2038年1月19日

佐久丸。

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【2038年1月19日】 第10章

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佐山の言葉が、胸の奥で鈍く響いた。

”帰る方法はある”
”だが、代償は大きい”

その一文だけが、店内のあらゆる音よりもはっきりと頭の中で反芻される。

「あの……代償って、どういうことですか?」

やっとのことで、声にした。自分の声なのに、少し上ずって聞こえる。

佐山は視線を落とし、持っていた小さなノートをゆっくりと開いた。
紙が擦れる乾いた音が、妙に大きく耳に入る。

「順番に話そう。君が皆神山で経験したことは、偶然ではない」

「偶然じゃない……?」

「うん。あの山は、たまたま気まぐれで人間を放り投げたわけではない。
もっと、冷たいと言った方がいいかな。条件が揃えば、必ず起きる現象だ」

「現象……」

佐山はノートの一ページに、円をいくつか重ねて描き始めた。
真ん中の円が少しずつずれて、外側の円と重なり合っていく。

「地面の下には、君たちが見ていないものがたくさんある。
岩盤の重なり、地殻のゆがみ、地磁気の癖。皆神山の下はとくに複雑だ。
昔から、あそこだけ針が落ち着かないという記録がある」

「はぁ……」
俺は少し、地磁気学のような感じで頭が混乱しそうになった。

「それに加えて、空の上にも条件がある。
地球の自転、公転、月の位置、ほかの星の重力。
それらが特定の形で揃ったとき、あの山の周りの時間の流れが、少しだけ曲がる」

佐山はそう言いながら、円の外側に小さな点をいくつも打った。

「曲がる、って……」

「水を思い浮かべてみてほしい。
静かな湖に石を投げると、波紋が広がるだろう。
普通の場所なら波紋は丸く広がるだけだ。
だが、皆神山の地下の構造は、丸ではなく“歪んだ器”のようになっている」

ノートの上に、少し歪んだ楕円が描かれる。

「歪んだ器に水を入れると、波は一部でぶつかり合う。
ある瞬間、ある場所だけ、波がぴたりと重なって、
水面が一瞬だけ、別の形になる。
そこだけ、時間の“層”が薄くなる」

時間の層。
喫茶店の空気が、さっきより重く感じる。

「君が立っていた場所と、二〇三八年一月十九日のあの時刻は、
その“ぶつかり”が最大になる条件が揃っていたと、私は考えている」

「二〇三八年問題の、あの時刻に、ですか」

「時計が止まったという報告が世界の一部であった日だ。
機械の時間と、地球の時間と、あの山の時間が、たまたま同じ拍で重なった。
たまたま、と言っても、それは決まった周期でやって来る。
条件さえ計算すれば、次はいつか、だいたい見当がつく」

佐山は、別のページに年号を三つ書いた。

二〇〇八
二〇一八
二〇三八

「君が飛ばされた理由を、私はこう見ている。
この二十年ほど、皆神山の周辺で観測されているわずかな揺れや磁場の偏りを、
私はずっと追いかけてきた。
その結果、君が来た二〇三八年一月十九日三時十四分をひとつの“山”だと考えた」

「……山」

「時間にも、波がある。
谷もあれば、山もある。
君が立っていた瞬間は、その山の頂上にあたる。
そこから滑り落ちるように、別の“谷”に落ちた。
それが、一九九九年四月の君だ」

「九九年の四月……」

だが、この数字以前に、二〇〇八、二〇一八と佐山が書いたのを見て、胸の奥がひゅっと掴まれたように感じた。

二〇〇八年、二〇一八年。この年は俺の人生の分岐点でもある。

だが、それを佐山が知るはずがない。
これは“俺の中だけの気づき”だった。

「……あの、皆神山の地盤や周期とかなんとかなくわかるんですが、なんで“そこ”なんですか。九九年の四月じゃなくて、もっと前や、後にタイムスリップしなかった理由ってなんだかわかりますか?」

佐山はノートの端を軽く押さえ、視線を落とした。

「時間の谷は、ただ天体の条件だけで決まるわけではない。
地殻、磁場、揺らぎ……
そして、個人の“位相”ともわずかに干渉する可能性があると、
私は考えている」

「位相……?」

「その人間にとって“未来が大きく分岐する年”は、
時間の揺れと共鳴しやすい。
そこが谷として深く沈むことがあるんだ」

「なるほど……」

(たしか……タイムスリップする前に過去の事とか振り返ったような。思い返したくない嫌なことが蘇る感じに。もしかして、それが関係してる?)

