大正石華恋蕾物語

響 蒼華

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二 あやかしの花嫁は運命の愛に祈る

二 あやかしの花嫁は運命の愛に祈る-2

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 それを聞いて、紅子も見城も難しい表情で沈黙をまとう。
 殺人事件、それも怪異すぎる事件の犯人と疑わしい青年。顔を見てしまった歌那を、くだんの青年が犯人であれば放っておくであろうか……
 自分は平穏な日常を愛しているはずなのに、どうしてこうなったと歌那はうちに苦く呟き続ける。
 あの時、小路に足を踏み入れさえしなければよかったのだろうか。
 いや、違うと何かが言う。とうの昔から、それは始まっていたのだと。
 未だ視界に焼き付いて離れない、深紅、赤、赫……
 それは、始まりであり終わりを告げるものであったのだと……


 翌日から、歌那は頭の痛い事態に見舞われていた。

「歌那さん、例の事件の目撃者なのですって……?」
「そうみたいですね……」

 本日何度目かわからない質問に、歌那は内心で密やかに涙するしかない。
 歌那が血花事件の遺体を見つけた、という情報は噂となって診療所の患者達に広まっていた。人の口に戸は立てられないとはまさにこの事だ。どれ程口止めしても、噂は広まり続けている。
 警察からは犯人と疑われたが、患者からは疑われないのは歌那の人徳と言えない事もない。ただ、謎の怪奇事件の目撃者という事で入れ代わり立ち代わり声をかけられるし、特に噂話大好きな奥さん達はあれこれ聞きたがる。
 これには見城も苦笑するしかなく、人の噂も七十五日と慰めてくれた。
 紅子はなるべく奥に引っ込んでいた方がいいと言ってくれるが、三人で回している診療所である、そうはいかない。
 遺体の目撃に関しては曖昧あいまいに言葉を濁しかわしていたものの、もう一つ目撃した事については頑なに口を閉ざした。
 あの、小路から飛び出してきた青年についてだ。
 見城と紅子からもそうすべきと言われているし、歌那自身も口にしたくない。
 青年が犯人だったとしたら、目撃者ですと吹聴する人間を放置しておくだろうか。
 ただでさえ怪しい人間を目撃してしまったという危うい立場なのだ、それ以上に危うくする気など当然ながらない。
 あの心に焼き付くかとすら思う美しさでさえ、今は恐ろしいとしか思わない。
 出来ればもう二度と会いたくない。
 このまま、記憶の彼方に消し去って、噂が消え去るのも待って、元の日常に戻るのだ。
 そう思いつつ、湧き上がってくる様々な雑念を振り払うかのように、歌那は業務に没頭した。


 仕事に集中してしまえば、あっという間に終業の時刻を迎える。今日は些か患者が多く、最後の一人が帰った頃には空は薄闇に覆われていた。
 下宿へと帰る道すがらの、川沿いの道にさしかかる。電灯のない路を灯りの提灯ちょうちんを下げて歩く歩みは、自然と早くなる。
 お遣いに出た紅子が診療所に帰るのを待っていればよかったと早くも後悔していた。
 黄昏時たそがれどき、空を刻々と覆っていく闇は、嫌でもあの日を思い出させる。とにかく一刻も早く下宿に戻って休むのだと歌那の足の運びは一層早まる。
 その時、前方にふわりと人影が浮かび上がり、びくりと身体が硬直する。

(あ、金森かなもりの若奥さんだ……)

 薄明りに照らされて歩んでくる人は、診療所の患者の一人だった。このような夜更けにこんな人気のない場所を、灯りも持たず歩んでいる。
 歩みがやや不安定に見える……と思った矢先に、その人影は地面に倒れ伏した。
 その様子を見た歌那は、血相を変えて駆け寄る。

「金森の奥さん!? 大丈夫ですか!?」

 胸に病を抱えていた若奥さんが発作でも起こしたのかと思ったのだ。
 呼びかけながら抱き起こそうとして、その腕に触れて思わず手を引っ込めた。
 冷たかった。元々色白だった肌は、血の気など一切感じられぬ程に白く、触れた指に伝わる温もりは皆無なのだ。恐る恐る、首元に触れてみるけれど。

