2038年1月19日

佐久丸。

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【2038年1月19日】第2章—長野にて(後)

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「さて、どうする? まだ時間あるからどっかで飲もうぜ」

「どこー?」

「うーん、さっき歩いた辺りに行けば色々あるし、軽く飯でも食いながら、ね」

皆神谷計画をした俺たちは、出発する一時頃までだいぶ時間があるので、ダウンを羽織って、再び長野駅前を彷徨くことにした。

「あんまりお腹空いてないんだよね」
いつもは昼飯を食べて仮眠をしたらすぐに「お腹が空いた」と決まり文句のように発するが、さっきのラーメンがだいぶ多かったのだろう。

「まぁ酒でも飲みながらちびちびいきましょうや」

エレベーターを降り、ロビーで軽く会釈を交わす。外に出ると、一月の冷気が頬を刺し、駅前の灯りが乾いた路面に細く伸びていた。

先ほどの裏通りに入ると、昼間の喧騒が嘘のような不穏な静けさが漂う。

俺は周囲を見回して言った。
「暗いね。街灯ないから怖いな」

彼女は小さく肩をすくめる。
「店の明かりだけでなんとかなってるね」

そんな仄暗い光の連なりの中に、控えめなネオンが柔らかな色を添えるように一軒のBarが佇んでいた。
窓枠からこぼれる琥珀色の光は通りすがりの心をそっと掴み、秘密の隠れ家に誘うような予感を漂わせていた。

「ここ良さげじゃない?」

「Bar?」

「ぽいね。ここでいい?」

「うん」
極度の人見知りの彼女はこういう店はかなり警戒心が強く入ろうとしない。とはいえ、俺もなんだかんだ怖かった。常連客ばかりで一見には塩対応とかだったらどうしようとか、そんなことを考えてしまう。

意を決してドアを開けると、ふわりと木の匂いが広がった。中では俺より少し上くらいの年齢の男性と、その奥さんらしい女性が切り盛りしていた。

「いらっしゃいませ」

「あっ、2名です」

「お好きなお席どうぞ」

カウンターが7席、テーブルが2席。客はテーブルに1組と、カウンターに1人だけ。

「カウンターにしようか」

「うん」

壁にはザ・クラッシュの《ロンドン・コーリング》とニルヴァーナのポスター。
スピーカーから流れていたのは、グリーン・デイの “Good Riddance (Time of Your Life)”。

――ロック好きの店か。いい意味で裏切られた気分だ。店員もいい感じだし。

奥さんが水とおしぼりを置いてくれた。
「お決まりになりましたらお声掛けください」

「はい…」

黒板メニューを眺めながら、「飲み物どうする?」と聞くと、彼女は「生でいいかな」と軽く笑う。
「じゃあ、生ビール二つと、フィッシュアンドチップス、粗挽きソーセージ、野沢菜をお願いします」と俺が奥さんに伝えた。

「かしこまりました」
奥さんは店主へ声を掛けると、すぐに油の弾ける音が響いた。

ほどなくして、ビールがカウンターに置かれる。クリーミーな泡がグラスの縁ぎりぎりまできれいに揃い、黄金色との対比が静かに際立っていた。
グラスを合わせ、二人でひと口飲むと、思わず声が漏れた。

「う"ー!!」

「ちょー美味い!!」

グラスを合わせ、ひと口。のどをスーッと抜けていく冷たさと、冴えたキレが体に染み渡る。冬でも十分すぎるほど美味しいビールだった。

「野沢菜です」と奥さんが小鉢を置いた。その瞬間、スピーカーからあの声が響いた。

「……エルレだ!」
ELLEGARDENの「虹」。胸の奥を撃ち抜くサビとメロディに、あの頃の熱が一気に蘇る。

「なんて曲?」

「虹。……高二の時、これで音楽に目覚めて、部活もほったらかしちゃったな。俺が音楽で何か変えられるって思った時です」

「高二かー、わたしはバリバリ社会人だわ」

「もうライブハウス通いしてたでしょ?」

「毎日行ってたね」

「ライブハウスには一人で行って、しかも最前列でワーキャー言いながらはしゃぐのに、こういうBarとか居酒屋は怖気づくの変だね」

「ライブとそれはなんか違うよ。でももうライブハウスも行かなくなったから一人では勇気いるね」

そんな彼女の言葉に俺は少し考えてみた。
「うーん……ライブハウスって、最初からみんなで盛り上がる場だから一人でも混ざれるけど、Barは静かに座って人と関わる場だから、逆に一人だとハードル高いんだろうね」

