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槿花事件

砕ける平穏

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 燃える、燃える。
 火の粉が宙を舞い、焔が揺らめく。
 燃えているのは何?
 身を焦がしているのは、誰――?

 帝都の女性の心を掴んで離さぬものを挙げよと問いかけたなら、『あやかし戀草紙』の作者である槿花の名を出す者は多いだろう。
 切々と女性の心に訴えかける文章で、あやかしと人との恋を美しく綴るこの作家の素性は何一つとして明らかになっていない。
 性別も、年齢も、身分も何もかもが謎に包まれている。出版社の中でも編集長しか知らぬし、やり取りが禁じられているとう手堅さ。
 上流階級の世界の描写の緻密さから、良家の出であるに違いないという推測だけが為されている。
 素性を追う人間は多いけれど、全てが謎の向こうにある存在。それが槿花という作家だった。
 その日、小新聞に掲載された記事は大きな衝撃となり、帝都を震わせた――。

 眞宮子爵家敷地内にある、西洋風建築の建物。
 子爵が娘夫婦の新居として建てた離れの居間にて、奏子は一人で茶と菓子を喫していた。
 先程まで、書斎にて書類仕事をする朔を視界の端に捉えながら執筆をしていたのだ。
 だが欠伸を噛み殺した事が朔の目にとまり、顰め面で詰問する朔に隠し事を貫く事が出来ず、昨夜こっそり夜更かしをして読書……からの思いついた話を書き留めるという流れをしていた事が露見した。
 無理をするなと言っておいたのに、と盛大に嘆息する朔に、暫し執筆はお預けと休憩を命じて書斎を出され、現在に至る。
 割と調子がのっていたのにと恨めしく思うけれど、昨夜は三つ程新しい話の案が纏められたので良しとしよう。
 シノにお茶のお代わりを求めると、笑顔でシノは居間から出ていった。
 ひとつ息をついて伸びをする。確かに些か色々と詰め込んでしまったし、無理をした気もする。
 朔はけして奏子が無理をするのを見逃さない。どんな些細な不調でも直ぐ様見抜いて養生するように取り計らってくれる。
 少し熱を出しただけでも床について安静にするように言い、滋養のあるものを用意させたり、自ら奏子の好きな水菓子を買い求めに行ったり。
 更には、奏子がきちんと眠るか心配だと言っては、奏子が寝付くまで書類なりを持ち込んで枕元についてくれた。
 若干、私は子供かと思う事もあるけれど、朔は過保護である気がする。
 執筆できる環境を整えて後押ししてくれるだけでも有難いというのに、それ以上に過分な心遣いを感じるのだ。
 けれども、それなのに。
 奏子が気遣いに心が温かくなるのを感じて伝えようとすると、朔はそれをさせない。
 明確ならぬ拒絶、しかし朔は奏子の心が彼に近づこうとするのを感じると、明らかに奏子と距離を置こうとする。
 けして、奏子を心に近づけようとはしない。自分の領域に踏み込ませようとはしない。
 それは多分、この夫婦関係が何れ終わる仮初のものだからだろう……。
 もう一度息とついて、ふと窓外へと視線を向ける。
 そういえば、何やら外が騒がしい。遠くから人の叫び声のようなものが聞こえている気がする。
 今日は何かの人が集まる出来事があったのかと怪訝に思い、声のする方に眼差し巡らせていた時だった。
 木の床を踏み抜くのではないかという程の、音が近づいてきた。

「奏子っ!」

 荒々しい靴音と共にその場に怒鳴り込んできたのは、父であった。
 その形相はまさに鬼のよう。平素これほどに怒りを露わにした猛々しい父を奏子は見た事がない。
 只ならぬ事があったのだと、立ち上がった奏子は緊張した声音で問いかける。

「お父様? どうなさったの?」
「どうした、ではない!」

 日頃比較的温和で落ち着いた人格者として名高い父が、余裕も何もかもかなぐり捨てて怒鳴り返す。
 思わず強ばらせた奏子に、父は何かを投げつけた。
 咄嗟の事に受け止める事が出来ず、奏子の手から逃れたそれは、ひらひらと絨毯へと落ちる。

「お前が……。お前が、世間で騒がれている槿花という小説書きだという記事だ!」
「……え?」

 何を言われたのか、理解出来なかった。いや、理解するのを頭が拒んでいた。
 酷く緩慢な動きで、奏子は床に落ちた紙を拾い上げる。
 父が奏子に叩きつけたのは、主に娯楽記事が載る庶民向け小新聞だった。
 普段なら父は下らぬと断じてけして読もうとしなかった筈。それを何故父が手にしていたのだろうか。

