお世辞と、会社の未来を探るような会話をのらりくらりと受け流す。こんなことばかり慣れても仕方がないだろうにと、胸中で自虐の息を漏らした。
樹と付き合いだしてから、めっきり顔を出さなくなったいわゆる社交パーティー。主催こそ俺の父親ではないが、その友人であるため一応の義理は果たす必要があって。
付き合っている相手がいるならちゃんと連れてこいと再三言われていたわけだけれども、さすがに男の樹をいきなり紹介する勇気は俺にはなかった。
だから、とりあえず大学の友人として、父親に紹介しようと思い――面倒なことは一度で終わらせてしまえとばかりに、樹をパーティーに誘ったわけだ。
楓と智にぃも、と言われたのは予定外ではあったけれど、予想はできた。それで樹が安心できるならそのほうがいいし、何より妙な虫がつかないとも限らない。この通り俺は、四六時中あいつの側にいてやれるわけでもないし。
服がない、と双子が嘆くので、好きなものを着ろと俺のスーツやらなんやらを貸したけれど、微妙にサイズが合わなかったのだけは誤算だった。身長なんか大して変わらないのにな、と苦笑が零れる。
「楽しそうですね?」
「いや、失礼」
俺の小さな笑いを耳にしたらしい、黒いドレスの女性が微笑んだ。その顔には見覚えがある。確か、そこそこ大きな会社の社長、その一人娘だったような。
「てっきり退屈してらっしゃるのかと思いましたので」
「思い出し笑い、ってやつです。級友に面白いやつがいまして」
「そうでしたの。わたくしもぜひお聞きしたいわ」
「そんなわざわざお話するようなエピソードでもありませんよ。期待させて申し訳ありませんが」
漂う香水の匂いに、眉をしかめないように神経を使いつつ返していると、彼女はころころと笑った。
その笑顔は、おそらく魅力的なそれなのだろう。けれど、俺の頭の中を占めるのは、そんな彼女の微笑みでも、谷間が見えそうなほど開いた胸元でもない。
目を逸らした俺に何を勘違いしたのか、彼女は白い指先を伸ばした。
「――あの、もしよろしければ少し外の空気を吸いに行きません?」
「俺とですか?」
「ずいぶんなことをおっしゃられるのね。他にどなたかいらっしゃいます?」
伸びてきた指は、俺の腕に触れる。品定めするような、撫でさするような動きに鳥肌が立った。
とはいえ、さすがに面と向かって触るなとはっきり言うのも角が立つ。口元にだけは笑みを浮かべ、その手に自分の手を重ねた。
「御冗談を。俺でなくても、貴女なら引く手あまたでしょうに」
「わたくしは貴方をお誘いしていますの。はしたないとお思いかしら」
「いえ?とても魅力的だと思います――ただ」
「ただ?」
首を傾げた彼女に苦笑して。
「申し訳ありませんが、心に決めた人がこの会場にいますので。見られて誤解でもされたら泣いてしまいます、俺が」
「――そこまでおっしゃられるなら、しつこくするのも無粋ですわね。できればその方をご紹介いただきたいけれど」
「そうですね、機会があれば」
これ以上踏み込んでくれるな、という圧が通じたのかどうかはわからないが、眉尻を下げた彼女はそれじゃあ、という言葉を残しその場から立ち去ってくれる。
なんとか安堵して、慌てて会場内を見回した。本当に誤解されでもしたら、土下座のひとつもしなくては俺の気が収まらない。
幸いというべきか、樹の姿は見つけられなくて。楓と智にぃもいないので、どこかで三人一緒にいてくれているのだろうと息を吐いた。
とはいえ、それで解決するわけでもない。問題を先送りにしている自覚はあって、そしてそれを黙っていることで自分をより追い詰めているような気はしていた。
「飯できたよ」
「お、サンキュ。今日何?」
「魚」
「アバウトすぎね?」
幸い、俺の辛気臭いため息は恋人の耳に届かなかったようだ。それにほっとしながら、いい匂いの元を探しに行く。
「……煮魚?」
「うん。さばみそ」
