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2章
26 3年早く
しおりを挟む「監督、ちょっといいかなー?」
坂戸が昼食を食べ終え、小上がりの中で寝転び、仮眠を取ろうとしていたところだった。グレーの間仕切りのカーテンの向こうから佳澄の声が坂戸を呼んでいた。うとうとしていたためか声がなかなか出てこず、佳澄が了承(りょうしょう)を得る間もなく入ってきた。
平日の昼間だからほかに誰もいない。テレビの音だけが聞く主もなく流れているだけである。坂戸はリモコンを手繰り寄せ、電源ボタンを押した。
しんと静まった食堂内に、いつもとは違ってやや神妙(しんみょう)な顔持ちの佳澄が、膝を折って坂戸を覗き込んでいた。
「どうしたのよ。佳澄らしくもない顔をして」
半身を起こして大きなあくびをする。佳澄は手をもじもじさせて言いよどんでいるみたいだ。
――普段は思ったことをすぐに言うくせに。何をそんな言いづらいことがあるのよ。
そんなことを思いながらも一抹(いちまつ)の不安が去来した。
「病院でなんて言われたの?」
今朝方佳澄から下っ腹のほうがチクチクと痛むとの電話があって、念のため病院に行かせたのだった。佳澄が体の不調を訴えてくることはかなり珍しく、我慢強いというかどこか鈍いところがあるせいか時間が経てばほとんど解決していた。直接不調を訴えてきたのは坂戸が憶えていている限り2度しかない。1度目は盲腸によるみぞおち辺りが激しく痛んだ際で、2度目は――。
「あのね、監督」
意識が思考の海から佳澄に向く。掴みかけた答えを離し、耳目(じもく)を集中させる。
「みんな一丸となってるときに水を差すんじゃないかなって思ってさ、すごく言いづらいんだけど……あたし」
満面に笑みが広がる。刹那(せつな)理解したし、2度目を思い出した。いつもとは少し違う屈託のない笑みに、慈愛(じあい)めいたものを察せられた。
「できちゃったみたい」
2度目は妊娠したころだった。
「できちゃったってアンタ……3年早いわよ!」
動揺して反射的に言ってしまった。元の世界の出来事が坂戸の頭の中で混線しているらしかった。
「3年?」
無理もない。元の世界での佳澄による最初の妊娠報告は、1993年ではなく1996年だった。つまり3年も早く妊娠したのだ。一般人なら手放しで喜べるが、佳澄は新後アイリスきっての絶対的なレギュラーかつ大事な唯一無二のリードオフマンである。
「な、なんでもないわ。本当なの?」
「うんっ。先生から直接言われたしね!」
「そっか、そっか」
うわごとのようにつぶやき虚空をにらむ。これからどうするか、どうなるか。妊娠は確定的で、こればかりは天からの授かりものと受け取るしかない。それにしたって予想外の出来事である。脳みそがまともに動かず、祝いの言葉も出てきやしない。
――佳澄のいない新後アイリスは拝藤組に勝てるの? 私の叶えたい願いは――。
「こんな大事なときなのに、ごめん」
佳澄が申し訳なさそうな顔をして頭を下げてきた。
――アンタが悲しい顔するんじゃないわよ。
チームのために動いてきたはずが、窮地(きゅうち)に陥(おちい)ればやっぱり自分が優先になってしまう。その点佳澄は選手の中ではチームの最年長でしかも主将、役割もしっかり理解している。チームのためのことを思って謝っているのだ。この世界の佳澄より20年多く生きてきた自分がエゴまみれに思えて、ひどく惨(みじ)めで情けなくなる。そんな思いが片隅にありつつも、平静を取り戻しながら坂戸は言った。
「馬鹿ね。謝ることなんてひとつもないのよ。めでたいことじゃない」
このとき初めて佳澄が涙を浮かべていたのに気づいた。普段は涙とは無縁な明るく元気な人間である。ほかの誰よりも新後アイリスを愛してるからこそ、元の世界でもこの世界でも主将を務められている。だからこそ佳澄も佳澄で妊娠した嬉しさと、しばらくチームの一員として戦うことができないつらさで苦しいのだ。坂戸はつられて涙が出るのをこらえながら、佳澄の下腹部を優しくさする。
「そう。アンタが母親ね」
生涯で2回目のセリフである。相手はもちろん元の世界の佳澄に言ったものだ。
「あたしは良き母親になれるかな」
「なれるわよ。佳澄は面倒見のいい優しい娘(こ)だもの」
佳澄はホッとした笑みを浮かべる。どこか大人びた表情に微笑ましく思う一方、リードオフマンを失った現実が重石(おもし)となり、坂戸に容赦なくのしかかるのだった。
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