怖いもののなり損ない

雲晴夏木

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二人目 狐と地蔵とお母さん

ねえ、と声をかけてきたのは女の子

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 女性の失踪からどれほど過ぎたか。季節は自信を持って冬と呼べるほどになり、あなたはコートとマフラーが手放せなくなっていた。
 いつもなら日曜になるまで待つが、この日のあなたはどうも落ち着かず、仕事帰りに『純喫茶・生熟なまなり』へ足を向けた。
 『純喫茶・生熟り』の道に面した窓からは、あたたかな光が漏れている。冷たい風に身を縮めながら、あなたは急ぎ足で『純喫茶・生熟り』に向かった。
 かじかんだ手をドアにかけた時だ。背後から「あのぅ」と呼びかけられた。
 あなたは退社後この『純喫茶・生熟り』に来ている。時計を確かめなくとも、黄昏時をとうに過ぎたのは確かだ。加えて、『純喫茶・生熟り』は賑やかな通りから外れた、商店街の片隅にひっそり佇む店だ。
 こんな時間のこんな場所で子供の声が聞こえたなんて、夢か幻か、はたまた心霊現象か。そうであればようやく自分にも霊感がついたか――とあなたは喜びから勢いよく振り向いた。
 しかしそこにいたのは、赤茶けた何かで顔を汚した女の子だった。黒髪は宵闇に溶けているが、足下の影は宵闇でも存在を主張しており、彼女が実在する人間だと知らしめる。年はちょうど、小学生になった頃に見えた。
 落胆するあなたを見上げ、女の子は身につけた薄汚れたシャツをぎゅうと握り締めた。うるうると涙を浮かべた黒い目が、あなたのがっかりした顔を映し出す。

「あの、あのね。わたし、このおみせに入りたいの」

 お金ならあるよ、と女の子は拙い口調で握り締めた手を開いた。女の子の小さな手の平にあるのは、十円玉が一枚二枚、五十円玉が一枚きり。コーヒーの一杯も飲めない額だ。女の子からは、面倒ごとの気配が漂っていた。
 しかしあなたは呼吸一つ分だけ悩むと、店のドアを開け、女の子に入るよう促した。
 こんな時間に、大人も伴わずにたった一人で出歩いている。身につけた衣服は汚らしく、握り締めた硬貨はスーパーですらまともな買い物もできない少額。女の子はきっと、たった数枚の高価と大きな大きな面倒ごとしか運んでこない。厄介なことになるという予感を抱きながら、あなたはなぜ女の子と入店しただろう?
 それはきっと、二つの理由があるだろう。
 一つは、先日の女性のように、この女の子が頼れるものが何もないという顔をしていたこと。
 もう一つは、この女の子が〝いい話〟を持っている予感がしたこと。
 あなたの中では、後者が女の子と関わる決意をさせただろう。きっとそうに違いない。
 店員はあなたと女の子を見てわずかに目を見開いたが、特に何も言わず、あなたたち二人をいつもの席へ案内した。席に着いたあなたは女の子にメニューを差し出す。女の子はおずおずと受け取ったものの、メニューを広げてたちまち顔を曇らせた。

「これ……もじ、ばっかだねぇ」

 女の子は、字が読めないようだった。あなたはメニューをテーブルに広げさせ、一つひとつ説明した。女の子はあなたの説明に耳を傾け、熱心にうなずくと、クリームソーダを希望した。

「しゅわしゅわの、あまいの、のんでみたい」

 あなたはうなずき、コーヒーとクリームソーダ、そして軽食にホットサンドを頼んだ。この選択は正解だった。女の子はクリームソーダを一口飲んで「ちびたい」と震えてしまい、ホットサンドをありがたそうに食べていた。

 食べて、飲んで、人心地して。

 あなたは女の子がほっと息を吐いて落ち着いたのを見て、どうしてこんな時間に一人でこんな場所にいるのかを尋ねた。女の子はもじもじすると、正面に座るあなたを上目遣いに見上げた。

「このお店、来たら……はなし、きいてもらえるよって、きいたから」

 いったい誰に、とあなたが尋ねる前に、女の子は拙い口調でぽつりぽつりと、あなたが望む〝いい話〟を語り出した。
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