「Barは沈黙に耐えなきゃいけないからね」

Barのカウンターでこんな話をするもんじゃないかと、ELLEGARDENの虹に耳を傾けながら野沢菜を食べた。

「懐かしい……」
――あの頃、もっと真面目に打ち込んでたら、いまよりマシな自分になれたのかな…
そんな高校二年を思い返しているときにふと、ロビーで見たニュースの見出しが頭をよぎる。〈2038年1月に大災害は起きるのか〉。

「ねぇ、今日ホントになにか起きるのかな?」

「さぁ、どうかな」
彼女は不敵な笑みをしながら返した。

「なんだよそれ」

ちょうどそのとき、ソーセージの盛り合わせが運ばれてきた。香ばしい匂いが漂う。

「おー、旨そう。いただきます」

箸でつかみ、マスタードをちょんとつけて頬張る。表面の張りが弾け、じわりと肉汁が広がった。熱さに思わず顔をしかめながら、ビールで流し込む。

「ぷはぁー、旨いなー」

「この組み合わせ最高」

ノーベル食文化賞があれば、第1号はまさしくこれだ。
すると、エルレの虹が終わり、曲が切り替わった。

” ズチャッ、チャッ、チャッ、チャッ…ズチャッ、チャッ、チャッ…”
特徴的なテレキャスから鳴る枯れた音のカッティングギターがまたガラリと空気を変えた。

THE POLICEの “Roxanne” だ。

「また懐かしいなー」

「洋楽?」

「そう、ポリスってバンド。エルレの細美さんがラジオで好きって言っててハマったんだ。洋楽に目覚めたきっかけだった」

彼女は「へー」と軽く頷いた。

――もし、過去に戻っても、同じ音に胸を震わせるんだろうか…

「……すみません、ハイボールください」

「まだ飲むの?」

「これで最後」

俺は、長野にもこんな店があるのかと感心した。近くに住んでいたら、きっと定期的に通いたくなる場所だ。

ハイボールを飲み干すころでも、時計はまだ十九時前だった。

「まだ時間あるね」と彼女が言う。
「一回ホテル戻って、出発までまた仮眠しようか」
「うん。その前にコンビニ寄ろう」

「……お会計お願いします」

会計を済ませ、店を出ると、夜の冷気が頬を突き刺した。
さっきまでの温もりが嘘のように、吐く息が白く広がる。

俺たちは肩をすくめながらコンビニに寄り、部屋でちょい飲みする酒とつまみをいくつか買った。

そこから先の記憶は曖昧だ。
缶を開けた音と、軽く交わした言葉。
気がつけばベッドに体を沈め、まぶたが重くなっていた。



――教室のざわめき。ステージで演奏する自分。職場での先輩の声と、煩わしい日々。断片的な映像が入り混じり、やがて切れるように暗転する。

胸の奥に、理由のないざわめきだけが残った。目を開けると、時計はすでに深夜零時を過ぎていた。

「うわ、結構寝たな…」
ため息をひとつ吐いて起き上がり、窓から街並みを眺める。

――ただの初詣のついでに行くだけなのに、なぜか緊張するな…

* * *

俺たちはホテルを出て、駅前のタクシー乗り場に向かった。

「タクシー、何年ぶりだろう」彼女が言う。

「あずみちゃん乗んないもんね。俺は帰省するときに一回は乗るから」

電動車が数台、音もなく出入りしていた。

「さぁ、乗ろう」
一台のスライドドアがやわらかく開く。

「こんばんは」

「こんばんは、ご乗車ありがとうございます」

座ると、シートヒーターの温度がじわりと立ち上がった。

「皆神山神社までお願いできますか?」

「……えー、すみません、どの神社でしょうか?」

「皆神山神社です。わかりますかね?」

運転手は聞きなれないようで、しばらく考え込む。

「みなかみやま神社……、申し訳ございません。ちょっと経験が浅いもので、ナビ入れていきますね」

「大丈夫ですよ、お願いします」

運転席脇の小さなモニターにルートが描かれた。
駅前の景色が後ろへ流れていく。信号の青が窓に滲み、シャッターの降りた商店の看板が静かに並ぶ。モーターの微かな唸りと、タイヤが路面を撫でる音だけが続いた。