(脈が……ない……。息もしてない……)

 歌那の経験からして、これは『死んでいる』という状態である。
 それでも、先程まで歩いていた、つまりは生きていた。
 それにしては、この冷たさは異常である。死んでから数刻経ったと思われる冷たさなのだ。
 この血の気の失せ方は尋常ではないと、思った瞬間であった。
 目を見張る歌那の目の前で、それは芽吹いた。
 始まりは、胸を突き破り這い出した幾本もの蔓。見る間にそれは全身を覆い絡まり、蕾をつけたと思えば、花開く。
 手足を這う紅い蔦、蔦のあちこちに咲き乱れる血のように赤い花。藍の着物を血に染めて胸を突き破り咲く花は、命の雫が凝ったかのような珠を宿していた。
 これは、何処からどう見ても血花の遺体だ。
 衝撃があまりに強すぎて、歌那の顔からは完全に色というものが消えていた。悲鳴すら出てこない。

「……あたしは、何も見なかった。何も見なかった、見なかった……」

 茫然としたまま、何度も現実逃避に呟き続ける。けれど、そんな事をしても異様な死体は消えないし現実は変わらない。
 立ち上がり、落としてしまった灯りを拾って、遺体に背を向ける。ここは、現実的な選択として警察に知らせるしかない。茫然としたまま、歌那は小走りに駆け出した。
 そして、ふと足を止めた。何かを感じたからだ。
 きっと、振り返ってはいけない。それでも振り返らずにはいられない。
 そうっと、歌那は背後を振り返る。
 背を向けた歌那の後ろで、あり得ざる事態が起きていた。

「う、動いて……!?」
(嘘でしょう……?)

 死んでいたはずのそれは、動いていた。ゆらりと立ち上がって、何かを求めるかのように、蔓と紅い花に覆われた腕を伸ばし、歌那へと着実に歩み寄っていた。
 白目も全て赤く染まった瞳は、奇妙な光を宿して歌那を見つめている。そこにはもはや、歌那の知っている若奥さんの面影はない。

『ミナモト……ハハ……』

 何かを呟きながら、『若奥さんだったもの』は確実に歌那に近づいてきている。あれはもう、人間ではない、どう見ても『化け物』だ。
 差し込んできた白々した月の光が、改めてそれを照らし出す。
 顔見知りが化け物になってしまった事に何かを思う暇もない。
 どう見ても日常からかけ離れた光景に、歌那の身体が小刻みに震える。

「来ないで……!」

 ようやく、絞り出すように言葉を紡げども、化け物の歩みが止まる事はない。更にじわじわと距離は近づいてくる。
 その腕が、歌那に届こうかという時だった。硬直していた歌那が叫んだ。

「だから、来ないでーっ!」

 一瞬の隙をついて化け物へと伸びた歌那の両手は、化け物の襟元を掴んだ。
 その勢いを利用して片方の肩で荷物を担ぐように相手を背負い上げると、そのまま前方へと相当な勢いで投げ飛ばした。
 化け物は、なす術もなく離れた場所へと落ちる。
 歌那は、肩で大きく息をしながらそれを見つめていた。『火事場の歌那ちゃん』ここに極まれりである。
 力を使い果たしてしまったのだろうか、逃げ出したいのに足が動かない。
 化け物は地に手をついて、ゆっくりであるが起き上がろうとしている。動け足、とうちで自分を叱咤していた歌那の耳に、呆れとも感心ともつかぬ男の声が聞こえた。

「まさか、血花鬼ちばなおにを投げ飛ばす人間がいるとはなあ……」
「のんびり言ってないで、助けるわよ」

 最初は、空耳かと思った。しかし、女の声が続いたためうつつであると知る。
 誰かいる? と思った瞬間、立ち上がった化け物が音を立てて吹き飛ばされていた。
 何が起こったのかと目を瞬く歌那が後ろを振れば――
 そこには二人の男女がいた。思わず、状況も忘れて惹きつけられる程に美しい二人が。
 一人は藤色の髪に淡いみどりの瞳の、男性である。
 女のように長く伸ばした髪は緩くまとめてかんざしまでさして、着流しの上に羽織っているのは女物の着物ではなかろうか。
 もう一人は白雪の髪に黄玉の瞳の、女性だ。肩までの断髪に、身体の線に沿った細いワンピース姿は銀座ぎんざでよく見るモダンガールそのもの。
 咲き乱れ風にそよぐ満開の藤の花と、凛然と立ち花開いた菊の花、何故かそんな印象を歌那は受けた。
 ――どこかあの青年に似たあやしい美しさを持つ男女だと、思った。

