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2章
09 由加里の吐露
しおりを挟む坂戸は佐渡家の2階の自室にいた。由加里の母・良枝(よしえ)がロクに使わなかったワープロを借り、選手のデータを打ち込みながら言った。
「今日も桐子が来なかったわね」
「うん」
相づちを打った由加里の顔が暗くなる。だが、坂戸の視線はワープロの液晶に集中していたため気づかなかった。
「いてもらわなきゃ困る人間のひとりだから、早く仕事のメドが立ってくれないと……」
すると、由加里が目の前の缶ビールを喉を大きく鳴らして一気飲みする。坂戸は眉をひそめた。
「ちょっと、アンタはまだ弱い時期なんだから、無茶な飲み方をしないでよ」
由加里はテーブルに空いた缶を叩き付ける。涙が溜まった瞳の中に、悔しさが混じっているような気がした。
「桐子は来れないんじゃなくて来ない!」
「なんですって?」
「前の坂戸監督がいろいろ言い過ぎたせいだ!」
早くも酔いが回ってしまった由加里がとつとつと語り出した。
「倉本監督は……倉本監督はよかったよ。短所にはあんまり触れないで、長所を伸ばす方針だったから。私にしても桐子にしても佳澄にしてもそう。だけど……」
前の坂戸の方針は、長所はそのままとして短所を伸ばそうとするやり方だった。これ自体間違ってはいないが、あわよくば長所にしてしまおうというものであった。
「上手くいきっこないんだよ。前の坂戸の……ババアは、短所の意味をまるでわかっていない。向き合える人間と向き合えない人間がいることぐらいわかってほしかった」
ほぼ真逆の方針転換に、多数の選手たちの反発を招いた。このうち何人かは練習をボイコットし、一時期はチームが崩壊寸前だった。
前の坂戸もそこまでバカじゃない。短所を伸ばす方針を取りやめ、もとの長所を伸ばす方針に切り換えた。だが、桐子にだけはこだわり続けた。捕手はチームの中心、言わば扇(おうぎ)の要である。捕手がしっかりしているチームは強い、という持論がある以上、引くには引けなかったのである。それに追加して、前の坂戸と桐子のウマが絶望的に合わなかった。顔を合わせるほど、話はすればするほど互いのどちらかが反発し、結果的に嫌い合う。ついには、あいさつすらしなくなってしまったのだ。このころになると、前の坂戸は桐子を諦め、他チームからめぼしい捕手が獲得できないかと目星をつけ始めようとしていた。そこへ、2013年から来た佐渡が入り込んできたのだ。
――どうりで手帳の中に他チームのキャッチャーの名前が書きこまれてたわけだ。
坂戸はため息をつく。テレビの撮影で来なかった原因にも合点がいった。顔を見たくない人間がいる所なんて行きたくないに決まっている。しかし今由加里を怒ったって仕方ない。子どもをあやすような口調で言った。
「それで来なかったのね。……どうして早く言わなかったの」
「あの日――前の坂戸のババアが未来の私になったとき、みんなの前でした話を聞いて心変わりすると思ったんだよ……」
ようやく吐露(とろ)できた安堵感と、相棒がチームからどんどん遠ざかっていく気がして、不安になったのだろう。涙をはらはら流しながら由加里は力なく答えた。
「馬鹿ねえ。そんなことだけじゃ、変わるわけないじゃない。耳障りのいいことを並べてるだけだなコイツって思われるのがオチよ。この件は、第三者が思ってる想像より根が深く見えるわ」
ウマが合わない者同士の衝突はマイナスがマイナスを呼び、溝が埋まるどころか広がりに広がり、修復不可能になってしまうものだ。
「真剣に向き合わないといけないわね。この問題だけは。だって、このチームの正捕手は桐子しかいないもの」
由加里は涙を溜めた目のまま力強くうなずいた。坂戸は厳しく指摘する。
「今のアンタは人を信じすぎよ。仲間のことに関しては過剰なまでに信じてる。ことに桐子に関しては特に、ね。黙って放っておけばいいもんじゃない。本当に心配ならさ、居所をつかんで何をやってるかを知ってやるのも相手のためなのよ。それで黙ってるってんならまだ理解できるわ」
不意に坂戸は落ち着きかけた由加里にすごんだ。
「――糸が切れた凧のようにどっかに飛んで行ってしまうわよ。桐子のことが大事じゃないの? アンタの唯一無二の相棒がこのまま帰ってこないかもしれないのよ。それでもいいの?」
「いいわけない!」
由加里は首を左右に振って即答する。
「なら、行動に移さないとダメ。行くわよ」