「問題なく行けば、時間が余るくらいだね」
「あっそうなの? でもまぁ、山だから余裕持っていかないとね」

彼女が膝の上の地図を軽く押さえる。等高線に置いた赤い印が、広告モニターの白い光の下で小さく呼吸しているように見えた。

* * *

フロントガラスの向こう、凍てつく一月の夜に長野駅前の灯りが遠ざかり、闇を帯びた皆神山の斜面が静かに立ち上がる。吐息は白く漂い、冷えた窓ガラスに淡い霧となって映り込んだ。

「ほう、山の中じゃん」彼女が柔らかく呟く。

「なんか不穏な雰囲気だね」俺は軽く笑みを浮かべて返した。

タクシーは夜の稜線を滑るように進み、皆神山神社へと向かう静謐な闇を音もなく突き抜けていく。速度は一定で、まるで時が止まったかのようだった。

「いやあ、すごい場所ですね。こんなとこ初めてですよ」運転手が朗らかに言う。
「本当ですね。こんな辺鄙なところまですみません」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ」

「運転手さんは松代までは乗せたりはするんですか?」

「そうですね、たまにありますが、ほとんど市内が多いですね。けどこんな標高が高いところまでは初めてです」

「そうですか」

しばらくして、運転手がミラー越しに半笑いで言った。
「差し出がましいですが、こんな時間に何されるんですか?」

まぁこの時期に、深夜で、おじさんとおばさんが神社行きって、気になるのが普通か。俺は適当にその場しのぎのでまかせを口にした。

「親戚の家が近くにあるんですよ、それで初詣もまだなんでそれも兼ねて行こうかと……」
咄嗟に思いついた理由だが、かなり苦しかった。嘘をつくならもう少しまともなことを言えないのかと恥ずかしくなった。ふと、彼女の顔をチラッとみると少し笑いを堪えてる感じだった。

ほれみろ、運転手もどうリアクションしていいか、返しに困ってる。

「……そうですか……」
運転手が頭を巡らせた末の返答がこれだ。申し訳ない。

やがて坂道を登り切ったタクシーは、皆神山神社の鳥居の前にひっそりと停まった。

「ここか……」

月光に照らされたその姿は、まるで古の物語の入り口のようだった。

「ありがとうございました。帰り道、気をつけてくださいね」

車内から出ると、山の冷気が肌を突き刺す。吐く息が白く膨らみ、すぐに夜に溶けていった。

境内は深夜ということもあり、真っ暗で照明もほとんどなく、霜や石段だけが冷たく光っている。もちろん参拝客はゼロ、人の声も足音もない。遠くで風が木を揺らす音とか、枝の軋みだけが響く。

「……怖いな」思わず口から漏れる。

「うん。なんか、人がいないほうが余計に」彼女の声もわずかに震えていた。

鳥居をくぐり、霜の残る石段を数十段のぼると、すぐに小さな拝殿が現れた。
灯りは一つもなく、月明かりと懐中電灯の光だけが板壁を照らしている。
その正面に、古びた賽銭箱がぽつんと置かれていた。

俺は財布から自販機のお釣りを取り出した。
「とりあえず五十円で……」

投げ入れた硬貨は、乾いた音を立てて底に転がった。
境内には他に人影がなく、その音だけがやけに大きく響く。

二礼二拍手一礼。
冷たい空気に響いた手の音は、反響もせずに山へ吸い込まれていった。
普段なら混じり合うはずの他人の祈りもなく、余計に不気味さが募る。

目を閉じると、またロビーで見たニュースの見出しがよぎった。
〈2038年1月に大災害は起きるのか〉
祈りと予感が、暗闇の中でひとつに重なっていった。

参拝を終えて横に逸れると、境内の端は人影もなく、闇が濃く沈んでいた。
風も止み、提灯の残り火すら見えない。木々の影が重なり、足を踏み入れるのを拒むように口を閉ざしている。