「……教授。
そういえば、僕以外にも未来から来たって人が二人?いるって言いましたよね」

その瞬間、佐山の指がわずかに止まった。
視線がノートから外れ、机の木目の一点に落ちる。

「ああ……そうだった。
その話もしなければいけなかったね」

まるで記憶の底に沈んでいた箱を開けるように、佐山はゆっくりと息をついた。

「二人……どちらも興味深く、どちらも似たような体験をしてる」

小さく息を吐き、語り始める。

そう言って、佐山はノートの角を指先で軽く整えた。
その仕草が妙に慎重で、話の重さを予感させた。

「彼は、皆神山の地磁気異常の記事を読んだらしくてね。
『先生にしか話せない』と言って、突然訪ねてきた。最初は、よくある“霊感話”や“予知夢”の類だと思った。だが……妙に現実的だった」

佐山は、当時の記憶をなぞるように机の上を指で叩いた。

「一人目は……彼だ」

佐山は指先で机を軽く叩いた。
音はとても静かなのに、長い時間を叩き起こしたように響いた。

「彼は当時、二十歳そこそこの学生だった。
私の“時間地質学概論”を講義室の後ろの席で聞いていたんだ。
授業中に目立つことはなかったが──顔を見たとき、“あぁ、あの子か”と思い出した」

あのときの光景が、教授の瞳に薄く滲む。

「夕方だった。
研究室の灯りだけがついていて……廊下はもう真っ暗だった。
ノックの音がして、『先生、お話したいことが……』と。
最初は、面白半分の学生だと思ったよ」

ひとつ、小さく笑う。
しかしその笑みに温度はなかった。

「彼は落ち着かない手つきでレシートを出した。
“閉店したはずの店のレシートなんです” と」

佐山は手元を見るように、指を軽く丸めた。

「その店は十年前に閉まっている。
だが、彼の手にあったレシートは、どう見ても“昨日の買い物”だった。
印字された店名も、当時のフォントも……妙に古くてね。
私はまず、偽造を疑った」

佐山は腕を組んで、少し間を置いた。

「……だが、そこからだった。
彼は、自分の家族の昔話が“一つだけ違った”と言った。
小学生のときに撮った写真の並び順が違うと。
『ここに写ってるはずの妹がいない』と」

店内の空気がわずかに硬くなる。

「私は“記憶違いだろう”と言った。
だが、彼は震える声でこう言ったんだ」

佐山はゆっくり言葉を浮かべる。

「“戻ってきたはずなのに……何かが違うんです” と」

重い沈黙が落ちた。

「私は……その言葉を聞いた瞬間、鳥肌が立った。
彼の話は筋が通らないようで、通っているようでもあった。
地図を描かせてみたら、“昔の駅前の配置”を正確に描いた。
だが、それは現在と微妙に違っていた」