「行くってどこに? どこにいるのか知ってるの?」
「桐子が臨時コーチをしてるリトルチームがいる球場よ。とっくに自宅に電話して聞いたわ。当然じゃない」
「……」
由加里は自分の動きの遅さにガッカリするとともに、坂戸の行動の速さに驚いた。
「いい? アンタは桐子としか組んでないけど、桐子もアンタ以外とはまったくといってもいいほど組んでないわ。この世界の桐子にどこまで向上心があるかわからない。もしかしたら、私のせいでほかの人間とも組みたがる意思を持った可能性もある。あ、でも、未来の桐子は選手を育てるのがうまいから、その片鱗(へんりん)が出てるかもしれないわね。……まあ、この話はおいといて、よく聞きなさい。せっかくの生涯の伴侶をここで手放す気なの? アンタの桐子への想いや愛はこんなものなの? これで終わりなの?」
「想いや愛なんて大げさな……」
由加里はこっ恥ずかしい言葉に気後れするが、坂戸は大真面目に語り続けた。
「大げさでもなんでもない。私は桐子のことが好きだし、相方として人間として同性としても愛してる。もちろん性的な意味は一切なしよ。でも、これぐらいのことをパッと言えないと、もう一度拝藤組に勝てないわよ!」
冗談も何もない真剣な表情に、由加里はやや狂気じみたものも感じ取った。だが、言ってることは確かに共感できる部分もあった。10年以上バッテリーを組んでいる間柄である。プロでなら珍しいが、ここはプロじゃない。組んで何年も経ってないバッテリーにはない、長年の様々なやりとりで培ってきた阿吽(あうん)の呼吸もある。もしも違うキャッチャーと1から関係を築くのは、億劫(おっくう)以外の何物でもない。今、改めて頭の中で気持ちを整理していて気づいたのが、憎まれ口を叩き合う相棒を失いたくない気持ちが危機感として表れてきたことだ。そして何より、坂戸が言っていた新後アイリスが無くなる世界を見たくなかった。
「……わ、私も桐子を失いたくない気持ちは誰にも負けてない!」
由加里は涙を乱暴に拭いながら力強く断言した。坂戸は由加里の背中をさすってやる。
「よしよし、よく言った。それじゃ、今日は遅いし、明日迎えに行くわよ」
球場の外の木々の間から球場内をうかがっている坂戸と由加里。
子どもたちは打撃中心の練習を行っている。坂戸が当てが外れたかのようにつぶやいた。
「いないわね」
「いないな」
帽子を目深(まぶか)に被った由加里が声を潜めて答えた。
「ねえ、かえって怪しいと思うのは私だけかしら」
「馬鹿、仮にも日本選手権に出て当分の間は地元テレビ局にもてはやされたことを忘れたのか?」
同じように帽子を目深に被った坂戸は、首をひねって記憶を呼び起こしている。
「……あー、そうだったわね。もう20年前の話だもの」
「私はそれが今なの!」
「しっ、声が大きい」
坂戸が人差し指を口の前に立てた。
「おばさんたち何してるの?」
ふたりの心臓が止まりかけた。いつの間にか背後にユニフォーム姿の少年がいたからである。
「おばさんたちはね――」
坂戸が少年に向かって噛み砕いた説明をしようとしたとき、少年が横にいる佐渡に気づいてしまった。
「あっ、佐渡選手――」
由加里が風のように駆け寄り、甲高い鈴の音が発せられる前に少年の口を手でふさいだ。
「静かに。きみ、喉乾かない?」
半ば脅しの表情で少年の顔をのぞき込む。少年はビビッてコクリとうなずくしかない。100円玉を少年の尻ポケットに滑り込ませた。
「帰るときに――ひとりになったら飲みなさいね。あと、私のサインをあげるからさ、お願いを聞いてくれないかな?」
少年の顔が輝き、何度も勢いよく首を上下させた。由加里は少年に口をふさいだまま耳打ちする。
「監督に伝えてね」
少年のスポーツバッグの隅にサインを書きながら言った。
「うん、わかっ……」
「しっ」
由加里が人差し指を唇に当てる。
「わかった」
少年は大仰(おおぎょう)に一礼し、スポーツバッグを担いで去っていった。
「ふぅー、これで大丈夫なはず」
由加里は額に出た冷や汗をハンカチで拭う。坂戸は目を細くして労(ねぎら)った。
「お疲れ様。私が出る幕がなくて楽だったわ」
「今楽した分、次は働いてもらうよ。今の私はアンタみたいに口が達者じゃないから」
「任せときなさい」
坂戸はウィンクをしてみせた。
「やめて。気持ち悪い」
「はいはい。さ、駐車場で待つとしましょうか」
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