「大丈夫か、嬢ちゃん」
「は、はい……何とか……?」

 声をかけられて咄嗟に返してしまったが、続く言葉は出てこない。

「無事なら何よりだ。……っと、油断も隙もねえ」

 場にそぐわぬ朗らかな笑いと共に、男性がかんざしに触れた。
 藤を意匠にしたかんざしは風に揺れ、きらきらと不思議な輝きを放っている。それは、虹が踊って弾けるようなまれな光彩に思えた。
 かんざしから光がこぼれたかと思えば、次の瞬間、その手に生じたのは光を紡いで束ねたような鞭である。風を切る音と共に男性が振るった光の鞭は、いつの間にか起き上がっていた化け物を再度盛大に後方に吹き飛ばしていた。
 何時の間に、と遅れて事実に気づいた歌那の顔が更に蒼褪あおざめる。

『ミナモト……ハハ……ミナモト……』

 二度吹き飛ばされれば打撃は浅からぬ様子で、地べたを這いずってはいるもののなかなか立ち上がろうとはしない。
 不思議な言葉を吐きながら、もがくばかりの化け物を見て男性は首を傾げる。

「ハハ……。嬢ちゃん、まさかあれの母親か?」
「あたしは未婚です!」

 言われた言葉に、思わず叫んで返す。冗談じゃない、嫁入り前なのにおかしな疑惑を向けられては堪らない。

藤霞とうか、馬鹿な事言わないで頂戴、気が抜ける」

 肩を竦めて女性が釘を刺せば、男性は悪い悪いと笑ってみせた。だがすぐにその瞳が剣呑な光を帯びて細められる。
 歌那もつられてそちらへと視線を向けたなら……

『ミナモト……ハハ……』

 化け物がまたも立ち上がっていた。
 腕はおかしな方角に折れ曲がり、首もあやうい傾きをしたままだというのに、化け物は歌那へと近づいてこようとする。
 ただ一途に、歌那を求めているかのように。
 男性にも女性にも注意の欠片すら向けず、ただひたすらにその虚ろで紅い眼差しは歌那に向けられていた。

「……妙だな」

 男性は怪訝そうな眼差しを、化け物と歌那とに交互に向ける。
 何かを見極めようとしていた様子だが、ふと溜息をついて、再び光の束の鞭を構える。そして不敵な表情で視線を一瞬女性と交わし、次の瞬間には化け物へ向けて地を蹴っていた。

「ここは、基本に忠実に、か?」

 男性の腕が振るわれると、鞭を織りなす光が螺旋となり、化け物に絡みつきその動きを奪う。化け物はそれを振り解こうともがくけれど、抵抗すればする程光は絡みつき更に動きを奪っていく。動きを封じたのを確認すれば、男性は叫ぶ。

「やれ! 白菊しらぎく!」
「はい、了解!」

 しゃらり、と涼やかな音と共に女性の手首の腕輪が鳴る。その見事な細工も、帯びる不可思議な光も、男性のかんざしと同じに見えた。違うのは、意匠の花が菊である事だけ。
 女性の手に、光を編み上げたような二つの円状の刃が生じる。そして、優雅なまでの動きでその二つの円刃を化け物へと投じた。
 光の輪が交互に一閃し、次の瞬間には緋の飛沫が宙に舞った。咽返むせかえるような血の臭気を感じたと思った時には、化け物の頭部は地に落ちていた。
 頭部を失った身体は、一拍おいて倒れる。見る間に血溜まりが出来たかと思えば、落ちた頭や身体を浸していく。
 完全に顔色をなくした歌那の前で、化け物は起き上がる事はなかった。
 男性と女性は視線を交わして一つ頷き合う。そして、欠片も言葉を紡ぐ事が出来ずにいる歌那に軽く苦笑いを浮かべてみせた。