彼女がスマホを取り出し、画面に浮かぶ地図を指でなぞった。
「ここから先、尾根に入るんだけど……行く?」
その声には不安が滲んでいた。

「考えるよね」俺は渋い顔をしながらも、「行く?」というこの問いを口にすることは予測していた。彼女が準備してきたのは分かってる。何日も前から地図を睨み、メモを重ねてたのも知ってる。それでも、こんな深夜の山の奥に踏み込むのは、さすがにビビる。

「てか、どのくらいかかるの?」

「三十分くらい」

「あっ、けっこう歩くんだね……」
吐いた息が白く揺れ、すぐに闇に吸い込まれていく。

「でもここで引き返すといっても、降りるまで一時間はかかるでしょ?」
彼女が肩をすくめる。

「まぁ、ここまで来たし……行ってみるか」

「うん。でも寒さは増すから、無理しないで。もういい歳だから、わたしすでに膝が固まってきてるし」

「うん、まだ時間あるしゆっくり行こう。足元だけはしっかりね」

俺たちは境内を外れ、石段の脇から細い踏み跡に入った。懐中電灯の光が地面をなぞり、白い霜がきらきらと反射する。市内では雪の影もなかったのに、このあたりでは枝の根元や岩の影に薄く雪が残っていた。

霜を踏むたび、かすかな音が闇に吸い込まれる。
風は止まり、枝も葉も沈黙したまま。耳の奥で自分の鼓動だけが響く。

光の輪の外は形を持たない闇だった。――まるで、山そのものがこちらを覗いているようだ。

彼女がぽつりと言った。
「空気が……重い」

確かにそうだった。冷たいはずなのに、肺の奥で淀むような重さ。
人の領域ではなく、別のものに踏み込んだ感覚。

「ここから先は本当に道じゃないから」
彼女はスマホを胸元に寄せ、画面に浮かぶ赤い点を指で押さえた。
光と足音だけが、凍った山に小さく連なっていた。

「さっくんも、スマホでちゃんと確認してよ」
「うん、一応見てるよ」

俺はスマホを開き、現在地の青い点を確認する。
「こっちで合ってる」
「うん。でも私は紙で行く」

彼女は折りたたんだ地図を広げ、赤い線を指で追った。脇に小さなコンパスをかざし、針の揺れを確かめる。

「地磁気の偏差が大きいけど、尾根に乗ればだいたい北東。……スマホが飛んでも、これなら迷わない」
「二重チェックってわけか」
「そう。デジタルは便利だけど、時々“真実”を外すから」

彼女の言葉に妙な重みがあって、懐中電灯の光が余計に心細くなった。霜を踏む音だけが、尾根をゆっくりと登っていく。

尾根を進むにつれて、背後の街の灯りは木々に遮られ、やがて完全に見えなくなった。
懐中電灯の光の輪だけが頼りで、その外は形のない闇に沈んでいる。

「……めっちゃ真っ暗」
口に出すと、声が闇に吸い込まれていくようだった。
彼女は何も言わず、地図を胸元に抱えたまま歩を進めている。

「結構歩いたな……あと、十分くらいか」
「ちょっとしんどい、少し休もう」
彼女の息遣いは荒かった。

「標高も高いしね。ちょっと座ろう」

俺たちは近くにある岩に腰を下ろした。
厚手のズボン越しでも、霜をまとった岩の冷えがじんわりと伝わってくる。

「はぁ……寒いけど、動いてたときよりマシ」
彼女は吐息を白く散らし、肩で息をしている。

「かなり無茶しすぎたね、心臓がバクバクする」
耳の奥で鼓動が自分の呼吸と重なり、やけに大きく響いた。

懐中電灯を足元に置くと、光の輪の外はすぐに闇に呑まれる。
道が続いているのかすら判然とせず、もし光を消したら完全に見失うだろう。

「……静かすぎない?」
「うん。風もないし、なんか変だよね」

二人の声が闇に吸い込まれていく。
遠くで枝が軋むような音がして、思わず顔を上げたが、そこには何もなかった。

「……よし、もう少しだけ頑張ろうか」
「うん」

俺たちは立ち上がり、再び闇の中へ足を踏み出した。
懐中電灯の小さな光が霜を照らしては闇に飲まれ、また次を照らす。
その繰り返しが、終わりのない儀式のように続いた。