教授は、右手で机をそっと撫でた。

「私は彼に質問を続けた。
時間が合わない、と言った理由。
人の記憶の違いをどう捉えたのか。
何が“変わっていない”のか」

そして──

「質問を重ねるたびに、彼が嘘をついていないことだけは、はっきり分かった。
理解してほしくて必死というより……“自分で理解しようとしている途中”だった」

佐山は遠くを見る。

「最後に、彼はこう言ったんだ。
“僕は……元の場所に帰りたいんです。
でも、ここは……ほんの少しだけ違う世界です” と」

静かな声だった。
だからこそ、重かった。

「その日の記録は、研究室の奥にしまってある。
名前も、相談内容も、手書きで残したまま……今もね」

佐山は姿勢を変え、もう一つの記憶へ手を伸ばした。

「もう一人は……私の古い研究仲間が相談を受けた人物だ」

少し声が低くなる。

「あれは、皆神山の地下の揺らぎを共同で調べていた頃だ。
彼が“お前に聞かせたい話がある”と言って、夜の研究棟に呼んだ」

教授の眉がわずかに寄る。

「相談者は……男だったらしい。
怯えていて、何かに追いつかれているようだったと聞いた」

教授は小さく息をついた。

「“自分は違う時代から来た”と言ったそうだ。
だが、話が繋がらない。
何かを思い出せないようで、同じ言葉を何度も繰り返していたらしい」

そして──

「最後に、『帰る』と言ったまま、ふらっと研究棟を出ていった。
そのまま……消えたんだ」

わずかな風がテーブルの上を通るような静けさ。

「身元も不明だった。
警察にも届けられたが、該当者はいなかった。
研究仲間は震えながら“あれは、あの子(未来人A)と同じだ”と言っていたよ」

佐山は、目を細めた。

「私はその話を、ただの噂として片づけられなかった。二つの話が“似すぎていた”からだ。どちらも“知らない世界へ帰ってしまう”という点でね。
……それが、私が知っているすべてだ。真相は分からない。
ただ……君と無関係とは言えないと思った」

そして、静かに続ける。

「私はその二人の記録をすべてノートに写した。本来なら研究者として残すべきものではないが、どうしても捨てられなかった。二人の記録は、研究室の本棚の奥にある。必要なら……後日、君を招待するよ。そこで名前も含めて、すべて見せる」

「是非、お願いします」

未来から来た人間は、俺だけじゃなかった。
そして、その二人が見た“行き着いた先”は――どちらも、元いた世界とは違うらしい。簡潔で、残酷な断片だな。けれど、それがかえって現実味を帯びて胸に刺さる。

「そうだ……じゃあ、僕はどうなると思いますか?」

おそるおそる言うと、佐山は首を横に振った。

「私は未来を知っているわけじゃないから、”分からない”としか言えん。
ただ、観測できるのは、時間の波だけだ」

少しためらってから、俺は言った。

「僕、あの山に……“彼女”と一緒に行ったんです。
でも落ちたのは僕だけで、彼女は現代に残ったままだと思うんです。
その……彼女がどうなっているのか、分かりますか」

佐山は目を細め、静かに言った。

「彼女か……もし――君が過去で動けば動くほど、元の未来へ続く道筋は細くなるんじゃないかな」

「えっ?」

「彼女が“以前と同じ未来”を歩む保証は、どこにもない。君が一つ行動すれば、一つ未来が変わる。その変化が彼女に届くかどうかは……読めない」

胸がきゅっと締めつけられた。

「……確かに」

佐山は三つの年号に再び視線を落とした。

「選ぶしかない。
どの山を登り、どの谷へ向かうのか。
何を守り、何を手放すのか。
未来は……君が動いた分だけ形を変える」

静かな声だった。
落ち着いているのに、どこか底の見えない深さがあった。

「つまり、それが……代償ってことですか?」

佐山は、ゆっくり俺の顔を見たあとに、深く頷いた。

視界が少し揺れた。
店のざわめきが遠のき、
自分の心臓の音だけが静かに響いていた。

母ちゃん、父ちゃん、姉ちゃん。そしてあずみちゃん。

――全部、守りたい。

でも、それは許されない。

何かを選べば、何かを失う。
それが、この世界の“時間”のしくみだと、
佐山の言葉が告げていた。

「……教えてください。
どうすれば、戻れるのか。
何を選べば……後悔しないのか」

佐山はゆっくりとノートを閉じ、言った。

「分かった。
ではまず――二〇〇八年の話から始めよう」

窓の外で風が揺れた。

俺は呼吸を整え、佐山の言葉を待った。
未来を取り戻すために。
そして、新しい未来を手に入れるために。
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