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槿花事件

願いの行く先

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 それから数日というもの、眞宮子爵邸の前には度々人だかりが出来ていた。
 朔がその都度対応しているらしい。時折宙を舞う狐火がちらほら見えるのは、朔が天狐としての力を使っている時だろう。
 対処しても対処しても集ってくる野次馬たちに、時折朔が苛立ったような溜息をついているのを知っている。
 父も四方八方に手を回し事態の収拾に当たっているが、娘の不祥事が原因だから、と陰口を囁かれているという話だ。
 聞いたところによると、この事件を大きくせぬため、そして原因を探る為に望の配下の狐たちも駆けまわってくれているらしい。

 奏子の顔からはすっかり活気が消え失せていた。
 この騒ぎの原因は自分であるのに、自分だけがこうして安全な場所に籠って守られている。
 何をする事も出来ずに、一日が過ぎるのを待つだけ。見かねたシノや朔が慰めの言葉をくれるのが申し訳ない。
 望もこの頃頻繁に訪れては、他愛ない話をして元気づけようとしてくれている。
 何時かはこんな日が来ると分かっていた筈だった。
 作品を世に出すことに伴う危険をわかっていながら、何時か露見した時の覚悟すら無かったというのだろうか。
 いや、危険と分かっていたなら、もっと早くに筆を置いて断ち切るべきだった。
 それが出来ないが為に、皆が今苦しんでいる。皆が受けなくてもいい苦痛に疲弊している。
 自分が何とかしなければならないのに、こうして苛立ちながら騒ぎを眺めているだけなんて。
 責めを負うべきは自分である筈なのに、誰も自分を責めようとしない。
 朔も、シノも。あの日以来、父も。使用人達も、誰も。
 責めてくれたほうが、陰口のひとつでも叩いてくれたほうが、まだ楽である気がする。
 無意識のうちに握りしめた手に力が籠り、ぽたりと赤い雫が白い肌を伝う。

「……何をしている。手が傷ついているだろう」
「……朔……」

 シノが慌てて薬や包帯の入った箱を持って戻って来る。
 それを受け取ると、朔は奏子を長椅子に座らせ、奏子の手を取り慎重に手当を始める。その手付きがあまりに優しくて、堪えようとしても奏子の瞳の端には涙が滲む。
 溢れて落ちそうになった雫を、朔が嘆息しながら指先で拭った。
 触れた指先の温もりに、奏子は気付けば叫んでいた。

「私の、私の所為なのに……!」
「お前は、何か悪い事をしたのか?」

 血を吐くような叫びに、返す朔の声音はあまりに静かで穏やかだった。
 取り繕っている様子はなければ、本音を覆い隠している様子もない。本心からそう言っていると伝わってくる。
 だからこそ、奏子を苛む罪悪感は更に増す。

「女なのに、小説を書いて。それだけじゃなくて、世間に出して、浮かれて」

 女としての分際を弁えずに、作家を気取って作品を世に送り出した。
 求められる女性としての姿を取り繕いながら、それに逆らいながら生きて来た。
 そのツケを今払っている。いや、それを本来であれば責められる咎のない人々に払わせている。
 俯く奏子に、それまで黙って聞いていたシノが、黙っていられないという様子で叫んだ。

「それなら、お嬢様の作品を持ちだしたのは私です! 責任は私にあります!」
「シノは悪くない! 私が、私が、変な夢を持たなかったら……!」

 ――わたしが、小説なんか、書かなかったら。

 奏子の裡をその想いが支配した。
 それは正しいと思うのに、それが今の状況を解決する唯一の方法だったというのに。
 奏子は何故か、それを口に出来なかった。喉元まできているのに、それを言葉に出来ない。
 何かがそれを拒絶させる。それだけは言いたくないと、奏子の中で叫んでいる。
 その時、頬に温かな感触を感じた。
 朔が大きな掌を奏子の頬に添え、薄い色彩の眼差しに真剣な色を宿しての奏子の瞳を覗き込んでいる。

「そんなに容易く諦められるものだったのか? ……切り捨てられるものだったのか? 槿花という存在は。お前の作品は」

 静かで穏やかだからこそ、尚の事胸の奥まで響き渡るような声音だった。
 怒りが揺らめいた気がした。朔は怒っているのだろう、奏子に対して。
 しかし、その怒りはこの事態を招いた事には向けられていない。
 朔は、奏子が自分の今までを否定し、そしてこれからを切り捨てようとしたことにこそ怒りを感じているのだ。
 奏子が、好きなものを好きと言えなくなることこそを、怒ってくれているのだ……。

「自分で自分を貶めるな。自らの手足を切り落とすような真似をしてくれるな……」

 眉を寄せながら苦しげに囁かれる言葉に、奏子は胸が熱くなるのを感じていた。
 朔は、時折叱りはするけれど、背を押して守ってくれている。
 こんな時でも、けして奏子を咎める事も否定する事もしない。世間で顔を顰められる行いであろうと、けして。
 朔は、本心から奏子という一人の人間を肯定してくれている。心があり、自ら考える事が出来る存在であると扱ってくれる。
 従属物ではない、自尊心を持った確固たる存在であると認めてくれている。
 それは、あやかしであるが故の価値観であるのかもしれない。けれども、それがあまりにも嬉しくて、切なくて、胸が痛い。