「まあ、聞きたい事は山程あるだろうがここで話し込むのも何だ、場所を変えるぜ。流石さすがにここは場所が悪い」

 倒れ伏して動かぬ化け物を親指で示す男性。
 転がる頭部は、光を宿さぬ虚ろな瞳で歌那を見ていた。元々は知人であった存在の頭部が、地に転がっているという事実に歌那は茫然としていた。
 帰る家も待つ家族もあった人が、今、人ならざるものとなって、頭と胴が分かれて血溜まりに沈んでいる。
 喉がからからに渇いている。舌が張り付いてしまったかのように、言葉が出てこない。
 歌那がそれを見つめて動けないでいるのに気づいた男性は、何事もないように告げる。

「……明日になれば、警察が見つけるだろうよ」
「そ、それだけ……ですか……?」

 ようやく絞り出した声は、掠れていた。
 化け物とはいえ、少し前まで動いていた存在だ。そして元はといえば確かに人であったものである。
 それを倒し、命を奪ったとも言える二人は顔色一つ変えずに答える。

「血花鬼になった段階で、元々死んでいたもんだからなあ……」
「血花事件の被害者が一人、増えただけよ」

 冷静すぎる程に冷静な、冷徹とも言える言葉に歌那は思わず息を呑んだ。
 たった今動いていた相手の首をいとも容易たやすく落としてみせた二人の答えは、その通りであっても人間としては受け入れ難いもの。
 歌那は思った、この二人は果たして人なのかと……
 化け物を倒してみせた不可思議な技。それに、人並外れた美しさ。
 助けられたのは確かだ。しかし。

(ついていっていいの……?)

 わかる事は、この二人は確実に何かを知っている。
 知りたい、知りたくない。信用したい、信用したくない。
 せめぎあう二律背反にりつはいはんな感情に、歌那の心は揺れ続け、足は縫い留められたように動かない。
 静かにその場に背を向け歩き出した女性に続き、歩みを進めようとした男性は肩越しに振り返る。そして、歌那のうちの逡巡を見抜いた様子で、苦笑する。

「信用出来ねえのは無理もないが。……ここで時間を無駄にするよりは余程いいと思うぜ? せめて人気のあるところまでついてこい」

 そう呟く男性の声音は思いのほか優しい。
 何かを決意するように頷いた歌那は、覚悟を決めて二人の後に続いて歩き出した。


 三人の姿が闇の向こうに消え、その場には静寂が満ちる。あるのは、首の落ちた化け物の残骸だけ。
 どれ程経った後であろうか、静寂を打ち消すように何かを引きずる音がした。
 ――ずるり。
 血溜まりに沈んでいた化け物が、地に手をついて起き上がろうとしていた。
 頭部のない身体は、何かを探すように地面を探る。
 やがて、飛ばされた頭部に触れればそれを持ち上げて、帽子を被るように無造作に首の上に載せた。続いて紅い蔓が境目を這ったかと思えば、何事もなかったかのように首は身体に繋がっていた。
 ケタケタと、紅い花を咲かせた化け物はわらい始めた。それは、何処か嬉しそうで誇らしそうにも見えるわらいだった。
 わらう化け物は気がつかない。自分の背後に、新しい人影が一つ生じている事に。
 黒い外套を深々と被った人物の手には、僅かな灯りすら弾いて輝く鋼の大鎌があった。
 その指には一際強く目を射抜く紅の光。気のせいとしてしまうにはあまりにも美しすぎる輝き。
 それは『指輪』だった。繊細な金線で表された、華やかな薔薇ばらの意匠の指輪。妖しく美しい紅い宝石が、その中央に鎮座している。

『……ハハ……ミナモト……ハハ……』
「ああ、成程。彼女と会ったのね」

 鸚鵡おうむのように繰り返す化け物の言葉を聞いて、「全く仕方ないわね……」と人影は呟く。言いながら、無造作に手にした刃を音もなく一閃させる。
 光が、走る。
 次の瞬間には、化け物の胸に存在していた、紅い珠が切り取られていた。
 化け物は、大きく痙攣けいれんしたかと思えば糸が切れたかのようにその場に崩れ落ち、そのまま動かなくなる。
 外套の人影は、刈り取った紅い珠をてのひらに載せて呟いた。呆れ交じりの溜息をつきながら。