「屋敷に詰めかけた新聞記者とやらが渡してきたのだ。もう帝都はこの話題で持ち切りだとな!」

 何でもこれが掲載されてから、新聞社に野次馬が子爵邸の門前に詰めかけているらしい。
 一目噂の主である奏子を見ようという野次馬や、奏子に話を聞きたいと申し出る新聞記者を押し返すのに家令達は必死。
 中には木に登って敷地の中を覗いてやろうとした者とているようで、下男たちが見つけては叩き出しているとか。
 女中達も誰も外に出る事も出来ず、入る事も出来ない状態であり、子爵邸は上を下にの大騒動の状態であると父は言う。
 奏子の顔から一切の色が消えた。
 血の気が引くなどという言葉すら生易しく思える。全身という全身から血が失せてしまったように、手足も何もかもが凍てついている。
 決して露見しないという確証はなかったけれど、今日のこの日まで厳重に厳重に守られてきた事実が帝都中に知れ渡っているというのだ。
 何故、露見したのか。
 編集長……シノの兄とのやり取りも、原稿の引き渡しも、シノを介して慎重に行っていた。
 シノと兄は仲が良い事で有名らしい、頻繁に訪れがあっても不思議はないのだという。
 二人は口が固い、彼らが情報を漏らすとは考えにくい。
 ならば何故、どうして――。
 直ぐ様『違う』と返答していれば、或いは馬鹿馬鹿しいと軽やかに笑って見せれば、事実無根の噂であるとする事が出来ただろう。
 大衆とは娯楽に飢えておりますね、と嫋やかに首を傾げて見せれば良かったのだろう。又は、名誉を貶めるものだと怒って見せれば良かったのだろうか。
 けれども、原因を求めて思索した一瞬が何よりも雄弁な答えとなった。
 それに、無意識であれど出来なかったのだ、創作に熱意を以て取り組む己を否定する事が。
 娘の蒼褪めた表情と、そこにある躊躇いから全てを察した父の表情が瞬く間に怒気で赤く染まる。
 風を切る音がしたとぼんやり感じた瞬間、頬に衝撃を感じながら奏子は床になぎ倒されていた。
 頬が燃えるように熱い。痺れたように感覚が無い。
 父に打たれたのだという事に気づいたのは、シノの悲鳴と硝子が落ちて割れる音が響いてからだ。
 茶を載せた盆を取り落としたらしいシノは、慌てて奏子を助け起こしてくれた。
 目の前がくらくらとしている。相当な力で打たれたのだろうと、ぼんやりと何処か他人事のように感じる。
 恐らく次々に告げられる事実に、言葉に、痛みに、理解が全く追い付いていないからだろう。
 シノは尚も怒鳴り続ける父に、奏子を庇いながら必死に制止を求め続けている。
 いけない、と奏子は思う。
 シノは仕えて長いとはいえ、あくまで使用人の身分だ。父に逆らうのはシノにとって良くない。
 涙がうっすら滲んで僅かにぼやけた眼差しの先、父は尚も声を荒げ続けている。
 女学校へ行かせたのは間違いだった、女が学をつけても禄な事にならない、切れ切れにそう聞こえてくる。
 普段はどちらかというと進歩的な考えをされる方なのに、と思いながら父を見上げる。
 ぼんやりとした様子を見て、父は奏子が反省していないと判断したのだろう。
 再び右手を振りかぶりながら、叫んだ。
 シノがそれを止めようと縋りついたけれど、父はシノを振り払い奏子へと手を振り下ろした。

「この、親不孝者め!」

 もう一度衝撃を受ける覚悟を決めて目を伏せる。シノの叫びが酷く遠く聞こえた気がした。
 けれども、何故か打たれる痛みは訪れない。
 待てども、それは訪れない。
 恐る恐る薄目を開けた先には、見慣れた美貌の主の姿がある。書斎に居た筈の奏子の夫が、父の腕を掴み押しとどめている。
 二度目の平手を防いだのは、朔だった。父の怒鳴り声を聞きつけてきたのだろうか。
 朔はあくまで冷静な声音で、さして力がこもっているとも思えぬ様子で父の腕を掴みながら告げる。

「野次馬も記者も全て退去させました。もう心配は要らない筈です」
「何を言うか! 心配だらけだ! この馬鹿者が……家名に泥を塗る真似をして……!」

 父は顔を顰めた、奏子へ眼差し向けて吐き捨てるように叫ぶ。
 父の怒りはこの時代の男性として、親として、不思議ではないものである。
 朔が特別だったのだ。理解し、受け入れ、手助けさえしてくれる彼の方が。
 奏子には、朔にうっすらと耳と三本の尾があるのが見えている。
 恐らく押しかけたという人間達を退去させるのに、あやかしの力を用いてきたのだろう。
 父に驚いた様子がないところを見ると、奏子にだけ見えているようだ。
 美しいあやかしの狐の横顔に、微かな怒りが滲んでいるように感じるのは気のせいだろうか。

「何故、作家として名声を築く事が家名に泥を塗る事になるのか理解しかねます」
「何が名声だ、女相手の通俗小説なんぞ……」

 朔の声音はあくまで落ち着いて淡々としてすらいる。
 最初こそ怪訝そうだった父が、何かを察したように突如愕然とした表情を見せた。
 気付いたのだ、朔が全く動じていないことに。それはつまり……。

