怖いもののなり損ない

雲晴夏木

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二人目 狐と地蔵とお母さん

わたし、ここな――と自己紹介をして

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 わたしね、ここなっていうの。何て字でここなって読むかのは、知らない。学校とか、行ってないから。
 わたしね、あの日は、住んでる町のすみっこの、ちっちゃな森の前にいたの。家にいたら怒られるし、学校には行かせてもらえないから、あそこにいなきゃいけなかったの。
 ちっちゃな森――雑木林ぞぉきばやしっていうの? ふうん、知らなかった。その雑木林とね、お地蔵様の、壊れちゃいそうな小さなおうちの隣。うん? ほこら? へえ、そうなんだ。お地蔵様のおうち、祠っていうんだね。とにかくね、そこがわたしの、怒られないでいられるたった一つの場所だったの。
 近所の子たちが学校に行ってる時間とか、おかあさんが家で寝てるときなんかは、いつもあそこにいたよ。わたし、いっつもお地蔵様に話を聞いてもらってた。お地蔵様が返事をしてくれることは、一回もなかったけどね。
 お地蔵様はね、赤い前掛けをしてた。でもそれはすっごくボロボロで、顔もすり切れたみたいにぼんやりしてた。
 お地蔵様の前には茶色く汚れたお皿が置いてあったけど、そこに何かが載ってるところ、わたしは一回も見たことなかったな。
 わたしがここにいることを許してくれるお地蔵様に、何かあげたかった。だけどわたし、お金もお菓子も持ってなかったの。だから時々雑木林の中に入ってって、つやつやのどんぐりとか、きれいなお花とか、ぴかぴかのきれいな石を取ってきて、お地蔵様の前に置いてた。
 その日もわたしは、お地蔵様のおうちに行ったの。この日はね、わたし、家からお地蔵様のところまでずっと、ずーっと泣きながら歩いてた。
 何で泣いてたかって? 寝てるおかあさんを起こしちゃって、すごく、すっごく怒られたから。
 ライターを持ったおかあさんに、されたから。
 ライターでされるとね、背中がじくじく痛くなるから、すごくやだった。でも家の中で泣いていたらもっと痛いことをされるから、わたし、泣くのは我慢して、おかあさんが開けたドアから家を出たよ。
 泣いたのはね、外に出て、道の上に立って、家から離れてから。泣いても、歩いても、背中は痛かった。痛いのは、お地蔵様のところに行ったって変わらんなかった。でもわたしはほかにどこにも行けないから、お地蔵様のおうちに行って、その隣にしゃがんで泣いての。
 そしたらね、じゃりって、石を踏む音が聞こえたんだ。誰か来たんだって、びっくりした。泣いてるのがバレたら、おかあさんに言われるかもしれない。そうなったら、わたし、またされちゃう。
 どうしようって顔を上げたら、知らない男の子が、お地蔵様のおうちに寄りかかってたの。
 ぼうしのついた青い服に、白い半ズボンをはいた男の子だったよ。髪の毛はもしゃもしゃしてぴょんぴょんしてて、目は閉じてるみたいに細かった。それから、意地悪そうにニヤニヤ笑ってた。

「何で泣いてるの?」

 あの子、意地悪そうなのに、声はすっごく優しかった。だからわたし、いつもなら絶対、誰にも言わないのに、ぽろって言っちゃってたの。

「おかあさんに、いたいことされるの」

 男の子は自分から聞いてきたのに、どうでも良さそうな声で「ふうん」ってうなずいた。わたしが手で顔をごしごししてたら、男の子はきれいな手で、お地蔵様のおうちをぽんと叩いた。お地蔵様のおうちはボロボロだから、男の子がぽんってしただけで、ちっちゃなくずがぱらぱら落ちてた。

「きみ、道祖神ってわかる?」

 どおそじん。
 そんなの、聞いたこともなかった。だからわたしは首を振って「知らない」って答えたの。そしてら男の子、「じゃあ地蔵菩薩は?」ってまた聞くの。後ろのぼさつは知らないけど、前の地蔵はわかった。

「おじぞうさまのことでしょ?」

 わたしがそう訊いたら、男の子は「そうそう」ってうなずいた。

「お地蔵様ってのは元々〝地蔵菩薩〟っていう、とってもえらぁい神様なのさ。それからさっき言った道祖神。これはざっくり言うと、村と村の境目や道、子供にその他いろんなものを守ってくれる神様で、こっちも昔々、きみが思いつくよりもっと昔から、人間に祀られてる。だけど」

 ぺらぺらしゃべってた男の子はそこで区切って、おうちの中を指さした。

「今じゃどっちも同一視され、この町じゃこんな有様さ」

 自分で指さしたお地蔵様を覗き込んで、男の子は「それにしても古びてるなぁ」なんて失礼なことを言った。顔を上げた男の子は、わたしに話しかけたときと同じ、意地悪そうなニヤニヤ笑いをしてた。

