怖いもののなり損ない

雲晴夏木

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一人目「憶えているよ」

おぼえているよ と かいいは かたる

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 暗い部屋の中、床に広がってもなおまだ足りないほど長い髪を引きずって、枯れ木のように高く細い体を窮屈そうに折り曲げて、は話す。

「お前が覚えていなくとも おれはしっかり覚えてる」

 約束したろ、約束したろと、は彼女に手を伸ばす。

「あんなにはっきり 約束したろう」

 ひび割れたような、ガラスをこすり合わせたような、地の底から響くような、そんな奇妙な声と共に、細く冷たい手が伸ばされる。

「人の子 約束 忘れやすい」

 ぎょろぎょろと大きな目が、髪の隙間から覗く。大きな目は、彼女だけを捉えている。黒髪で縛り上げられた男や赤ん坊には、ちらとも目を向けない。

「だけどおれは 許してやろう」

 迎えに来たぞ、迎えに来たぞと、の声が遠くから重なる。

「どこにいようと 誰といようと お前はおれのものだから」
「夫がいようが 子がいようが 関係ない」

 黒髪を振り乱すは、泣いて首を振り後ずさる彼女の手首を掴んだ。

「つらいことがあったら 帰ってくると」
「もう二度と 外に出ず おれとずっと ともにいるって 約束したろ」

 覚えているよ、覚えているぞと、複数の声が重なる。

「おれはずぅっと 覚えてた」

「痛かったろう」と、彼女の手首を掴む手に力が込められる。
「苦しかったろう」と、ぎょろついた目が震える彼女を見つめる。
「怖かったろう」と、不協和音を奏でる声が彼女をいたわる。

「もう何にも 怖がることはない」
「苦しむことはない」
「痛がることも ない」

「さあ」と、枯れ木のような手が、彼女の手を引いた。

「おれと一緒に 帰ろうか」
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