水の兎

木佐優士

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真実

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 最近、ノラの姿を見ないことに気づく。
 水兎や龍崎さんのことで頭がいっぱいだったから、そんなことにも気づけなかった。そろそろエサを求めて来る時間かなと思ってみても、気配がない。
 猫は飼い主に死に目を見せないという話を聞いたことがある。なんのあいさつもなしに去ってしまうなんて。そんなところもノラらしい。
 わが家からまた家族が減ってしまった。
 ばあちゃんのときを思い出す。当たり前に存在していたものが日常から消えてしまったときのことを。
 この世界に生まれ変わりがあるのなら、ばあちゃんはなにに生まれ変わったのだろう。ノラはなにに生まれ変わるつもりなのだろう。水兎のお母さんはちゃんと生まれ変わることができたのだろうか。
 僕は「あの日」、「神田咲馬」として生まれ変わったのだろう。ほかの誰でもない。僕は神田咲馬だ。神田伝馬、八重の息子、神田咲馬だ。だからこそ、僕は自分のルーツがあるはずの乳児院に行かなければいけない。真実に向き合うために、名前のなかったときの僕自身と出会うために。
 僕は二十三年前の四月の記事を図書館で日にち順に追っていった。
 ――あった。四月十五日、地元面に書かれている。「身元不明の児童」の文字が心の水面に落ちていく。
 僕が預けられていた施設の名前は「つぼみの園」だとわかった。
 図書館を出て、空を見上げる。すべてを包み込みそうな青空のなかに雲が浮いている。
 雲はどこまでが一つで、どこからが二つ目になるのだろう。形を変えながら空を泳ぐ姿に自由を感じた。

       *

「お電話で連絡させていただいた神田です。二十三年まえ、こちらでお世話になっていました」
 玄関口で声をかけた職員の女性は、はっとした表情をした。
「今施設長をお連れしますので、少々お待ちください」
 慌ただしく駆けていった職員を見送ると、まもなく年輩の女性が現れた。
 女性は瞳をうるませているように見える。
「施設長の富山とやまです。ようこそいらしてくださいました」
「お時間いただきありがとうございます」
「こちらこそお越しいただき感謝申し上げます。さあ、お上がりください」
 スリッパを出され、足を入れた。富山さんの後ろをついていく。
 小部屋へ通された。黒い革の椅子に座る。体がやや沈んだ。
「大きくなりましたね」
「……はい」
 なんと答えていいのかわからず、そう返事した。富山さんは僕の幼少期を知っていたとしても、僕にとっては初対面に等しい。
「すみません。そんなこと言われても困りますよね」
 そんなことはないと首を振る。僕は富山さんの慈悲深い表情を見つめていた。
 この人が僕の記憶の奥底で眠る景色を知っている。
 そして、ここが僕の最初の家だったのだ。
「僕は三年まえ、両親から生い立ちを聞きました。血がつながっていないことなどいろいろと。ここのところ自分とは何者なのかということを自問しています。僕がこちらにうかがったのはそうした経緯からです。きっと両親も知らず、僕の記憶にもない部分を補ってくれるんじゃないかと思っておじゃましました」
「――神田さんは保護された時点で未熟児でした。感染症など、身体的な異常がないか病院で検査入院したのち、このつぼみの園に入ることが決まりました。当時私は、役職こそついていましたが、いち職員でした。受け入れを決定したのは当時の理事長です。神田さんのことは覚えています。私が担当でしたので」
「どのような子だったのでしょうか」
「その小さな体からは想像もできないほどたくましい子でした。生命力がある、とでも言えばいいのでしょうか。もっと愛情がほしいと訴える子が多いなか、神田さんは泣き叫んで気を引くことはほとんどしませんでした。もっと泣いてもいいとさえ思ったほどです。しかし、それが無理をしているようには思えませんでした。大げさな表現かもしれませんが、その運命を受け入れてしまっている、という印象を持ちました。ほかの職員がどう思っていたのかわかりませんが、私はそのように感じていました」
 僕は僕の置かれた環境や状況を理解していたのだろうか。そんな小さい子にそこまでの意思、あるいは意志があるのだろうか。
 どんな環境下だったにせよ、僕は生きてきた。生き抜いてきた。だから、どういうめぐり合わせか、僕はここにいる。今日僕は、間違いなく自分の意思で来た。この強い思いを当時も持っていたということだろう。
 道は自分で切り開く。自分の目で確かめる。そこにどのような未来が待ち受けていたとしても、立ち止まっているよりずっといい。
「神田さんにお見せしなければならないものがあります。ご自身のルーツを探しておられる神田さんだからお見せできるものです」
「それはいったい――」
「神田さんが発見されたとき、一緒に手紙が見つかったのです。この二十三年間、ずっとこちらで保管していました」
 富山さんは本棚に向かう。上段にある青いファイルのなかから一枚の紙を取り出している。
「こちらです」
 デスクに置かれた紙はスーパーのチラシの裏に書かれたものだった。震えながら書いたようないびつな字が続いている。
 僕は三秒まぶたを閉じてから文字を目で追った。

 あなたが生まれてくることに対して不安に駆られる日々でした。この体には麻薬が取り込まれてしまっていたからです。あなたの父親が経営している病院もありましたが、最後、私は一人で生みました。逃げてきて、これを書いています。
 弱々しくも生まれてきたことに涙が出ました。でも同時に、激しい不安がまた私に降りかかりました。なぜなら、あなたはまったく泣かないからです。生まれてきてから、ただの一度も。
 この子に薬の影響で障害が出るんじゃないか。むしろ、もうすでに出ているんじゃないか。
 そんなことが何度も何度も頭をよぎります。私には育てる覚悟がありませんでした。
 あなたの父親は、私をこんな体に追いやっても、跡取りができることを期待していました。そのことがさらに怖かったのです。
 あなたを捨てたことがわかったら、私はきっと無事では済まされません。
 こうして置いていってしまうことをどうかお許しください。いえ、そんなことを言っても許されるはずがないことは承知しています。でも、ごめんなさい。
 なんだか少しもうろうとしてきました。私の手で殺してしまうまえにあなたを置いていきます。
 誰かのもとで新しい人生を送ってくれることを願っています。愛より。

 僕は混乱していた。初めから読み直す。龍崎さんからの告白が脳内で重なる。
 愛という名の女性、麻薬でむしばまれていた女性、水兎の母、蔵前組組長の愛人――
 どういうことだ。なぜだ。
 水兎の母が、僕の母……?
 僕が水兎の兄、僕が蔵前組組長の息子……。
 組に入ると決めた思いは、この体に流れている「血」がもたらしたということなのか――
「――田さん?」
 声が聞こえた。視線を上げると、富山さんが心配そうな表情で僕に呼びかけているところだった。僕は絡まっていた思考をいったん停止させる。
「ああ、すみません」
「大丈夫ですか?」
「ええ、ま、まあ。ちょっと整理のつかないことがありましたが、大丈夫です。現実を受け止めると決めたのは僕のほうですから」
「落ち着かれるかわかりませんが、よかったら施設内を覗いていきませんか?」
「――そうですね。お願いします」
 そうだ、僕は自分探しに来たのだ。僕がおよそ一年すごした環境を見ておきたい。手紙のことを考えるのはあとからでも遅くはない。
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