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2章
25 理想郷
しおりを挟む「『やられたらやり返す作戦』?」
今しがた坂戸が言った作戦名を復唱(ふくしょう)してみたものの、イマイチピンとこない由加里は首をひねった。
拝藤たちが襲来(しゅうらい)した翌日の朝である。坂戸が佐渡家の自室に由加里を呼んで、外出のため化粧をしながら話していた。
「また未来で流行った言葉?」
「まあ、そんなところ。前の世界だと選手を引き抜かれてチームがボロボロになったからね。今度はこっちから引き抜いてやろうってわけ」
「すごいじゃん。で、何かアテでもあんの?」
坂戸の指差す先には卒業アルバムが一塊(ひとかたまり)に置かれていた。
「昔は昔でいいことがあるものね。坂戸悠里の同級生に真鍋葵の母親がいたのよ」
由加里はピンとくるものがあり、指を鳴らした。
「『将を射んとする者はまず馬を射よ』ってか」
「その通り」
坂戸がニッと笑った。
「真鍋を引き抜いても使えるのか。昨日の様子だと精神的にやられてるようにしか見えんかったけど」
「あれは彼女なりに生名茜を守ろうとしていたのよ」
「誰がどう見ても生名に縋(すが)っているようにしか見えなかったぞ」
「彼女は普段は守られる側だからね。ただ、守り方がわからないだけ。特に最愛の人に対しては」
「サイアイ?」
坂戸が愕然(がくぜん)とする。
「最愛の意味も知らないの? 若いころの私ってここまでアホだったかしら」
「バカ、パッと出なかっただけだ!」
ムキになって由加里は声を荒げる。それから、バツが悪そうにひとつ大きな咳をして聞いた。
「でも、真鍋のお袋さんとアンタとの間に付き合いは今でもあるのか。いきなり訪ねても大丈夫なもんかね?」
「昨日電話してみたら、先月会ったじゃないって。あとは、あっちから坂戸に関係あることないことごちゃ混ぜに話題を振って来て対処が大変だったぐらいだから、大丈夫なはずよ」
「なんだ、面識があったのか、にしても、ただのお喋り好きなのか、判断に困るところだな」
由加里は顔をしかめる。
「まあまあ、行ってみればわかるわよ。そもそも仲が悪い人間に会ってさ、わっざわざ好意的な態度を取るだなんて面倒くさいこと普通はしないでしょ。とりあえず、アンタも連れて行くにあたって、一応名目上はお菓子作りを習いに行くことになってるからね」
「ハァ? なんだそれ」
目を丸くしている由加里の腕を坂戸は力強く引いた。
「さあ、行くわよ。お菓子作りは婚活修行だと思えばいいのっ」
「コンカツってなんだよ!? 意味わかんねぇよ、未来の言葉!」
由加里は化粧の終わった坂戸に引きずられ、共に階下に消えて行った。
「いらっしゃい。よく来たわね、上がって上がって」
にこやかな笑顔を振りまいて出迎えてきた真鍋玲子(れいこ)に、実質初対面の坂戸はひまわりのような明るい女性だと思った。
「おじゃまします」
坂戸と由加里はキッチンに通される。テーブルの上にはすでに、お菓子作りに必要な材料や道具が並べられていた。
「まずはどうしようかしら」
エプロンを身に着けて気合十分の玲子。言葉とは裏腹に、お菓子作りに取りかかりたいようだった。
「外が寒かったのよ。少し落ち着きたいわ」
「あら、ごめんなさいね私ったら。リビングのほうで待っててもらえる?」
キッチンに続くリビングにはこたつが置かれていた。ふたりがこたつに収まって冷えた体を温めていると、玲子がトレーに人数分のマグカップを載せてやってきた。
「こんな寒い日はハニージンジャーが一番! はい、どうぞ」
「ハニージンジャーってなんですか?」
そんなおしゃれなものなど飲んだことがないと言わんばかりに、由加里は玲子に疑問をぶつけた。
「そのままよ。ジンジャーティーにはちみつを加えたものなの」
ショウガと紅茶の香りが鼻腔(びくう)をくすぐり、匂いだけでも体が温まる気がした。息を吹きつけて少しすする。はちみつが多めに入っているのか、ショウガの辛みと甘みが絶妙に混ざり合い、体の芯からじんわり温まってくるのがわかった。
「初めて飲んだけど、とても美味しいですね!」
「そうなの。お口に合ってよかったわ♪」
意外にも由加里と玲子の間で話が弾んだ。ジンジャーティーの効能を玲子が説明し、由加里が聞き慣れない単語を聞き返す。玲子の話術と柔和な表情が由加里の心を惹きつけたようである。
「それにしても、娘との思い出がたくさんあるわよね」
肩越しに後ろを見ながら坂戸が言った。ふたりの会話が途切れたところを見計らってかのようだった。