「うまそう。何手伝えばいい?」
勝手知ったる俺の家のキッチンで料理をしている姿が愛しい。
じゃあお皿とお箸出して、なんて言うその声も言葉も、何もかもが好きで。俺の好きだという気持ちが具現化しているような気すらしてくる。
言われた通りに茶碗と箸を用意し、出来上がりを告げた炊飯器から二人分の飯を盛った。テーブルに配置すれば、それに合わせるように魚が鎮座した皿も置かれる。
「あと冷蔵庫にポテトサラダあるよ」
「昨日のやつ?食うわ」
「……お前って、残り物とか作り置きとかも綺麗に食ってくれるよなぁ」
「樹の作ったもん、捨てるなんて勿体なさすぎるからな。うまいし」
「あ、ありがと」
褒めれば顔を赤く染めて。照れながら、食べよ、と俺の横に座った。
一緒に皿の上を空にすれば、片づけは俺の仕事だ。皿を洗って片づけている間に樹がコーヒーメーカーのスイッチを押した。
ほどなくして香ばしい匂いがして、それがマグカップに注がれる。
「終わった?」
「ああ」
ちょっとした籠に入っている、スティックシュガーとポーションミルクも一緒にテーブルへと移動させるから、俺は俺で小さなスプーンを二本出した。
コーヒーを傾けている、その俺の頬に視線を感じてそちらを向く。
「どうした?」
「こっちの台詞」
前言撤回。ため息は聞こえていたらしい。
「なんかあったのかよ?俺でよければ、話くらい聞くけど」
「あー……うん、悪い」
「謝ってほしいわけじゃねぇって。ただ、なんか心ここに非ずって感じだからさ……俺に、できることなら、その、何とかしてやりたいし」
言いながら、自分の言葉にたぶん少し恥ずかしくなって。緑色のマグカップを両手で抱えるみたいに持って、もごもごと樹は言った。
そんな様子もとにかくかわいい。嬉しさがこみあげてきて、さらりと流れる髪を軽く撫でる。
「ちょっと、頼んでもいいか?」
「え、えっと、何を?」
実は、とことの次第話し出した俺を驚いた目が見た。
明らかに戸惑う姿に、言わないほうがよかったかとほんの少しの後悔がこみあげる。
「そ、それは、俺が行っていいもんなの?」
「俺はお前以外連れて行きたくない。だから――もう一年か?ずっと断り続けてきたんだけど」
「そ、っか……」
「いい加減顔を出せって親父にせっつかれてんだよ。付き合ってる恋人がいるってのは知ってるし」
「う、うん」
かあ、と音がするんじゃないかと思うほど顔が一瞬で赤くなる。
「で、でも、相手が、その」
「まあなあ。さすがに男だってことは言ってねーから」
「それで、その、俺がお前の、その、こい、びととして、行くのって、ハードル高くね……?」
「でも俺一人で行って何かあっても嫌だし」
なんかってなんだよ、と眉をひそめる。言っていいものか迷って結局言うのはやめておこうと思い直し、適当に誤魔化した。無駄に不安にさせたくはない。
「お前が嫌なら無理強いはしねェよ」
「っ、で、でも、圭人のお父さんは」
「言わせときゃいいって。少なくとも俺は、今それよりもお前の方が大事だし」
「……けど、お前、さぁ。いつかは、会社、継ぐんだろ?」
それはまあ、そのつもりではあるのだけれど。
正直なところ、勘当されたとしても俺は樹を選びたいぐらいの気持ちはある。
とはいえ、それを樹本人がけして良しとしないのも嫌というほどわかっていた。俺の将来とこいつを天秤にかけて、結果樹を優先しようものならきっと黙って俺の目の前から消えてしまうだろう。
隣にいてくれる恋人がそういう性格というか性分なのも、またよく理解していた。
「そりゃいつかは継ぐだろうけど、今すぐって話でもねーし」
「だ、だからって、さぁ」
「またなんか変な引け目感じてんの?」
「引け目、っていう、か……その、もし、もしな?お前が、会社継いで……その、一族経営、だったら、さぁ」
ぼそぼそとマグカップの中に落とす言葉を聞きとって、やっぱりと納得してしまう。
「なんの心配してんだよ」
