怖いもののなり損ない

雲晴夏木

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一人目「憶えているよ」

そして女性は語り終え、あなたに縋る

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 女性が語り終えると、待っていたように腕の中の赤ん坊がぐずり始めた。弱々しい泣き声だ。いつもそうなのだろうかと思いながら、あなたは女性にあやされる赤ん坊を見ていた。赤ん坊をあやしながら、女性は徐々に顔を歪め始めた。今にも泣きそうな顔を隠すように、女性は赤ん坊の後頭部へ顔を押しつけた。
 震える声が、続きを語る。

「私……何を約束したか、覚えてないんです。でも、は覚えてる。覚えてるから、期限が迫ってるから、私に思い出させようとしてるんです」

 向こうとは、女性が出会った人ならざる怪異のことで間違いない。「思い出したら」と、女性は水に溺れるように声を絞り出す。

「思い出したら私、きっと……」

 話を聞いていたあなたは、何と声をかければいいか見当もつかなかった。励ます言葉も見つからず、気まずさを感じながら手元へ視線を下ろす。
 女性はしばらくの間、赤ん坊の後頭部に顔を押し当てて震えていた。泣いていたのかもしれない。慰めの言葉をかけてやれたらどれだけいいだろう。あなたはただ、機嫌を直し喃語を漏らす赤ん坊を見つめることしかできなかった。
 震えていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。かすれた声が「見てください」とあなたに手のひらを見せる。
 広げられた手、その左手の薬指に、長い長い黒髪が巻きついていた。
 あなたがぎょっと目を剥くと、女性は乾いた声で笑った。

「夜逃げして、しばらく忘れてたんです。髪が巻きつくようになったのは、夫と出会ってからでした」

 最初は部屋のどこかに、長い髪が落ちているだけだった――と女性は語る。夫となる男性は気にも留めなかったようだが、女性はその異様に長い髪が人のものに思えず、気味の悪さに見かければすぐ捨てていたらしい。
 そうして捨てているのが悪かったのか。いつからかその黒髪は、女性の体のどこかに巻きつくようになってしまったと、女性は語る。

「この子が生まれる頃には、指に巻きつくようになりました。解いても解いても、気がつくと巻きついてる。捨てても捨てても、どこかで異様に長い黒髪が見つかる」

 巻きついていた髪を解くと、女性は机に置かれた紙ナフキンで髪を包んでから、なるべく自分から遠くへ押しやった。幼い女の子が助けもなく自分の力で虫を処理するような、そんな顔だった。
 女性は赤ん坊を胸に抱きしめ、涙を湛えた目であなたをまっすぐ見つめた。

「私には、夫も子供もいます。どうしたらいいんでしょう。こういうのって、お話の中だとどうやって解決してるんですか?」

 あなたはなるほど、と合点した。女性はあなたを心霊トラブルに慣れた霊能者か何かと混同しているようだ。しかし生憎、あなたは怪談話を好むだけの一般人。霊感のれの字すら持ち合わせていない。アドバイスを求められても、何もできないだろう。
 しかし勇気を出して話しかけた女性の心境を思うと、むげにもできない。あなたはなけなしの知識と持ち前の思考回路を総動員し、女性に寺か神社へ相談するようアドバイスした。宗教によっては教会もありかもしれないが、その辺りの判断は専門職に任せるべきだろう。あなたにできるのは、単なる一般人ではなく本職の方を頼るよう説得することだけだ。
 あなたのアドバイスに感激したのか失望したのか――恐らく後者だろう――女性は涙のにじむ目を伏せ「わかりました」とうなずいた。
 ちょうど、雨が止んだ。女性は静かに立ち上がった。

「初めて誰かにこの話を聞いてもらえました。ありがとうございます」

 そう言い残し、女性は固辞するマスターに飲み物の代金を払って店を出て行った。
 赤ん坊の泣き声と女性のひそやかな声が失せ、店内は急にがらんとした。あなたは本を読む気も失せてしまい、残っていたコーヒーを飲み干すと、女性がもう店の前にいないことを確認してから退店した。
 あなたが近所に住む若い女性が失踪したというニュースを聞いたのは、女性と別れてからしばらくのことだった。耳にしたのはゴミ捨て場でのことだった。朝も早い時間だというのに、口さがない奥様方が嬉々として噂を語っていた。
 失踪した女性は、夫と子供を残して忽然と姿を消したそうだ。

「旦那さん、けっこうひどい人なんですって」
「借金こさえてて、酒癖も悪かったそうね」
「そもそも結婚だって、子供ができたから仕方なくしたそうじゃないの」
「その子供もね、どうやら若い頃の旦那さんが無理矢理……」

 定められた場所へ定められたゴミを捨てながら、あなたは井戸端会議を横目に見やった。家庭内の話をどこから仕入れるのだろうと不思議に思いながら、挨拶するあなたに気づきもせず白熱する奥様方の横を通り過ぎる。

 ――いつもは週末に行く『純喫茶・生熟り』に、今日は仕事帰りに行ってみようか。

 そんなことを考え歩き出すあなたの耳に、井戸端会議に熱狂する一人の声が刺さった。

「きっと、何もかも嫌になっちゃって逃げたのよ」

 それは違うだろう――とあなたは思わず振り向きかけた。それを自分で押しとどめ、足を動かす。自宅へと歩きながら、あなたは声に出さず「それは違う」と繰り返した。

 ――彼女が失踪した家、夥しい量の髪が見つかったんだから。

 一本一本が人の背丈より長く、人間の頭から抜けるとは思えない量が、床や壁に貼りついていたらしい。布団で眠っていた夫も、ベビーベッドで眠っていた赤ん坊も、この黒髪でぐるぐる巻きに縛り上げられていたそうだ。
 あなたはそれを知っている。仕事帰り、人集りのできている家の前を通りがかったとき、興奮する野次馬からそう聞いたからだ。家に出入りする警察官から聞いたわけではない。その情報が正しいとは限らない。けれどあなたは、野次馬の語る内容に嘘はないとわかった。あの女性の元に、彼女が語った怪異がやってきたのだとわかった。

 ――彼女が交わした約束は、何だったんだろう。

 気になるが、あなたが知ることは叶わない。あの女性はもう、怪異によってどこかへ連れ去られてしまったのだから。
 真相を知ることはできないけれど、再び『純喫茶・生熟り』に行けば新たな〝いい話〟を知ることができる。
 あなたはそう確信していた。だからこそ、噂話を振り切り歩き続けることができた。
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