「……本当に、巻き込まれやすい人」

 複雑な色が含まれたその呟きを聞く者は、誰もいなかった。



   第二章 非日常へ足を踏み入れて


「さあ、入りな。きちんと説明してやるから」

 開かれた襖を示して長髪の伊達だて男に言われ、一瞬の逡巡の後、歌那はそれに従った。ここまで来たからには、何も聞かずには帰れない。
 ――あの非日常の体現のような出来事の後。
 迷う事なく商家の立ち並ぶ通りに足を踏み入れた二人の男女は、歌那の懸念を他所よそに、何時の間にか日本人らしい黒い髪と瞳に転じていた。
 そして、着いたぞと言われて顔を上げたなら、そこは一際大きな商家の前だった。
 歌那は思わず目を見張った。
 威厳ある一枚板の看板にはこう彫り込んである――『若月屋わかつきや』と。
 ぽかんと開いてしまった口が、なかなか元に戻らなかった。
 若月屋といえば、扱う品は高級品ばかり。歌那のような一般庶民には縁のない、ここ一帯きっての大店おおだなである。
 歴史こそはそう深くはないが、先代に代わり采配を振るう事になった若旦那がやり手で有名であると聞いていた。手堅くも手広く商いをしている一流の店であるとも。
 海外とも積極的に取引しており、舶来の品を多く取り扱っている事でも知られている。
 この二人は、若月屋の関係者なのだろうかと歌那が訝しんでいると、男性は臆する事なく木戸を開き敷地内へと歩みを進めた。女性もまた足を止める事なくそれに続く。
 男性はごく自然に履物を脱いで中に入り廊下を歩んでいく。
 恐る恐るそれに続いていた歌那ではあったが、前方に現れた女中と下男と思しき人々が男性にかけた言葉にまたも目を瞬いた。
 彼らは男性を見て『若旦那』と呼びかけたのだ。
 固まる歌那を示して客人だと言った若旦那は、歌那にお風呂と食事と着替えを用意してやれと女中に命じた。
 後で説明してやると言われて送り出された先、歌那は至れり尽くせりの扱いを受けた。
 大きなお風呂にたっぷりの熱いお湯。着替えとして用意されたのは、普段着ているものより段違いに上等な着物。恐縮して変更を訴えても、女中は笑顔でけむに巻くばかり。
 お風呂の後に『あり合わせですが……』と恐縮しつつ出されたご飯は、とてもとても美味しかった。流石さすが大店おおだな、あり合わせの格が違うとおかしな感心をしてしまう。
 これが温泉宿にでも来たのであれば、素直に感嘆の息でもつけようものであるが――

(お、落ち着かない……)

 落ち着けるはずがない。
 日常からかけ離れた光景を目にして、人なのかと疑う男女に助けられ、何故自分はのんびりとお風呂につかって着替えてご飯を食べているのか。出された食事をちゃっかり完食してしまっている自分の逞しさに内心涙する。
 女中さんとの会話からわかった事もある。
 男性は確かにこの大店おおだなを仕切る若旦那であり、名前を藤霞というらしい。女性の方は白菊という名前なのだという。
 一息ついた頃を見計らい、若旦那がお待ちです、と女中に案内された。進んだ板張りの廊下の先には、その若旦那の姿がある。
 襖の前にいた若旦那こと藤霞は、歌那の姿を認めれば明るく声をかけてきた。
 緊張の幾ばくかは解れたが、まだ現実を認識しきれていない。
 それがありありとわかる硬さの残る歌那に藤霞は苦笑し、連れてきた女中に人払いをするように告げる。
 頭を下げて去っていく女中の背を見送ってから、おもむろに藤霞は歌那に向き合い、襖を開くと歌那に声をかけた――
 そして、今目の前にある光景に繋がる。
 促されるままに部屋に入れば、まず先程の女性……白菊と視線が合った。白菊は微笑んで「いらっしゃい」と口にしてくれる。
 部屋には、もう一人いた。
 そう、一人――仏頂面をして胡坐あぐらをかいている男性が増えていたのである。
 年の頃は歌那と左程変わらぬように見える。服装からして、何処かのお屋敷に奉公している書生といった風情であるが、その顔の造作はあまりにも整いすぎて美しい。――そう、記憶に焼きつく程に。

(あ、ああああ、こ、こいつ……!)