やがて、前方に奇妙な影が浮かび上がる。
光を向けると、それは積み上げられた岩の塊だった。
自然にできたとは思えない。斜面に不自然に台形を描く黒い巨塊。

「……ここじゃない?」
俺のスマホの青い点が、彼女の地図の赤丸に重なる。

彼女はコンパスをかざし、針の揺れを確かめた。
「方位も合ってる。ここで間違いない」

立ち止まると、足元の霜がかすかに砕ける。
風はなく、木々も動かない。山そのものが呼吸を忘れたように沈黙していた。
岩肌は月光を浴び、闇に不気味な輪郭を刻んでいた。

「……やっと着いた」
俺の声に、彼女はその場にしゃがみ込み、小さく息を吐いた。

「あと十五分。三時十四分きっかりじゃなくてもいいけど……余裕は持って」

静寂の中、時計の針だけが確かに進んでいく。
やがて訪れるその時刻を待ちながら、俺たちは深い闇に佇んだ。

一度ライトを消すと、頭上に星が一気に広がった。
遠い盆地の明かりが雲の底を淡く照らし、街は見えないのに、暮らしの気配だけが空に染みている。

「すっごい星が見える!」
彼女の声に促され、俺も空を仰いだ。

満天の星。
手を伸ばせば触れられそうなほど近く、絨毯のように広がっている。
天然のプラネタリウム、という言葉しか浮かばなかった。

見惚れているうちに、時間が後ろ向きにほどけていく感覚がした。

――小学校、中学、高校、社会人。
断片的な記憶が一気にフラッシュバックする。

またこれか……嫌なことばかり思い返す。
言葉のたびに揺れ、揺れるたびに何も決められず、どれも中途半端になっていった。もっと勉強していたら、もっと頑張っていたら……そう思う一方で、冷めた声が頭の奥で返す。

"どこへ行っても同じ、なにをやっても中途半端"

「あー、でも……戻れるなら、自分の人生やり直してみたいな……」
小さく呟いたとき、彼女の声が割り込んだ。

「もう少しだよ!」

「えっ?」

気づけば、時計はもう一分前を示していた。
その瞬間、風が止んだ。
空気が動かない。妙に静かだと思った次の瞬間、足元から霧が立ちのぼっていた。

白いもやが、地面を這うようにゆっくりと広がっていく。
昼と夜の境目のように、あたりの輪郭がじわじわと曖昧になっていった。

「うわぉ……てか、あずみちゃん!特定地点って、どこに立ってればいいの?」
「そこでいいよ。その辺りで大丈夫」
「ホントに……? てか、何が起きるんだよ……」

そう口にした瞬間、頭の奥が急にぼんやりと霞み始めた。

03:14:03
ズキッ、と頭の奥を針で突かれたような痛みが走った。
昨日の朝の偏頭痛――いや、それよりも鋭い。

03:14:04
視界の輪郭がぐにゃりと歪む。
コンパスの針が暴れ、懐中電灯がチカッと瞬いた。

「なに、今の……?」
彼女の声がわずかに裏返る。
吐いた息が妙に顔に押し戻され、呼吸が乱れた。

03:14:05
耳鳴りが膨れ上がり、世界から音が消えた。
声を出そうと口を開くが、喉に空気が詰まり、音にならない。
胸の奥で鼓動だけが荒々しく打ちつけていた。

03:14:07
無音のはずなのに、かすかに彼女の叫びが割り込む。
言葉は聞き取れない。ただ、必死に声を張り上げている事実だけが耳の奥を打った。

次の瞬間、足元の霜が一斉に砕ける音が突き破り、空が閃光に染まった。
重力がふっと抜け落ち、体が宙に放り出される。

* * *

光が収まると同時に、俺は膝から崩れ落ちた。
掌が地面に叩きつけられ、冷たい土の感触が広がる。
湿った匂いが鼻を刺した。

顔を上げると、同じはずの空が淡い朝の色に変わっていた。

鳥の声が遠くで鳴いている。
夜であるはずの空が、ゆっくりと朝の色を滲ませていた。

足が妙に軽い。吐いた息の高さまで違う。
視界が低く、ダウンの袖が手をすっぽりと覆っている。
懐中電灯は重く、握りにくい。

ふと手を見ると、指が短い。骨ばった幼い手だった。

「えっ……どうなってるんだ?!」

胸の奥がざわめき、ようやく理解する。
――体が、小さくなっている。
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