「お前は、ただ自分の好きな事を貫いただけだ。それの何が悪い?」

 奏子を見つめる朔の瞳は、とても優しい。
 ああ、自分はなんて幸せものなのだろう、と裡にて奏子は呟く。
 好きなものを、好きな世界を、そして奏子自身を。こうまで正面から向き合い、認めてくれる存在に出会えるなど。
 あまりに果報者過ぎると、涙が溢れて止まらない。
 自分ですら後ろめたさに閉じた世界を、こんな風に開いてくれた朔。自ら否定しかけた大切なものを、守ってくれた朔。
 胸が苦しい。
 様々な感情が綯交ぜになって、言葉を紡ぎたいのに何一つとして形になって紡がれてくれない。
 包帯を巻かれた手に無意識に力が籠りかけたのを、朔がもう片方の手にてそっと止める。

「奏子の手は、物語を紡ぐ手だろう? 傷つけるな」

 優しい苦笑いをしながら言う朔を見つめながら、奏子は諭された子供のようにこくりと頷いた。
 朔は、ふと傍にて心配そうな様子で二人を見つめていたシノへと目を向ける。
 視線で合図すると、シノは箱を手にして一礼すると、静かにその場から消えて行く。
 シノが下がり二人となり、無言となった二人の間に沈黙が満ちる。
 何か言いたいけれど言葉にならないままの奏子の耳に、不意に低く静かな問いかけが降りて来た。

「如何したい?」
「え……?」

 奏子は思わず目を見張り、朔を注視する。
 問いかけの意図が分からず、咄嗟に出たのは少しばかりふわふわとした調子の声だった。
 朔は、奏子の頬に添えていた手をゆっくり離すと立ち上がり、一呼吸おいて改めて口を開いた。

「多少骨は折れるが、騒いでいる連中の記憶を弄る事は出来る。この騒動自体を無かった事に出来なくもない」

 朔と望と、望の夫である義兄が力を合わせれば出来ない事もないと、美しい天狐は目を伏せながら呟く。
 それはこの騒動を治める解決策である。全ては無かった事になり、奏子も眞宮家も元通りの穏やかな日々を取り戻す。
 明らかになった事を全て再び光の当たらぬ場所へと戻して、元通りに。

「今を越えて女流作家『槿花』として歩き出すか、無かった事にして今まで通りを選ぶか」

 奥にあるべき名家の夫人が、職業作家として作品を世に発表していく。
 夫に従い控えめであるべき、尚の事慎ましやかな良妻賢母たる事が求められる存在が。
 前例のない道なき道を歩く者に吹き付ける逆風。
 それでも進む覚悟があるかを、問われている。
 朔は真っ直ぐに奏子を見つめている。どうしたい、という問いを宿した眼差しを向けながら。

 進むか、戻るか。

 どちらを良いとも悪いとも、朔は言わない。どちらを選んだとしても、朔はその選択を尊重してくれるだろう。
 だからこそ、その言葉には深い想いが込められている、問うている、奏子の心が本当に願う先を。

「支えてはやれる。だが立ち向かうのは奏子自身だ」

 夫である朔が矢面に立ち、何を声高に叫んだとしても、それでは今までと変わらない。
 奏子はあくまで夫に守られ続けたまま、その庇護下にて囀るだけ。
 それは、大事な存在を矢面にさらしながら安全な場所にいる今と、何が違うのだろう。

「向かい風はけして弱くはない。けれど、転びそうになった時にはそこにいて支えてやる。手を添えてやる」

 己のみを頼り道を切り開けとは言わない。弱音を吐くなとも言わない。
 心が挫けそうになったとしても、けして一人ではないのだと、朔は眼差しで伝えている。
 立ち向かえというのは、けして一人で戦えという意味ではないのだと伝えてくれている。

「私は」

 朔の眼差しの真剣さに後押しされるように、奏子は声を絞りだす。掠れてはいたけれど、そこには一つの決意が宿っていた。
 自分が生み出したものありながら、取り繕うために否定してきた作品。間違いなく本当の自分でありながら、世を恐れて否定し続けてきた『私』。
 今の自分を自分たらしめる、大事な世界。綴る己を、後ろめたい事のように隠しておきたくない。
 『私』を、光の元で歩ませたい。
 私は、物語を綴る事を愛している。私は、この世に送り出した物語を、子供たちを、愛している。
 愛しているものを、これ以上何に対しても恥じたくない――。
 朔は、奏子の言葉の続きを待ってくれている。急かす事をせず、彼女が確かに言葉を紡ぐのを、待っている。
 奏子は朔を見つめながら、一言一言、噛みしめるように大切に告げた。自分が真実望む選択肢を。

「私は、進みたい……!」

 透明な雫は瞳から溢れ、幾筋もの腺を描いては落ちていく。
 溢れだしたこころは、もう止められない。見なかった事にも、無かった事にもできない。
 奏子自身が、もうそれをしたくない。
 黙って見つめていた朔は、何度もしてくれたように、また指先で涙を拭ってくれる。
 そうして、何も言わずに温かな両腕で奏子を抱き締めた――。
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