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1章
14 バラバラのチーム
しおりを挟む坂戸と由加里は、新後アイリスのチームの寮に向かっていた。
寮の名前は恩愛(おんあい)寮と言い、主な出資者イサハイ工業株式会社の社長である飯酒盃(いさはい)巧次(たくじ)である。
新後アイリスが発足した1980年の翌年に完成。鉄筋コンクリート2階建てである。1階の玄関を入ってすぐに大きな食堂があり、そこを突っ切ると業務用の冷蔵庫がいくつか並ぶキッチンがある。食堂を取り囲むように選手たちの部屋があり、監督室やコーチ室や会議室、ほかにはトレーニングルームや大浴場などもある。2階は選手たちの部屋のほかに、勉強になればとビデオや本などが置いてある部屋も存在する。また、グラウンドも隣接し、しかも小さいながらもナイター設備が完備されている。これで寮費は年齢や仕事にもよるが、1番高い選手でも月2000円と選手にとっては至れり尽くせりの環境なのである。
練習前の軽食を選手たちが3人で固まって摂っている。坂戸とわかり、あいさつが飛んできた。坂戸はあいさつを返しつつ、離れた長テーブルにへ向かう。グレーの作業着に頭に白いタオルを巻き、突っ伏して寝ている由加里と同い年の女がいたからだ。
「桐子桐子、起きなさい」
坂戸が女の肩を揺する。女が横目でニラんできた。化粧っ気のけの字もないすっぴん丸出しの顔。誰かわかると、伸びをしながら大あくびをした。タオルから飛び出た適当にまとめた後ろ髪が、この女の性格を表しているようだった。
「……なんだわや」
殺意すら思わせる冷えた声。切れ長の目と細く釣り上げた眉も手伝って思わず肝を潰しかけたが、坂戸はおくびにも出さないで優しく促した。
「起こしてごめんなさいね。ほら、お父さんの手伝い、大変なんでしょ? こんな所で寝てないで、時間まで小上がりに横になってきなさい」
桐子はキョトンとした。坂戸の隣の由加里を目を向ける。目が合った。
「寝坊には気をつけてよ」
「……ああ、わぁりねぇ(悪い)ッスね」
桐子は不思議な違和感を覚えつつも、グレーの間仕切りのカーテンを掻き分けて段差を上がり、畳が敷き詰められた部屋へ消えていった。
「なんなのあの反応」
桐子が畳に横になる気配がしてから、坂戸は由加里に耳打ちした。
「タクシーで言ったじゃん。前の坂戸監督と折り合いが悪かったって」
由加里は苦虫を噛み潰した顔でつぶやいた。
「性格的に合わなかったのかしら」
「さあ……ふたりの間の確執は、ふたりの仲でしかわからないから」
「そうだけど、なんか他人事みたいな言い方をするわね」
「私は一応、チームの中立の立場で物事を見てるから」
「中立、ね……」
聞こえはいいが、面倒くさいことから逃げてるだけである。由加里のなんとも言えない表情から察するに、前の坂戸と桐子はそうとうこじれてそうな感じだ。
――どっちかが何かしたのか。どっちも何かしたか。近いうちに話をじっくり聞く必要があるわね。
坂戸は食堂を突っ切り、厨房に入った。
「神津(こうづ)……さんは来てますか?」
厨房で洗い物をしている寮母の関沢(せきざわ)靖子(やすこ)――50歳――に聞いた。恰幅(かっぷく)がよく、頼りがいがありそうな所謂かあちゃん体型の人物だ。
「用事があるから今日は休むと言ってたわねぇ。何をしてるのかしら? 最近はめっきり来ないのよ」
「グラウンドには誰かいます?」
「そうねえ、2、3人はいたかしら」
「2、3人……ありがとうございます」
坂戸は情けなく思った。人間は約1ヶ月でこんなにダメになってしまうのかと。綱紀(こうき)粛正(しゅくせい)しなければならない。
由加里の話によれば、前の坂戸は倉本ほど優秀な監督ではなかった。技術を教えることには長けていたが、監督しての能力が不足していた。采配、チーム戦略、人心(じんしん)掌握(しょうあく)、そして何より優しすぎた。それとない注意はできるものの、叱ることができなかったのだ。怖さがなければ監督はなめられるものだ。もちろん、怖さといえども暴力的な怖さは一切必要ない。さらに、選手としての機微(きび)はわかるものの、人としての機微がわからない。人間関係では苦労しそうな、微妙に距離を詰めるのが下手くそな人物であったようだ。
こういうタイプの監督には、口うるさい鬼軍曹的な人間の補佐が必要だった。監督が甘くても、補佐が締めるところは締める。鞭を打てないのであれば、自分が打てるようになるか、打てる人間を連れてくるしかない。坂戸を身近で補佐する人間がいなかったのが痛かった。
「ねえ、坂戸監督。あの噂って本当なの?」
あの噂――大阪にある企業チーム・関西ガスの監督招聘(しょうへい)の話しかない。坂戸は満面の笑みで否定した。
