この話に名前をつけるなら

いちにーさん

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アザラシとシロクマの姉弟

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受話器を置いた母は、申し訳なさそうにこちらに目をやった。

何も聞けなかった。空気が冷たい。緊迫した雰囲気に、私は呑まれていた。

まだ今日を楽しみにしている弟の頭を撫でて、弟が持っているアザラシのぬいぐるみを触った。

今日の私の腕の中にも、この無垢な弟と同じように、ぬいぐるみが抱かれているはずだったのだ。

シロクマ。前回水族館に行った時に欲しくて欲しくてたまらなかった。
しかし小学四年生の私は、値札を見て愕然とした。

可愛いシロクマには、全く可愛くない値段がつけられていた。

遠慮というものを覚えた子供は可愛くない。
その頃はそんな道理がわからず、親にお金を使わせない子供を演じていた。
そっちの方がエライと言われたからだった。親からではなく、他人から。

可愛い弟は大きなアザラシを抱えて母に駆け寄った。

「母さん、僕、この子と寝るよ。なまえもつけたんだ。バニラだよ。可愛いでしょ?」

母は値段も見ずにレジにバニラを持っていった。

その子は弟に抱きしめられた瞬間から、バニラになっていたのだ。
バニラは、私のシロクマよりも高かった。

私のシロクマは、シロクマのままなのであった。


祖母は、自宅で倒れた。
トイレで倒れていたらしい。病名は難しいものだったが、頭の血管が切れたらしかった。

昨日も会った。一緒に夕飯を食べた。昨日の日常の中に、祖母はまだいたのに。

そこからの1日はめまぐるしかった。

母は病院へ急ぎ、私と父と弟は祖母の家へ行った。
倒れた時に、嘔吐したらしいので、それの片付けであった。

「父さん、すいぞっかんは、なし?」

まだ眠そうな弟は、落ちてしまいそうな大きな目を擦りながら父に訪ねた。

「うん…そうだな。麻青楽しみにしてたのになぁ。ごめんなぁ。」

弟は、麻に青で「まお」
私は、波に那で「はな」。漢字が少し珍しいので、一発で読める人は少ない。
アザラシとシロクマの姉弟の名前は、祖母がつけてくれたのであった。

祖母は尼だった。千葉の海に潜って、自然を相手にしていた。私たちの名前も海になぞらえてつけてくれたらしいが、由来は聞かずじまいであった。

だって、こんなにいきなり別れが来るとは思いもしなかったから。

聞いておいた方が良かったこと。
話しておいた方が良かったこと。
伝えておいた方が良かったこと。

沢山あるはずなのに
なぜその時に思いつかないのだろう。

いつか死ぬとわかっていたなら
いや
あの頃の私の中では、人間は不死身であった。
父も母も、弟の麻青も、そして私自身も。

死ぬ日が来るなんてわかっているつもりで、

全くわかっていなかったのだ。
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