「で、だ。地蔵菩薩も道祖神も、どちらも子供を救うもの。子供のきみが必死になって助けを求めれば、ここにいる寂れた寂しい神様は、きみを救ってくれるかもしれないよ」

 すくうって、すくってくれるって、どういうことだろう。わかんなかった。わたし、あんまり……おべんきょうとか、してないから。黙っちゃったわたしに、男の子は「きみでもわかるように言うなら」と人差し指を立てた。

「この祠にいる神様とも呼べる何かは、子供を何より大切に思ってる。だからきみが『助けて』と頼めば、助けてくれるかもね。……ってことだよ」
「でも……」

 おかあさんにされるのは、わたしがおかあさんの言うとおりにできないから。それなのに「たすけて」なんて言えない。言っちゃいけないって、おかあさんに言われた。
 そんな感じのことをもごもご言ってると、男の子はお地蔵様のおうちから離れ、わたしの前にやってきた。
 座り込んだままのわたしを、男の子が見下ろしたの。だからわたしも、男の子を見上げた。影みたいにぼうっと立ってたんだけど、男の子、何でだかわたしの前でしゃがみ込んで、わたしと目を合わせた。
 細かった目がすぅっと開いて、金色のぴかぴかした目が、わたしを見たの。

「本当にきみが悪いなら、ここにいるはきみの願いを聞き届けようとしない。物は試しに、頼むだけ頼んでごらんよ。ダメで元々だろう?」

 金ぴかの目で見られながら、意地悪そうな顔から出てると思えない優しい声でそう言われると、頭がぼうっとして、男の子の言うとおりにしたくなった。何でなんだろう。ふしぎだね。
 わたしは男の子の言うがまま、お地蔵様のおうちの前まで行って、そこで両手を合わせて、ぺこりと頭を下げた。
 ぎゅっと目を閉じ、お地蔵様にお願いしてみた。

「おかあさんが、いたいことするの。もうしないでって、お地蔵様からも、お願いしてください」

 おうちの中で、お地蔵様がごとって動いた――ような、気がした。男の子が揺らしたんじゃないかって? うん、そうかも。わたしもね、そう思ったよ。だからすぐ目を開けたけど、男の子はお地蔵様のおうちの屋根に、こうやって肘をついているだけだった。

「聞き届けられるかどうか、楽しみだね」

 そう言って、男の子はぷいってそっぽ向いて歩いてっちゃったの。雑木林に入ってくみたいだった。わたし、どうしてそう思ったかわかんないけど、あの子に行ってほしくなくて、男の子の青い服を掴んだの。
 男の子はちょっと転びそうになってから、立ち止まって、くるってわたしを振り向いた。振り向いた男の子はもう、金ぴかの目じゃなかった。あのぴかぴかの目は、ぴたって閉じられちゃってた。
 わたし、男の子に名前をおしえたの。何でだか、聞いてほしくなって。絶対、つまんなさそうに「ふうん」って言われるだけなのに。

「わ……わたし、ここなっていうの」
「ふうん」

 男の子の返事はやっぱり、興味なさそうだった。

今時イマドキな名前だね」

 それだけ言って、男の子はまた雑木林に歩いてこうとした。男の子が行っちゃわないように、わたしはぐうって服を掴まなきゃいけなかった。

「なに?」

 男の子の不機嫌そうな声は、をするおかあさんの声そっくりだった。怖かったけど、わたし、男の子に行ってほしくなくて、何回も「あのね」って繰り返した。

「あの……あの」

 何も言えないわたしに、男の子は不機嫌そうな顔から急に、意地悪そうな、でも何だかご機嫌にも見える顔で笑ったの。

「僕の名前を聞きたいの? でも残念、僕は人間なんかに教える名前は持ってないんだ」

 自分だって人間なのに、って思ったけどね、わたし、それは言わなかったよ。だって男の子の影が、すごく、すっごく長ぁく伸びてたから。
 伸びた影のてっぺんで、尖った三角の耳がぴこぴこ動いてた。伸びた影のおしりのところで、ふさふさした四本の尻尾がゆらゆらしてた。
 わたし怖くなって、男の子の服からぱっと手を離した。青い服が、わたしの手からするって抜けた。男の子はニヤニヤ笑ったまま雑木林に入ってって、溶けたみたいに見えなくなった。
 置いてかれたわたしは、しばらく、男の子が消えた雑木林をじーっと見てた。
 それで、それでね。
 男の子に言われて、お地蔵様にお願いした夜なんだけどね。
 わたし、いつも部屋の隅っこで寝てるの。お布団はおかあさんが使ってるから、いらなくなったタオルとか、そういうのを隅っこに敷いて、そこに寝るの。あの日もね、タオルとか、服とかたくさん敷いて寝てた。寝てたんだけど、何かがごとって落ちて、その音で起きちゃった。

