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第一章:高齢者たちの再出発
三
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三
結局は、最終的にはテレビを見てはぶらぶらしている。
これが、定年退職後、あるいは老後というものなのだろうか?
退職してまだ一年もたっていない。ということは仮に人生80年としても、この状態が、この先少なくとも10年以上も続くということなのだ。会社員としての単調な生活の繰り返し、それが終わってから続くのは、何もしないという更に単調な生活の繰り返し。
会社生活を送っていたころは、退職後の生活に憧れを抱いていた。しかし、隣の芝生が美しく見えてしまうように、今、置かれている状況が退職後の現実なのだ。そう思うとぞっとしてきた。これは良くない!
そして気が付くと、ハローワークの前に立っていた。
しかしアセンブラ言語一筋という限られた領域で働いてきたことから世間に広く通用するようなスキルは持ち合わせていない。また、何かこれだ、というような資格を持っているわけでもない。このため積極的に働きたいという気持ちにはならなかった。そういう点が、私の優柔不断でおかしなところである。家にいても邪魔者じみた扱いにされるし、やることもない。何かしていないとボケてしまいそうだ。何かするというのは、とりあえずは働くということだろう、という結論だった。
だが、65過ぎのそういう人間には、常識的に考えても働き口は少なかった。
「ここはいかがでしょう」と、ハローワークの相談員に紹介されたのは、古びた総合病院の夜警。昼夜逆転してしまうが、昼間は寝ていればいい。ぶらぶらしていて邪魔者にされるよりは、寝るという目的を持って生活していた方がまだマシだ。二つ返事で決めてしまった。
夜警に決めたと妻にいうと、別段、驚くでもなく、「あ、そう」とだけ言った。そして台所の戸棚から会社勤めのころの弁当箱を出しながら「夜は弁当もっていくのよね」と言った。
しかし一週間続かなかった。夜警が性に合わないというのではなく、夜中に“出た”からだった。病院という性格上、何となく夜になると“出る”という噂は聞いていた。私はそういった心霊現象を信じる質ではなかったので、フフンと聞き流していた。しかし、雨がしとしとと降る夜中に、私はそれを見てしまった。
こういう時によく、小便がちびる、という表現をするのだが、私は本当にちびっていた。早く朝になってほしいと思いながらその夜を過ごし、夜明けとともに主任に辞めるといってそこを飛び出してきた。
おそらくは科学的な原因があるとか、あるいは私は実は居眠りしていて明晰夢を見ていたのだとか、説明はつくのだろう。しかしもう同じ経験はしたくはなかったので辞めてしまった。
家に帰ると、妻は、お茶道具を取り出しながら「あらずいぶんと短かったのね」と言ったきりだった。
「あとはこういうところですが、いかがですか」と、ハローワークの相談員。工事現場のトラック誘導。いわゆる旗振りだった。これをこの先、ずっと続けるつもりではなく腰かけ。これをやりながらその先を考えるつもりだった。
旗振りというのは楽そうに見えるが、トラックの誘導には結構、神経を使う。おまけにそばを通るトラックの排気ガスをまともに浴びるため、その匂いが染みつく。休憩時間に息をしていると鼻の奥が排気ガスの匂いがしており、これがとれない。食欲も失せる。
誘導のための小旗もずっと振り続けていると、腕が張ってあがらなくなってくる。よく道路工事で、あまり腕を上げないで旗を振っているのを見かけると、やる気が無いな!と思ってしまう。しかし実際にやってみて初めて分かった。腕があがらなくなるのだ。
旗振りは一か月ほど続けた。しかし結局は腕と腰が悲鳴を上げ始めていたし、痰が絡んでヘンな咳がでるようにもなっていた。そして疲れを翌日に残す感じになってしまったためそこで辞めることにした。
その夜、会社勤めをしているころの夢を見た。
それが正夢だったのか、翌日、伝田から電話があった。
「退屈しているかと思って電話してみた。今晩軽くどうだい?」
「ああ、久々に会いたい」
ということで、その夜は会社時代によく立ち寄っていた居酒屋で会うことにした。