「だ、って、だって」
「親父はたたき上げの人間だし、会社だって一族経営ってわけじゃねェから安心しろって。それでも血縁どうこう言うなら弟がいるしな」
「……ごめん」
「さすがにいまどき政略結婚もないだろ。そんなんしなきゃ維持できない会社なら、親父のことだからとっとと潰すって」
安心させるように笑ってみせると、やっと樹の肩から力が抜けた。
話が逸れたな、と、そもそも俺が樹に頼んだことを思い出す。
「で、きてくれんの?」
嫌だというなら、もうこれ以上この話はしないと決めて問いかけた。
すると、少し考える素振りをする。それからこくこくとマグカップの中身を飲み干し、首を傾げて俺を見て言った。
「楓と、智にぃも、連れてっていい?」
面倒な格好に着替えている間にも、頭に浮かぶのは樹のことばかりだ。
楓と智にぃを連れてきたがったのは、おそらく自分の安心できるテリトリーを作りたかったんだろう。猫みたいだな、なんて思う。
まあ、俺としても気を使うばかりの場所に彼らがいてくれることは嬉しくもあった。
髪を整えて、ジャケットを羽織る。俺ですらあまり慣れない、というか好んでしない恰好なだけに、着飾られているだろう三人がどうしているのか少し気になった。
「入るぞー」
三人に使うように言った部屋のドアを軽くノックし、答えは待たずに開ける。案の定、返事ぐらい待てよという楓の声が飛んできた。
「別にいいだろ。で、どうよ……おーい何隠れてんだお前ら」
「恥ずかしいんだってさ」
「さすが智にぃは慣れてんな」
「うるさいよ。君ほどじゃないし」
「俺は別に着させられてるだけなんで?」
彼のバイト遍歴を思い出しつつ言うと反撃を食らう。茶化して返すと、呆れの苦笑が聞こえた。
「僕が着てるのは所詮量販だし?圭人くんのそれはオーダーメイドでしょうに」
「わかるもんだな。さすが」
「いいからそういうの。楓、樹、おいで」
『うううう』
続き部屋に引っ込んでいるらしい双子に智にぃが声をかけると、二重の唸り声が響く。
着るものは好きに選んでくれと言っておいたから、そんなに妙なものはないはずだけれどと首を傾げた。
実際、智にぃが着ているのは暗い青のドレススーツだ。少しの遊び心なのか、夜空を思わせるようなラメが小さく入っているけれどそんなに派手さはない。いつぞやホストごっこをしたときのほうがよっぽど派手だ。
形もごくごく普通のフォーマルなもので、それを嫌味なく着こなしている。
「そんなにアレな服じゃねーだろ?」
「まぁね。ただ、僕はまだいいんだけど二人にちょうどいいのが――あ、きたきた」
その声につられ、智にぃの視線を追った。
続き部屋の扉からまず楓が顔だけを覗かせている。いつもより少しだけ、しっかりとメイクしているように見えた。
「お、いいじゃん」
「ほんとかよ……」
率直な俺の感想を疑うような表情で見る。だからちらりと智にぃのほうに目をやると、彼は満面の笑みで頷いた。
それでやっとほっとしたのか、楓にしては珍しくおずおずと姿を現す。
白いように見えるスーツは、よく見るとほんの少し薄い赤色が乗っていて。だけれど綺麗な色合いのその胸元は、なぜだか繊細なレースで彩られていた。
「あれ、ドレスシャツなかったか?」
「でかいんだよ……俺らとお前と身長大して変わらねぇから大丈夫だと思ったのに……」
「厚みがちょっとねぇ。違ったんだよね」
なるほど、と納得しつつ。よく今着ているそれがあったなと思う。
「それでちょっと困ってたら、えーと、執事さん?がいろいろ持ってきてくれて、ね」
「あとで礼言っとくわ。俺ので大丈夫かと思って油断した」
「おい樹!早く出てこいっつの!」
「うううう」
楓はもう吹っ切れたらしいが、まだ樹は隣の部屋でうなっている。
呆れた息を吐いて、すたすたと楓がそちらへ向かった。少しの時間のあと、引きずられるように樹が出てくる。
「似合ってんじゃん」