 そう、髪と瞳の色こそ違うけれど、人にはまれな美貌の青年のこの顔は、忘れたくても忘れられない……!
 気がつけば、歌那は青年を指さして遠慮ない大声で叫んでいた。
 人を指さしてはいけないよ、と見城が諭す姿がよぎったけれど、今はそれどころではない。

「あああっ! ひ、人殺し!?」
「お前、あの時の女!」

 叫び声を聞いて顔を上げた青年は、歌那の顔を見て一呼吸置いてから顔を顰めて叫び返した。
 間違いない、あの夜に歌那と出会い頭にぶつかった――歌那が血花事件の犯人と思っていた相手である。それが何故ここにと思えば、咄嗟に身構えてしまう。
 どうやら、あちらも歌那の事を覚えていたようである。叫びながら歌那を睨みつけて、青年もまた身構えている。
 叫び合いながら臨戦態勢を取る二人を見て、藤霞はふむと呟き首を傾げてみせる。

「よくはわからんが、顔見知りらしいな」

 その言葉を聞いて、青年が藤霞へと苛立ち交じりの声音で叫ぶ。

「誰が! こんな女!」
「人殺しの知り合いなんていません!」

 青年が叫ぶのと、歌那が叫ぶのはほぼ同時だった。お互いの言葉を耳にすれば、二人の表情は更に険しくなる。

「誰が人殺しだ? 喧嘩売りやがるなら買うぞ?」
「あんた以外に誰がいるってのよっ!」

 柄の悪い返しに、カチンときた歌那は負けじと言い返す。
 喧々囂々けんけんごうごう……というよりは、何処か奇妙な微笑ましさがあるいがみ合いである。
「人払いしておいて正解だったなあ」と呟く藤霞に、白菊が溜息交じりに言う。

「……とりあえず、落ち着かせた方がよくない?」
「そうだな、とりあえず落ち着けや。嬢ちゃんも、永椿えいちんも」

 手を打ち鳴らし二人の注意を引いてから、藤霞は襖を閉じる。そして座布団に座るように歌那に促すと、自分も本人のものと思しき座布団に腰を下ろす。
 二人は渋々といった様子でそれぞれ座り、若旦那に視線を向ける。

「まず、誤解は解いておいた方がいいか。嬢ちゃん、こいつは人殺しじゃねえよ」

 言われても、歌那の疑いの眼差しは消えない。青年からも険悪な視線が向けられている。どう見ても友好的になった様子はない。
 苦笑する藤霞は、青年を示しつつ更に説明を続ける。

「こいつは永椿、俺らの仲間だ」

 仲間と言われても、と思う。確かにこの二人は自分を助けてくれた、けれどその仲間と言われて信じていいのか。
 青年――永椿があの遺体のあった小路から飛び出てきた事だけは揺るぎない事実だ。
 そして……

(この人達は、多分……)

 歌那の胸にはおかしな確信があった。
 初めて会った時の彼らは違う今の髪と瞳の色。二人が振るった不可思議な力。第六感とも言える、説明出来ない感覚である。
 表情を硬くしたまま俯いて黙り込む歌那を、まあ無理もないと言いたげな表情で見つめながら更に説明は続く。

「俺達と一緒に事件を追っていただけだ。こいつは殺しちゃいねえ」

 そう言われても、簡単に納得出来ようはずもない。
 舌打ちしながら険悪な眼差しを向けてくる永椿を睨みつけながら、小さく唸るように唇を引き結ぶのみである。

「これは重症ね」

 白菊は困ったような表情で呟いた。
 そこで、藤霞がふと何かを思い出したように目を瞬き、苦笑いして謝りながら口を開く。


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