伝田は太陽の香りがしていた。
近郊に畑を借りて畑仕事を始めているらしい。私と同じく、さぞ退屈を持て余していると思っていたが、そうではなかった。畑が非常に面白い、と言って、生き生きとしている。私とは真逆で打ち込むべきものがある感じ。
「いや、実は朝比のことだから、何もしないで暇してると思ったから電話してみたんだよ。案の定だった」と言って、畑仕事のためか日焼けした顔に笑みを浮かべて言った。
枝豆を口に運びながら、伝田は少し真顔になった。
「ところで、うちの会社、いやもう退職したからそういう言い方もヘンだけど、“定年延長”するらしいよ。65に。その後は70までが再雇用らしい」
「え! いつから?」
「法律、ええと高年齢者雇用安定法だったっけ?その改正が来年らしいから、早ければ来年からでも徐々に始めるんじゃないの?」
「一年の違いっていろいろあるもんだな。もしも我々の歳が一年下だったら、あと5年は働けたのかもしれないな。もしも、の話だけれど」
「まあ、結果的にはそうなんだろうけどね。節目というのはあるからな、その節目が我々なんだろうね」
伝田は畑仕事をしていて、退職後の生活にも張り合いがある感じだった。しかし私はどうだろう。これだというものがない。しかもそこに来て定年延長の話。私は毎日もがいているような自分自身が嫌になり、その日は悪酔いした。
帰り際、伝田は、「まあ、そのうちいいこともあるさ」と言い、居酒屋を後にした。
伝田の生き生きとした顔。それと相反して覇気のない私。退職後の勝ち組と負け組の構図なのだろうか。しかしこの状況で、何かしよう、と焦れば焦るほど、何もできない自分に気が付き、更に焦っていく。おそらくこういう状況が続いていくことで、老人性のウツになってしまうのかもしれない。
はぁ。と、ため息をつく。
ふとその瞬間、伝田が言った定年延長の話を思い出していた。再雇用終了で自由を得たと思ってはいたものの、私はもっと、会社に居たかったというのが本音ではないのか?
私は会社というレールの上を走る機関車であり、いざレールを外れてみると走ることもできない。別のレールを探そうにも探せずにもがいている。
それが今の私ではないのか?
ふたたび、はぁ。と、ため息をついた。
結局は、最終的にはテレビを見てはぶらぶらしている。
これが、定年退職後、あるいは老後というものなのだろうか?
退職してまだ一年もたっていない。ということは仮に人生80年としても、この状態が、この先少なくとも10年以上も続くということなのだ。会社員としての単調な生活の繰り返し、それが終わってから続くのは、何もしないという更に単調な生活の繰り返し。
会社生活を送っていたころは、退職後の生活に憧れを抱いていた。しかし、隣の芝生が美しく見えてしまうように、今、置かれている状況が退職後の現実なのだ。そう思うとぞっとしてきた。これは良くない!
そして気が付くと、ハローワークの前に立っていた。
しかしアセンブラ言語一筋という限られた領域で働いてきたことから世間に広く通用するようなスキルは持ち合わせていない。また、何かこれだ、というような資格を持っているわけでもない。このため積極的に働きたいという気持ちにはならなかった。そういう点が、私の優柔不断でおかしなところである。家にいても邪魔者じみた扱いにされるし、やることもない。何かしていないとボケてしまいそうだ。何かするというのは、とりあえずは働くということだろう、という結論だった。
だが、65過ぎのそういう人間には、常識的に考えても働き口は少なかった。
「ここはいかがでしょう」と、ハローワークの相談員に紹介されたのは、古びた総合病院の夜警。昼夜逆転してしまうが、昼間は寝ていればいい。ぶらぶらしていて邪魔者にされるよりは、寝るという目的を持って生活していた方がまだマシだ。二つ返事で決めてしまった。
夜警に決めたと妻にいうと、別段、驚くでもなく、「あ、そう」とだけ言った。そして台所の戸棚から会社勤めのころの弁当箱を出しながら「夜は弁当もっていくのよね」と言った。
しかし一週間続かなかった。夜警が性に合わないというのではなく、夜中に“出た”からだった。病院という性格上、何となく夜になると“出る”という噂は聞いていた。私はそういった心霊現象を信じる質ではなかったので、フフンと聞き流していた。しかし、雨がしとしとと降る夜中に、私はそれを見てしまった。