「うう……お前、サイズ確認くらいしとけよ……」
唇を尖らせ、楓の後ろから俺を睨みつけてくるけれど何も怖くない。むしろかわいい。
「悪かったって。でも結果オーライだろ?普通のスーツよりそっちのほうが似合ってる」
「……ほんと?」
おそるおそる、といった様子で。苦笑する楓から少しずつ離れ、俺の前に立ってくれた。
淡い緑色の、光沢の入った生地。楓のそれと同じように、繊細で華奢な同じ色のレースが胸元から袖に向かって覆っている。たっぷりのドレープが施された足のほうはパッと見スカートに見えなくもないけれど、しっかりとパンツだ。
「うん、かわいい」
「か、かわいい、って、お前なぁ……ジャケット的なのない?落ち着かない、この腕のあたりとか」
「楓が着てるようなのならありそうだけど……ちょっとクローゼット探してみるか」
その場に智にぃと楓を残し、樹を連れて奥の部屋に向かう。
双子が隠れていたその部屋にあるクローゼットを開けて、樹が羽織れそうなものを探してみるけれど、生憎ちょうどいいジャケットは見当たらなかった。
「うーん……ねーな……そのままでもいいと思うけど」
「本当に何もない?なんだったらもうストールとかでもいい」
「ああ、それなら」
奥の方に手を伸ばしてみる。
俺が手に取ったそれを手渡すと、首を傾げた樹が軽く広げた。向こうが透ける素材の、深い青色をした生地にスパンコールが品よくちりばめられているそれを、渋々といった様子で肩から羽織る。
「……心もとないけど、ないよりマシかな……」
「似合う似合う」
ほんとかよ、とまた疑うように言うから、その細い腰に手を回して引き寄せた。
「っ、ちょ」
「あんまり疑ってるとこの場で押し倒すぞ?」
「な、なな、なに、や、ちょっと、近い」
「いつもと同じだろ?」
至近距離で目を合わせ、小さく笑う。
数秒固まったかと思うと、レース越しでもわかるぐらいに肌が赤く染まった。
「ち、ちがう、違うって」
「何が」
「お、おまえ、の、その恰好とか、髪型、とか!ずるい!」
「あ」
ぐい、と胸を押されて。真っ赤になったまま、俺の手が緩んだ瞬間に抜け出した樹は小走りで向こうの部屋へ戻ってしまう。
あーあ、なんて口から零しつつ俺もその後を追うと、案の定目を三角にした楓に何してんだよと怒鳴られた。
目の前に広がる煌びやかな光景を、右から左へと受け流す。
何しろ、俺の頭の中はそんなことどうでもよくて。三人で固まっているのを視界の端に見つけ、群がってくる相手に軽く会釈をするとその場から離れた。
「食ってる?」
「あ、圭人」
「向こうはもういいの?」
くる、と振り返った楓と智にぃが言う。大丈夫と返せば、樹の手からグラスが回ってきた。
「悪いな、こんな場所に連れ出してさ」
「今かよ」
「そう言うなって、楓。あとでみんな親父にも紹介するから、もうしばらく好きに飯でも食ってて」
「……圭人」
軽く、服の袖を引かれる。受け取ったグラスを反対側の手に持ち直してから、どうしたと問いかけた。
じっと俺を見る両目には、たぶんだけれど気遣いの色が浮かんでいる。
「大丈夫だって。お前のほうが心配」
「俺は、楓と智にぃといるから大丈夫だよ」
「変なのに声かけられてもついてくなよ?」
周りからは見えないよう、ほんの少しだけ耳元に唇で触れて笑えばまた顔を赤くして。
「ほら、そういうのが心配。かわいいから」
「ば、馬鹿、いうな、って」
「はいはい、二人とも。公衆の面前」
「ったく何してんだよ。ほら樹あっち見てみよ美味そう」
呆れた楓と智にぃに引きはがされ、苦笑して軽く手を振った。頼むな、という意味がこめられたそれに気づいてか、二人が頷く。
「ったく、本当に窮屈でしかねーわ」
そんな悪態を漏らしつつ、俺は俺で、手にしていたグラスを軽く煽って空にして。指定のテーブルに戻すと、諦めのため息とともに壁のほうへと戻った。
視線を巡らせ、父親の姿を探す。見つからない。