「行くわけありませんよ。私は新後の人間ですから」
靖子は安堵して表情を和らげた。
「そうよねぇ。そうよそうよ。坂戸監督が出ていったら、誰も監督できる人間がいなくなるものね。よかったわぁ」
すっかりご機嫌になった靖子は、坂戸と由加里とその場にいる選手たちにホットケーキを焼いてくれた。これまた坂戸にとって良枝ののっぺに並ぶ懐かし料理のひとつだった。
ホットケーキに舌鼓(したづつみ)を打ちながらまったり待っていると、チラホラ選手がやってきた。しかし、やはりというべきか、大半の選手たちは集合時間15分前ぐらいにやってくる。これは仕方がない。なぜなら大半が8時5時の日勤のバイトをしているのだから。
――なかなか来ないわね。
坂戸には心待ちにしていた選手がいた。その選手は由加里と桐子に並ぶ新後アイリスに必要不可欠な存在なのだ。
「ちわ―――っ!」
ガラガラと戸を開ける音とともに、活発で大きなあいさつが聞こえてきた。
「やっと来たわね。新後アイリスのおてんば娘」
坂戸は待ちかねて立ち上がった。食堂に集合時間5時半のギリギリに現れたのは、隠岐佳澄という選手だった。
子どものようにくりくりとした目に、ふわっとしたボリュームのある黒のセミショート。チームで1番身長が低い――155.1センチ――ながらも最年長である24歳である。しかも選手唯一の既婚者でもあった。ちなみにポジションは外野手――主にセンター――である
「おっ、監督ぅー! ちわっさぁー!」
手を上げて独特なあいさつを飛ばしてくる。元の世界の20年後の佳澄は、さすがにここまでテンション高くあいさつしなくなった。が、会えば元気に言ってくれていた。ときどきハグしてきたりなんかもしてとにかく人懐っこく、新後アイリスの元気印といっても過言ではない。
「歳の割りに恰好(かっこう)もそうだけど、相変わらずにおいも雰囲気もババくさいですよねー」
佳澄のシワのない顔が限りなく近づいてきたので、思わず坂戸は両手で頬を軽く伸ばした。もちもちとしていて、つきたてのもちのようである。
「放っておいてほしいわね。佳澄も今年でアラサーなんだから、少しは落ち着いたらどうなの?」
「アラサー? アラサーってなんです?」
90年代前半にまだ「アラサー」という言葉が存在しないことに、坂戸は言ってから気づいた。苦笑して訂正する。
「ごめんごめん、三十路と言い間違えたのよ」
「へー、そうですか。って、あたしは三十路まであと5年もありますよー!」
「人生なんてあっという間よあっという間」
「だから、そんなことをしみじみ言うからババくさいんですってー」
息がピッタリ合うのかふたりの会話が途切れない。キリがないと思った由加里が口を挟んだ。
「佳澄、早く着替えてきな」
「あっ、由加里いたの? 今日の監督おもしろくって、全っ然気づかなかったよ」
佳澄の嫌味のこもってない素直な一言である。由加里は肩をすくめた。
「旦那さんも大変よね。こんなのが奥さんだなんて」
「こんなのとは失礼な! 家ではちゃんと家事はひと通りこなしてますー」
「得意料理は?」
「肉じゃが! カレー! 豚汁!」
「煮るのばっかじゃん」
「いいじゃんかー。旦那様は喜んで食べてくれるんだしさー」
「今を時めくプロのリードオフマンなんだから、ちゃんとしたものを食べさせてあげないと」
佳澄の旦那は高雄(たかお)彬矢(あきや)という名のプロ野球選手である。セ・リーグのファルコンズに所属しており、不動の1番センターとして2年連続打率3割3分台を記録。今年は盗塁王を獲得するなど、チームの切り込み隊長として知将・市原(いちはら)監督もとで大活躍しているのだ。
ファルコンズ自体前年の1992年と今年の1993年は、タイタンズやブルードラゴンズと競い合い、見事セ・リーグ連覇を果たしている。
「はいはい、そこまでになさい。佳澄もユニフォームに着替えてらっしゃい」
坂戸が間に割って入り、ふたりの背中を押した。
「そうだ、由加里。例の物をちゃんと持ってくるのよ!」
「はーい、わかってますって」
それからカーテンを開け、大の字になって眠りこけている桐子に呼びかけた。
「桐子もいい加減起きて、眠気覚ましにグラウンドを走ってなさい」
「……うす」
寝起きのテンションがすこぶる低い桐子は、のろのろと起き上がって首の辺りを掻きながら、坂戸をひとニラみしてからロッカーへ向かっていった。
――いくらなんでも態度悪すぎね。
だがそんな思いとは裏腹に、坂戸はひとり笑みを浮かべた。
――けどね、生意気な娘ほどかわいいものよ。
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