こういう時によく、小便がちびる、という表現をするのだが、私は本当にちびっていた。早く朝になってほしいと思いながらその夜を過ごし、夜明けとともに主任に辞めるといってそこを飛び出してきた。
おそらくは科学的な原因があるとか、あるいは私は実は居眠りしていて明晰夢を見ていたのだとか、説明はつくのだろう。しかしもう同じ経験はしたくはなかったので辞めてしまった。
家に帰ると、妻は、お茶道具を取り出しながら「あらずいぶんと短かったのね」と言ったきりだった。
「あとはこういうところですが、いかがですか」と、ハローワークの相談員。工事現場のトラック誘導。いわゆる旗振りだった。これをこの先、ずっと続けるつもりではなく腰かけ。これをやりながらその先を考えるつもりだった。
旗振りというのは楽そうに見えるが、トラックの誘導には結構、神経を使う。おまけにそばを通るトラックの排気ガスをまともに浴びるため、その匂いが染みつく。休憩時間に息をしていると鼻の奥が排気ガスの匂いがしており、これがとれない。食欲も失せる。
誘導のための小旗もずっと振り続けていると、腕が張ってあがらなくなってくる。よく道路工事で、あまり腕を上げないで旗を振っているのを見かけると、やる気が無いな!と思ってしまう。しかし実際にやってみて初めて分かった。腕があがらなくなるのだ。
旗振りは一か月ほど続けた。しかし結局は腕と腰が悲鳴を上げ始めていたし、痰が絡んでヘンな咳がでるようにもなっていた。そして疲れを翌日に残す感じになってしまったためそこで辞めることにした。
その夜、会社勤めをしているころの夢を見た。
それが正夢だったのか、翌日、伝田から電話があった。
「退屈しているかと思って電話してみた。今晩軽くどうだい?」
「ああ、久々に会いたい」
ということで、その夜は会社時代によく立ち寄っていた居酒屋で会うことにした。
伝田は太陽の香りがしていた。
近郊に畑を借りて畑仕事を始めているらしい。私と同じく、さぞ退屈を持て余していると思っていたが、そうではなかった。畑が非常に面白い、と言って、生き生きとしている。私とは真逆で打ち込むべきものがある感じ。
「いや、実は朝比のことだから、何もしないで暇してると思ったから電話してみたんだよ。案の定だった」と言って、畑仕事のためか日焼けした顔に笑みを浮かべて言った。
枝豆を口に運びながら、伝田は少し真顔になった。
「ところで、うちの会社、いやもう退職したからそういう言い方もヘンだけど、“定年延長”するらしいよ。65に。その後は70までが再雇用らしい」
「え! いつから?」
「法律、ええと高年齢者雇用安定法だったっけ?その改正が来年らしいから、早ければ来年からでも徐々に始めるんじゃないの?」
「一年の違いっていろいろあるもんだな。もしも我々の歳が一年下だったら、あと5年は働けたのかもしれないな。もしも、の話だけれど」
「まあ、結果的にはそうなんだろうけどね。節目というのはあるからな、その節目が我々なんだろうね」
伝田は畑仕事をしていて、退職後の生活にも張り合いがある感じだった。しかし私はどうだろう。これだというものがない。しかもそこに来て定年延長の話。私は毎日もがいているような自分自身が嫌になり、その日は悪酔いした。
帰り際、伝田は、「まあ、そのうちいいこともあるさ」と言い、居酒屋を後にした。
伝田の生き生きとした顔。それと相反して覇気のない私。退職後の勝ち組と負け組の構図なのだろうか。しかしこの状況で、何かしよう、と焦れば焦るほど、何もできない自分に気が付き、更に焦っていく。おそらくこういう状況が続いていくことで、老人性のウツになってしまうのかもしれない。
はぁ。と、ため息をつく。
ふとその瞬間、伝田が言った定年延長の話を思い出していた。再雇用終了で自由を得たと思ってはいたものの、私はもっと、会社に居たかったというのが本音ではないのか?
私は会社というレールの上を走る機関車であり、いざレールを外れてみると走ることもできない。別のレールを探そうにも探せずにもがいている。
それが今の私ではないのか?
ふたたび、はぁ。と、ため息をついた。
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