坂戸と由加里の背後にある棚には所属していたと思われるジュニア・シニアチームのトロフィーと集合写真が飾られている。監督やコーチからと思われるサイン色紙やチームメイトたちの寄せ書きなどもあった。内容から察してチームメイトたちに極めて優しく接していたらしく、慕(した)う言葉と感謝の言葉で埋め尽くされていた。
「『信じた道を突き進め!』か……いい言葉ね」
「シニアの監督さんが常々言っていた言葉なのよ」
「今、娘さんは?」
「やぁねぇ。先月会ったとき、拝藤組のキャッチャーをしてるって教えたじゃない」
「そうだったわね。ごめんごめん」
引き出すために必要な手順だった。ちなみに、先日葵が新後に来たことは玲子は知らないし、知らされていなかった。
「でも、10月の大会以来電話での連絡が取れなくて……きっとまだ忙しいのね」
玲子は寂しげに笑った。
「連絡が取れないの? それっておかしく思わない?」
「今まで大きな大会がある前後はよくあったからしょうがないわ。忙しいんだろうし、疲れ切ってるはず。だから、そのときは手紙を送るの。送れば日は空くけどちゃんと帰ってくるから」
「それで手紙は?」
「今のところまだ、ね……」
――当然でしょうね。だってあんな精神状態じゃ、まともな文章すら書けやしないだろうに。
バッテリーの相方でしかも一番仲の良い人間が身近にいて、酷使(こくし)に酷使を重ねられている様(さま)を何もできずに黙って見続けているしかない。
葵にはあの拝藤に逆らうまでの勇気は持ち合わせていないと坂戸は思っていた。茜の肩や肘が壊れるまで悶々(もんもん)と過ごすしかないだろう、と。特効薬もなく、何も処置ができない病魔に侵され、日に日に死に向かって弱っていく病人を見ている心境に似ている。すべては拝藤次第。逆らえば、端的(たんてき)に言って拝藤組の選手としては死。それが拝藤組の鉄の掟(おきて)――坂戸はそう信じて疑わない。
――つくづくクソみたいな男だよ、拝藤って奴は。
嘆息(たんそく)しながらリビングの壁を眺める。生まれてすぐ撮ったであろう顔写真入りの命名写真や幼稚園や小学校、中学校、高校と人生の節目の写真が至る所に飾られていた。葵は年に1回帰ってくればいいほうで、ほかの家族――旦那は確か製菓会社の営業マンで全国各地を忙しく飛び回っている。旦那の両親は隣県で暮らしていて、玲子の両親も新後市内から高速で1時間以内の市内に住んでいた。つまり玲子は、この一軒家にひとりで1年の大半を過ごしていることになる。
「ねぇ、玲子。葵ちゃんといっしょに暮らしたくない?」
玲子の寂しさを察して思い切って言ってみた。玲子の眉毛が八の字になっていく。
「キッチンのテーブルにあった材料の中でクルミがあったじゃない。クルミ入りのクッキーは葵ちゃんの大好きなお菓子だったはず。あの娘を想う気持ちが自然と溢(あふ)れ出てるのよ」
坂戸は話しながら違和感を覚えていた。葵の大好物のお菓子なんて、元の世界では知らなかったからである。おそらく、前の坂戸の記憶が呼び起こしたのだろう。
「暮らしたいよ……暮らしたい! でも、拝藤組の選手である以上、ムリなのは悠里(ゆり)、あなたにもわかってることじゃない」
坂戸は意味ありげに何も言わず、玲子を見据える。
「どうしたの?」
「このままだと葵ちゃんが潰されてしまうのよ」
玲子は目を見開いて絶句する。
坂戸は元の世界の自分の記憶を引き出しながら、今まで起きたこととこれから起こるであろうことを誇張を交えて話した。
「嘘よ……拝藤社長は人間的にも素晴らしい人じゃないの……?」
胸中が不安により波立ち、玲子の目の焦点が合わない。
「表向きはね。裏――というより、野球に関しては偏執(へんしゅう)しているのがこの男の実際の正体」
話すにつれて、事の大きさを理解し、両手で顔を覆う玲子。大事な一人娘がそんなことになっていようとは夢にも思っていなかった。体が小刻みに震えている。
「大丈夫よ」
玲子の両肩に手を置く坂戸。
「あの男にこれ以上好きなようにはさせない」
坂戸の毅然とした態度に玲子は頼もしさを覚えた。
「何か定期的に送ってるものってあるかしら?」
「お米を月に2回送ってるわ」
「米か……いっしょに送ってほしいものがあるの」
細長い茶封筒を玲子の前に置いた。すでに中身が入っているらしく、こんもり膨らんでいる。
「これを入れればいいのね。わかったわ。次送るときにいっしょに送るわね」
玲子は茶封筒を預かりながら聞いた。
「悠里、どうして葵を助けてくれるの」
「理由はいろいろあって一口には言えないけど」
いったん言葉を区切って、はっきりと言った。
「私は理想郷(りそうきょう)を作りたいのよ」
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