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槿花事件

顔をあげて

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 とある華族の屋敷にて、その日夜会が開かれた。
 開化の家柄らしく、白熱灯に照らされた欧風の宴である。笑いさざめく貴顕淑女は皆揃って西洋の正装を身に纏う。
 人々の口に上る話題は、最近帝都を風靡したあの話題である。
 噂の主は、最近社交の席に出るどころか屋敷に籠り切りであるという。
 やはり女の身でありながら作家を気取っていた事が後ろめたいのだろうと囁く声には、暗い笑いが滲んでいる。
 申し分のない貴婦人であるとされた存在が見せた弱みを、ここぞとばかりに貶める材料とする意図がそこにある。
 それを窘めようとする人々もある。けれども、如何せん婦女子の分を弁えぬ行いをしたのは噂の主であるからと、擁護の声は弱弱しい。
 その時、会場にざわめきが走る。動揺は漣のように人々に伝わり、皆は驚愕を以てある方向を凝視する。

「まあ、眞宮様ご夫婦よ……」
「あんな事があったのに、このような場所にいらっしゃるなんて……」

 煌びやかな広間に現れたのは、一組の男女である。
 蠱惑的ですらある夢のような美貌の男性に、その隣に並んでも遜色ないうつくしさを持つ女性。
 黒の燕尾服の男性――朔は、繊細なレエスが美しい紅のドレスに身を包んだ女性の手を取り歩みを進める。
 女性――奏子は朔の隣で、臆することもなく艶やかに微笑んだ。
 先程まで会場のそこかしこで囁かれていた噂の主の、唐突な登場に会場の人々の動揺は収まらない。
 屋敷に閉じこもっていると言われていたのに、このような公の場に姿を現すなど。それも、全く後ろめたい様子もない堂々とした佇まいで。
 二人はごく自然な様子で主催である華族へと挨拶述べた後、居並ぶ人々に朗らかに挨拶していく。
 欠片の疚しさも感じさせない。周囲の顔色を伺い怯える様子もない。受け答えも歯切れよく澱みなく。むしろ動揺して言葉があやふやになるのは、対する人々の方だ。
 どう対応してよいのか迷う人々の中、ある婦人方が、意を決した風に近づいてきた。
 ごきげんよう、と挨拶もそこそこに、彼女達は恐る恐るといった様子を装い切り出した。
 怯えた様子を取り繕っていても、瞳には意地の悪い光が宿っているのを奏子は見逃さない。

「奏子様、その……」
「奏子様が、巷で評判の槿花という作家であるという噂は……」

 そんな恐ろしい事、嘘ですわよねえ、などと囁きで付加えながら、ご婦人方はあくまで控えめな声音で問いかけてくる。
 口元が笑っていますわよ、と心の中で呟きながら、それに対する奏子の返答は実に明確にして迷いのないものだった。

「ええ、事実ですわ」

 抑える事のないはっきりとした声で、ご婦人方を真っ直ぐ見据えながら答えを紡ぐ奏子。
 あまりにはっきりと囁かれる噂を事実と肯定して見せる奏子に、問うた女性たちは信じられないものを見るような表情で絶句していた。
 彼女達とすれば、噂の内容は『恥ずべき事』である。それを迷うことなく事実であると語る奏子に、返す言葉が出てこない様子である。
 朔は、そんな奏子と婦人方のやり取りを穏やかな表情で見守っている。
 何か問題でも? と逆に問い返しすらする様子を見るに至っては、思わずといった感じで口元に笑みが浮かぶ。
 言葉を失っているのは、奏子を揶揄していた人々も同様だった。
 非難を紡ぎたくても、奏子があまりに背を伸ばして堂々と立ち、その顔には華のような笑みすら浮かべているのを見て呆気にとられている。
 隣の朔も、妻の様子を咎める気配がない。むしろ、妻のその堂々たる様子を微笑ましく見つめているではないか。
 その全てが皆にとっては予想外。あってはならないことずくめでありすぎて、困惑が居並ぶ人々に拡がり行く。
 ある一人の男性が何とか我に帰ったかと思えば、顔に皮肉を滲ませながら朔へと声をかけた。

「面倒な……いや、先進的な奥方を持たれると気苦労も多そうですなあ」

 問いかけた男性に揶揄の意図があるのは、その表情からして明らかだろう。むしろ好意的であると思う余地がない。
 奏子へと蔑みの眼差し向けながら、男性は朔が溜息でもつきながら同意するのを期待していただろう。それによって、奏子が立場を無くすことを。
 だがしかし、対する朔は欠片も動じる事はない。ただ微笑みながら静かに返すだけだった。