「朔君、君は知っていたのか!?」

 妻が小説を書いていただけでなく、それを世に広めて騒がれていた。それを聞かされて動揺しない男はいないだろう。
 けれども、朔には欠片の動揺も見られない。それは何故か、知っていたからに他ならない。
 その事実に気付いた時、父は目に見えて動揺した。
 衝撃のあまりに震える声音の父の問いに、朔は黙したまま一度頷くと、静かに口を開いた。

「奏子が小説を書いている事も、世に名高い『槿花』である事も、全て」

 朔はそこで一度眼差しを奏子に向ける。
 打たれて赤くなった頬を見れば唇を噛みしめるけれど、すぐに父へと向きなおり抑えた口調で続きを紡いだ。

「知っていて私は奏子を受け入れた。……執筆を続けるように言ったのは私です」

 それどころか自ら執筆活動に協力していた事とすら、朔は告げた。
 父はその場に崩れ落ちるのではないかという程に愕然としていた。
 婿が妻の所業に顔を顰めるどころか、それを良しとして助力すらしていたという事実が、父を相当に打ちのめしたらしい。
 朔が此度の事態に自分とは全く反対の見解を示しているということに動揺した父は、最早奏子を打ち据えるどころではなくなった。
 茫然としたまま力を落した父の腕を、漸く朔は解放した。そして問いかける。

「大事な女性が好きな事に打ち込む姿を好ましいと思うのは、それを守ってやりたいと思うのは可笑しいと?」
「良家の娘に求められているのは、良き妻良き母となりて、跡継ぎを設ける事だけだ! 通俗小説を書いて人に見せびらかすなどという、小賢しい真似ではない!」

 そう、それが正しいのだろう。
 良き娘として、良き妻となり母となる。それがこの世において人の女が求められる唯一の事。それを外れた奏子が間違っている。
 人ならばそう評する。十人に訊いて十人がそうだと答えるだろう。
 けれども、朔は違う。
 人の理の外にあるあやかしである故、いや違う、それは朔という男性である故だ。
 彼が彼であるからこそ、奏子は抑える事なく偽る事なく、あるがままの自分と願いを受け入れて貰えた。
 朔が居たからこそ、奏子は何も失う事なく居られた――。

「私は『槿花』ごと奏子を受け入れました。だからそれを脅かす何者からも奏子を守ってみせます」

 朔はあくまで穏やかな声音で言葉を紡ぎ続ける。その言葉の奥に滾る何かを感じさせながらも、けして声を荒げる事をせず父と相対している。
 奏子を庇うように立ちながら、朔は毅然と言い放った。

「奏子の顔を曇らせるものは、誰であろうと許さない」

 それが義父であろうと容赦はしない、朔の怜悧な眼差しはそう告げていた。
 その言葉には微塵の迷いも躊躇いも存在しない。ただ静かに告げられた揺るがない朔の決意であった。
 朔に気圧されるように、父は唇を噛みしめながら二人へと背を向けて歩き出す。
 暫く外出は禁じる、と呻くような呟きを残して、父はその場を後にして行った。
 残されたのは無言のままの奏子と朔と、心配そうに奏子を見つめるシノの三人。

「ごめんなさい」
「……何故謝る」

 俯いたままの奏子は、不意にぽつりと呟いた。
 数多の言葉を駆使して小説を綴るというのに、その言葉しか浮かんでこない。その言葉しか紡げない。
 何に対して謝りたいのか、何を悪いと感じているのかも、今はあやふやだ。
 朔は宥めるように奏子の頭を撫ぜた。
 その温かな手のひらが優しければ優しいだけ、胸に言葉に出来ない感情が満ちていく。
 胸から溢れるこころが、透明な雫となって奏子の瞳から白い頬を伝い落ちていく。
 言葉にならないこころが、どんどん零れていく。
 朔は奏子の耳元に顔を寄せると、ただ『今は休め』と囁く。
 その囁きが耳を擽ったと思った次の瞬間、奏子の身体からふわりと力が抜ける。
 それを予想していたように受けとめ、横抱きに抱える朔。

「深芳野」
「はい、朔様」

 気絶するように眠りについた奏子を抱えながら、朔は低く狐の女の名を呼ぶ。
 表情を固くしたシノは、その怜悧な声音の裏に潜む滾る感情に息を飲みながら、膝をついた。

「元凶を探れ」
「……承知致しました」

 言って、朔はその場を後にする。奏子を休ませに行ったのだろう。
 シノ……深芳野もまた困惑を隠せなかった。
 何故この事実が明るみになったのだろうかと軽く混乱してすらいた。
 兄と自分のやり取りは不自然にならぬように注意を払った上、妖術を幾重にも重ねて慎重に行っていた。
 兄ではない、自分ではない。ならば……。
 思いついた可能性に、シノの表情が苦々しげに歪む。その可能性だけは、あって欲しくない。けれど――。
 シノは無言のまま歩き始めた。
 まずは兄の元へ、そして望にも伝えねばならない。そして……。
 何故にこの事態が起きたのか、胸に過る可能性を必死に打ち消しながら、あやかしの女はその場から姿を消した。
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