壁に寄りかかってぼうっとしていると、すぐに数人が話しかけてくる。彼らの目的は、俺ではなく俺の探している父親だ。
「大学に編入なされたの?」
「さすが、ご優秀で。弟様も日本に戻られていらっしゃるとのことで、いや楽しみですな」
「あら、将来はやはり……」
見え透いたお世辞と、会社の未来を探るような会話をのらりくらりと受け流す。こんなことばかり慣れても仕方がないだろうにと、胸中で自虐の息を漏らした。
樹と付き合いだしてから、めっきり顔を出さなくなったいわゆる社交パーティー。主催こそ俺の父親ではないが、その友人であるため一応の義理は果たす必要があって。
付き合っている相手がいるならちゃんと連れてこいと再三言われていたわけだけれども、さすがに男の樹をいきなり紹介する勇気は俺にはなかった。
だから、とりあえず大学の友人として、父親に紹介しようと思い――面倒なことは一度で終わらせてしまえとばかりに、樹をパーティーに誘ったわけだ。
楓と智にぃも、と言われたのは予定外ではあったけれど、予想はできた。それで樹が安心できるならそのほうがいいし、何より妙な虫がつかないとも限らない。この通り俺は、四六時中あいつの側にいてやれるわけでもないし。
服がない、と双子が嘆くので、好きなものを着ろと俺のスーツやらなんやらを貸したけれど、微妙にサイズが合わなかったのだけは誤算だった。身長なんか大して変わらないのにな、と苦笑が零れる。
「楽しそうですね?」
「いや、失礼」
俺の小さな笑いを耳にしたらしい、黒いドレスの女性が微笑んだ。その顔には見覚えがある。確か、そこそこ大きな会社の社長、その一人娘だったような。
「てっきり退屈してらっしゃるのかと思いましたので」
「思い出し笑い、ってやつです。級友に面白いやつがいまして」
「そうでしたの。わたくしもぜひお聞きしたいわ」
「そんなわざわざお話するようなエピソードでもありませんよ。期待させて申し訳ありませんが」
漂う香水の匂いに、眉をしかめないように神経を使いつつ返していると、彼女はころころと笑った。
その笑顔は、おそらく魅力的なそれなのだろう。けれど、俺の頭の中を占めるのは、そんな彼女の微笑みでも、谷間が見えそうなほど開いた胸元でもない。
目を逸らした俺に何を勘違いしたのか、彼女は白い指先を伸ばした。
「――あの、もしよろしければ少し外の空気を吸いに行きません?」
「俺とですか?」
「ずいぶんなことをおっしゃられるのね。他にどなたかいらっしゃいます?」
伸びてきた指は、俺の腕に触れる。品定めするような、撫でさするような動きに鳥肌が立った。
とはいえ、さすがに面と向かって触るなとはっきり言うのも角が立つ。口元にだけは笑みを浮かべ、その手に自分の手を重ねた。
「御冗談を。俺でなくても、貴女なら引く手あまたでしょうに」
「わたくしは貴方をお誘いしていますの。はしたないとお思いかしら」
「いえ?とても魅力的だと思います――ただ」
「ただ?」
首を傾げた彼女に苦笑して。
「申し訳ありませんが、心に決めた人がこの会場にいますので。見られて誤解でもされたら泣いてしまいます、俺が」
「――そこまでおっしゃられるなら、しつこくするのも無粋ですわね。できればその方をご紹介いただきたいけれど」
「そうですね、機会があれば」
これ以上踏み込んでくれるな、という圧が通じたのかどうかはわからないが、眉尻を下げた彼女はそれじゃあ、という言葉を残しその場から立ち去ってくれる。
なんとか安堵して、慌てて会場内を見回した。本当に誤解されでもしたら、土下座のひとつもしなくては俺の気が収まらない。
幸いというべきか、樹の姿は見つけられなくて。楓と智にぃもいないので、どこかで三人一緒にいてくれているのだろうと息を吐いた。
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