「いいえ全く。奏子は私には勿体ない程に聡明で才能に溢れた素晴らしい妻です」

 朗らかといってすらいい程の口調である。
 男性達は美貌の主の微笑みと言ってのけた言葉の内容に、一瞬呆けた表情をしてしまう。
 奏子は奏子で、そこまで手放しに称賛されるとお世辞とはいえど照れる……と思う内心を慎ましく隠しながら、笑みを湛えたまま。
 朔はちらりと言葉が見つからずに目を白黒させる男性を一瞥すると、迷いのない口調で続けた。

「妻の才を認めるどころか貶め風下に置くなど。そんな、己を狭量かつ無能と喧伝するような事……恥ずかしくて、私には出来ません」

 奏子は思わず吹き出すかと思ったが、それは流石に自制した。
 朔もなかなかに婉曲かと思えば直球である。
 つまり、それが出来ないお前は狭量で無能だ、と揶揄には揶揄を返したのである。
 直接そう告げたわけではない。だから怒りに顔を赤く染めたとて、相手は怒るに怒れない。
 如何されました? と朔が追撃にように問いかければ、男性は適当な言葉で場を濁して二人から離れていく。
 奏子と朔は、それを見送ると一つ息をついてお互いの瞳を見つめ、笑みを交わした。

 何も恥じる事がなければ堂々とあれ。
 夜会に出向く事を決めた際に、朔が奏子へと告げた言葉だ。

 微笑みあう若い夫婦があまりに仲睦まじく幸せそうであり、恥じ入る様子もなく堂々たる振舞いをしている事に人々は驚く。
 遠巻きにする人々を他所に、奏子や眞宮家と親交のあった人々が徐々に徐々に彼女達の元へと歩み寄っていった。
 少しばかり控えめながらも、彼ら彼女らは他でもない奏子の口から真実を聞きたいと集まって来る。
 どのような問いにも、けして言葉を濁すことなく。時として厳しい意見をも真摯に受け止めて。
 奏子は朔の隣で背筋を伸ばして立ちながら、揺らがぬ光をその瞳に宿し、誠実に人々の問いかけに応え続けた。
 その夜会において、一際衆目を集めたのは言うまでもなく若夫婦であったという。


 今や眞宮子爵の令夫人たる奏子が、世に名高い作家の『槿花』である事を正式に認めた報せは瞬く間に帝都に広まった。
 そして夜会の翌日から、眞宮家には振る程の手紙が舞い込むようになった。その大半が茶会などの公の席への招きである。
 物見高い人々は、見世物にでもしようというのかここぞとばかりに招待状を送ってきたのだ。
 奏子は申し込まれた社交のお誘いを、片っ端から受けた。
 園遊会で、お茶会で、或る時は舞踏会で。
 取り囲まれて質問攻めにあっている時も、ひそひそと悪意を持った囁きを耳にした時も。
 集う有閑夫人達令嬢達の咎めるような視線を受けても、蔑むような殿方たちの視線受けても、決して怯む事なく。
 顔を真っすぐと上げて毅然とした様崩さず、背を伸ばしたまま其処に立ち続ける。
 その瞳には一かけらの怯えもやましさもない、信じる処を進む人間の強き光があるのみで。

 一方で、申し込まれた取材にも逃げる事立ち向かった。
 奏子は大新聞の取材を受けるだけでなく、小新聞の取材すら受けてみせた。
 醜聞を面白おかしく書き立てる大衆紙も、此処まで真っ向勝負で受けられてはあまり囃し立てる事出来ずと困り顔。
 取材の為に屋敷の外に陣取れば、お疲れ様ですと女中に茶を出してもらったというのは、何たる余裕と笑いを以て語られた。
 載せられた取材記事を見て顔を顰める者達は多かったが、それ以上にその揺らぐ事なき姿勢に称賛の溜息を零した者は多かったという。

 女はまだ生きにくい時代の中、恵まれている奥方の道楽よと顔を顰めるものがあっても、それから逃げることなく受け止めて。
 その間、一度として奏子は俯く事なく前を向き続けた。

 隣にて力強く支えてくれる、頼もしいあやかしの存在を感じながら。
 恥じることはないと己の物語を綴り続ける奏子に、少しずつ集まる賛同の声。
 その中心となったのは、以前から槿花を信奉していた女性たちや、女学校で奏子を取り巻いていた令嬢達。
 奏子の信奉者であり、かつ槿花の信奉者であった彼女達は「奏子様が槿花先生だったなんて素敵!」「流石、奏子様ですわ!」と目を輝かせて囁きあったらしい。
 眞宮家に届くようになった郵便物の中には、少女達からの憧憬の煌めき籠った文もあった事を記しておく。
 奏子は槿花として物語を綴り世に送り出すのを止めなかった。
 新たに世に出る事となった物語は、変わらぬ称賛を以て、いやそれ以上のものを以て受け入れられるようになっていった。
 完全に奏子に対する非難が止んだわけではないし、顔を顰める人々が居なくなったわけではない。
 けれども、毅然としながら歩み始めた奏子の姿は、少なからぬ人々の心に変化の兆しを齎したのだった……。

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