 ――重いものが、落ちてくる。飛び跳ねながら、近づいてくる。

 わたしでも、それがわかった。おかあさんもわかったみたい。わたしが起きたのとほとんど同じくらいに、おかあさんも起きて、布団から出た。

「うるっさいわね……。久々の休みなんだから寝かせてよ」

 わたし、なるべく息をしないようにして、タオルとか服の上からはみ出ないようにちっちゃくなって、寝たふりしたの。あの音はわたしのせいじゃないよって、わかってもらえるように。わたしのせいじゃないから、こっちに来ないでねってわかるように。
 寝てます、何もしてませんってわかるようにしてたけど、おかあさんはわたしに向かって歩いてきた。電気はついてなかったけどね、チカッて、何かが光ったのが見えた。あれはね、おかあさんが持ってる、ライターの火だった。

「静かにしてよ、まったく……」

 どすん、ごすんって音がもっと大きくなるのが聞こえた。近づいてくるおかあさんの足が止まったけど、わたしはライターから目が離せなかった。だから、その瞬間も見ちゃったの。
 ライターを持った手だけそのままに、おかあさん、上から飛び乗った何かに頭から潰されちゃった。
 すっごく、すごく、いやな音だったよ。ぐしゃ、みたいな。ぐちゃ、みたいな。何て言えばいいかわかんない、変な音だった。その変な音がしたと思ったら、おかあさん、ぺっちゃんこになってた。
 頭からぺちゃんこになったおかあさん、手だけは残ってた。手だけは潰されないまんま、ライターをぎゅって握って、床の上に転がってた。
 そうなってやっと、わたしはライターからおかあさんをちゃんと見れた。
 おかあさんの頭の上に、あのお地蔵様が、いつもとおんなじ静かな顔で座ってるのが見れた。

「お……おかあさん」

 頭がなくなっちゃったら、返事なんか、できないよねぇ。だけどわたし、わかんなくって。ぺっちゃんこになったおかあさんをね、呼んだの。どうしたらいいのって、訊きたくて。
 そしたら、おかあさんの上に載ってたお地蔵様が、誰かが持ち上げたみたいにふわって浮いてね、それからすごい勢いで、おかあさん――だったもの、の上に落ちたの。
 潰れちゃったおかあさんから、赤くて黒くてどろっとしたのがぴゅーっと出たの。赤くて黒くてどろってしたのはね、わたしの顔に飛んできた。ぬるってして、あったかくもつめたくもなくて、すっごく変なにおいだった。とっても、とってもいやなにおいだった。
 びっくりして、なんにも考えられなくなっちゃって、わたし、ぽかんって口を開けてお地蔵様とおかあさんを見てた。わたしの前で、お地蔵様はもう浮いたりしなかった。おかあさんの上で何回も、何回も、何回もぐるぐる回ってた。潰れちゃったおかあさん、何回もぐるぐるぐりぐりされって、車にひかれたカエルみたいになってた。
 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゅ、ぐちゅってね、いやな音だけが聞こえてた。聞いてたくなんかないのに、わたし、お地蔵様がすることをじっと見て、ただ聞いていた。
 たくさんぐりぐりして、お地蔵様、もういいやって思ったのかなぁ。お地蔵様、またふわって浮くとね、わたしの目の前で、急に消えちゃったの。おかあさんが吸ったたばこの煙が、手でぱたぱたしたら消えちゃったみたいに。
 お地蔵様がいなくなって、おかあさんを潰すいやな音が聞こえなくなって、家の中はすっごく静かになった。静かになったなと思ったら、楽しそうな、意地悪そうな声が笑うのが聞こえたの。

「どうも人間たちの間では、子は宝って言うそうじゃないか」

 雑木林のところで会った、あの男の子の声だった。
 かちんって、何回も聞いた音が聞こえて、わたしは音が聞こえた方を見た。家のドアのところに、あの男の子が立ってて、床に転がってたライターを持ってた。
 壁にもたれる男の子を見て、いつ来たんだろって不思議に思うより、わたしはをされないかどうかが気になって仕方なかった。
 わたしが怖がってるのを知ってて、もっと怖がらせるみたいに、男の子は目を細くして意地悪な顔で笑った。笑った口は耳まで届きそうになってて、その怖い口の中には尖った歯が何本も並んでた。怖くて震えるわたしに、男の子はケケケって笑った。

「宝を蔑ろにしちゃあ、与えた神様だって怒るよねぇ」

 足が汚れちゃうのに、男の子は気にせずわたしのところまでやってきた。縮こまってるわたしの手に、男の子は持ってたライター持たせた。

「これはきみの宝になるのかな。それとも思い出したくない記憶の引き金になるのかな。まあどっちだっていいんだけど。僕、人間なんか嫌いだし」

 何を言ってるかわかんなくて、わたしはただ男の子を見つめてた。男の子はわたしにライターを握らせると、「コン!」と一声鳴いて宙返りを打った。
 ぴょんって跳んだところも、くるって回ったところもしっかり見てた。なのに気づくと男の子はどこにもいなくなっていた。うん、お地蔵様とおんなじだね。
 それで家の中は、潰れちゃったおかあさんと、おかあさんから出た変なにおいのいやな何かで顔を汚したわたしだけになっちゃったの。
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